牡丹 ――牡丹燈籠・現代異聞 第一夜
お盆の期間、休みの日にたっぷり読んでもらおうと1作25000字以上の中編小説を4編、用意しました。
夏なので怪談話を。
第一作目は、牡丹燈籠をモチーフに新たに現代のテイストを盛り込んでみました。
ゾッとする感じ。
それを表現できていたら執筆した甲斐があります。
※怪談話しが苦手な方は読まれないでくださいね。
第一章 空室
家賃は三万二千円だった。
築四十五年。二階建て。外廊下。鉄の階段は、上るたびにかん、かん、と乾いた音を立てた。
私はその二階の二〇三号室に住んでいた。
四十八になる。妻と娘は七年前に出ていった。仕事は日雇いで、ある日とない日があった。借金は返しても、減らなかった。減らないものを返しつづける暮らしを私はもう七年していた。
このアパートには三世帯しか入っていなかった。
一階の一〇一に白木という年寄りがひとり。二階に私。あとは空室だった。
とりわけ私の隣の二〇四は長く空いていた。
私が越してきたときにはもう空いていた。それから五年空いたままだった。
大家はあそこはなかなか決まらんのですよ、と言った。それだけ言って、あとは何も言わなかった。
外廊下は東の端が行き止まりになっている。物干し台と古い給湯器があるだけの三畳ほどの隅だ。日が当たらない。昼でもそこだけ夕方の色をしている。
この建物には、三世帯しかいない。
それなのに、廊下の電気は毎晩ついている。
大家は、防犯のためだと言った。
何から誰を守るためのものかは、聞かなかった。聞けば答えが返ってきそうだったからだ。
そこには排水の溝が一本走っていた。溝の上のコンクリートにしみがあった。人が長いあいだ同じ場所に立ちつづけたような形の黒いしみだった。
私は五年そのしみを見て暮らした。見ていたが、考えたことはなかった。考えないでいられるうちはそれでよかった。
その二〇四に人が入ったのは六月の終わりだった。
若い男だった。
三十をいくつか過ぎたくらいに見えた。色が白く痩せていた。目の下に薄い影があった。
荷物は少なかった。段ボールが四つと折りたたみの机がひとつ。それだけだった。
二〇四の郵便受けには、前の住人の名札が残っていた。
剥がしそこねたまま、五年。
紙は日に焼けて、字が読めなくなっていた。
萩原が越してきた日、大家がその上から新しい紙を貼った。下の名前は、剥がさずに残したままだった。
私は、階段の下で煙草を吸っていて、その男が段ボールを抱えて三度階段を上り下りするのを見ていた。三度目に男が私に頭を下げた。
「隣に、入ります。萩原と、いいます」
声が細かった。
私は手伝いましょうか、と言った。金がなかったからだ。手伝えば、いくらかもらえるかもしれないと思った。
男は恐縮して、私に千円をくれた。
最後の荷物を私が運んだ。段ボールではなかった。白い布に包まれた四角い箱だった。両手で持つと思ったより重かった。冷たかった。
「それは、こちらへ」
萩原は私の手から、その箱を急いで受け取った。
受け取るとき指が触れた。萩原の指も冷たかった。
その白い布の底のところが湿っていた。私の掌に丸い形の濡れが残った。
六月の終わりでその日は晴れていた。荷物は車から、五分で運び上げただけだ。濡れる理由がなかった。
私は掌をズボンで拭いた。拭いても、匂いが残った。井戸端の石の匂いに似ていた。
その晩から、隣で声がした。
壁が薄い。生活の音はいつも筒抜けだった。だから、隣に人が入れば、音がするのは当たり前だった。
けれど、それは生活の音ではなかった。
話し声だった。萩原の声と女の声。
男はひとりで越してきた。荷物は段ボール四つだった。台所には、茶碗が一つしかないのを私は運ぶときに見ていた。
女の声は低かった。何を言っているかは聞き取れなかった。ただ、笑い声だけが、ときどきはっきりと壁を抜けてきた。
若い女の笑い声だった。
私は壁に耳をつけた。つけてから、やめた。
その笑い声には息がなかった。
人が笑うときには息を吸う音がどこかに混じる。ひ、と、吸って、それから、声が出る。その吸う音がなかった。
声だけが笑っていた。
翌朝、廊下が濡れていた。
私の部屋の前から、二〇四の前まで。点々と。
足跡だった。小さい。裸足の。
前の晩雨は降っていない。梅雨の晴れ間で朝から、からりと乾いていた。
私はその足跡を目でたどった。
足跡は二〇四の戸の前で終わっていた。戸のほうを向いて、揃っていた。
戸の前にしばらく立っていたように。
私は足跡の始まりのほうをたどってみた。私の部屋の前を通り過ぎ階段のほうへ。
階段の前で足跡は終わっていた。
下からは上がってきていなかった。
階段のいちばん上の段。そこから、始まっていた。まるで、そこにいきなり立ったように。
私は、その日、その足跡のことを考えないようにして、仕事に出た。
仕事は資材の積み下ろしだった。汗をかいて、日に灼かれて、昼めしを食って、夕方に帰った。帰るころには足跡のことは頭から、消えていた。
消えていたのに、階段を上りながら、私は一段ごとに数を数えていた。数えている自分に途中で気がついた。
何を数えているのか自分でもわからなかった。
部屋に入って、鍵をかけて、それから、気がついた。
階段は十三段ある。私はその晩、十四まで数えていた。
数え間違えたのだと思うことにした。
翌朝、下りながら、数えた。十三だった。
夜私は白木の部屋の前を通った。
一階のいちばん奥。一〇一。窓にいつも薄い明かりがついている。
白木は八十を過ぎている。昼間から、窓を開けて、外を見ていた。挨拶をすれば、返してくる。それだけの付き合いだった。
その晩、白木は窓から、私を呼び止めた。
「二〇四に、人が入ったね」
入りましたよ、と私は言った。
白木はしばらく黙っていた。それから、こう言った。
「あんた、夜中に、廊下で、音がしても、出なさんな」
どういう意味です、と私は聞いた。
白木は答えなかった。窓を静かに閉めた。
閉める間際にこう言った。
「戸を、開けなさんな」
その晩、私は初めて、それを聞いた。
午前二時だった。目が覚めた。何かの音で目が覚めたのだとわかった。
静かだった。
それから、聞こえた。
からん。
外廊下の突き当たりのほうから。
からん。ころん。
硬い、乾いた音だった。木をコンクリートに落としたような。下駄の音に似ていた。
けれど、下駄を履いた者が歩くにしては、間がおかしかった。
からん、と鳴って、しばらく間がある。それから、ころん、と鳴る。
一歩ずつ確かめるように。歩き方を思い出そうとしているように。
音は廊下をこちらへ進んできた。
からん。
ころん。
私の部屋の前で音が止まった。
息を殺した。
心臓の音が耳の中で鳴っていた。
音はしばらく動かなかった。
私は戸の内側を見ていた。安っぽい、鉄の扉。鍵はひとつきり。チェーンは根もとが錆びていた。
やがて、また鳴った。
からん。
ころん。
音は私の部屋の前を通り過ぎた。隣の二〇四の前で止まった。
それから、女の声がした。
「開けてください」
低い声だった。壁越しでもはっきりと聞き取れた。
「開けてください」
同じ調子で繰り返された。
抑揚がなかった。頼んでいるのでも責めているのでもなかった。ただ、決まった文句を読み上げているようだった。
「開けてください」
何度も。何度も。
私は時計を見た。午前二時十分。
「開けてください」
二時二十分。
「開けてください」
二時四十分。
声は少しも疲れなかった。同じ強さ同じ間同じ調子でそれは続いた。
午前三時を回ったとき。
隣の戸が開く音がした。
がちゃ、と、鍵が回った。
それから、ぎい、と、蝶番が鳴った。
萩原が自分から、開けたのだ。
声がやんだ。
そのあと、隣から、あの息のない笑い声が聞こえた。
私は朝まで眠らなかった。
朝の六時に隣の戸が開いた。
閉まる音がした。
私は窓の隙間から、廊下を見た。
誰もいなかった。萩原の戸は閉まっていた。
廊下の二〇四の前だけが濡れていた。
その日、私は仕事を休んだ。
第二章 足音
それから、毎晩だった。
午前二時。きっかりにそれは来た。
からん。ころん。
外廊下の突き当たり。私の部屋から見て、階段とは反対の行き止まりのほう。物干し台と給湯器のほかには何もない、あの隅。そこから、音は始まった。
上ってくる音は一度も聞かなかった。
階段は鉄だ。上れば、かん、かん、と建物じゅうに響く。私が上っても、萩原が上っても、そう鳴る。
それなのに、あの音はいつもいきなり廊下の突き当たりから、始まるのだった。
からん。
ころん。
そして、私の部屋の前で必ず、一度止まった。
足音は、階段を上ってこない。
毎晩、廊下の突き当たりから始まる。
つまり、あれは日のあるうちからそこにいる。
私が仕事に出るときも、帰るときも、あの行き止まりの暗がりで、こちらを見ている。
私はその間息を止めるようになった。何秒止めていられるかを数えるようになった。二十を数えるころにまた音が動く。二〇四の前へ。
それから、あの声が始まる。
「開けてください」
一晩に何度それを聞いただろう。
数えたことがある。ある晩、私は正の字をノートに書いていった。
二百を超えたところで鉛筆を置いた。
録音を聞き返したのは、昼の明るいうちだった。
それでも、聞き終えたあと、部屋の隅が見られなくなった。
音というのは、聞いた場所に残る。
私はその日、レコーダーを押し入れの奥へ突っ込んで、二度と出さなかった。
声は二百回まったく同じだった。
強くも弱くもならなかった。掠れも震えもしなかった。人が同じ言葉を二百回繰り返せば、どこかが必ず、崩れる。飽きるか苛立つか息が切れるか。
足音が私の戸の前で止まる時間を、私は数えるようになった。
短い晩で二十。長い晩で四十。
数えているあいだ、心臓の音が数と重なっていく。
数え終えるころには、どちらが自分の鼓動かわからなくなっていた。
それがなかった。
機械のようだ、と思った。思ってから、違う、と思い直した。
機械は頼まない。
あれは頼んでいた。ずっと同じ強さで頼みつづけていた。頼むということだけを覚えている何かがそれだけをしていた。
人が何かを頼むときには必ず、相手の返事を待つ。
だめだと言われれば、引き下がるか言い方を変えるか腹を立てるかする。
あれは待たなかった。返事を期待していなかった。
言えば、いつか、通ると知っている者の言い方だった。
石に水を垂らしつづけるような。
私は録音をしてみた。
仕事場で使う古いレコーダーがあった。枕もとに置いて、朝まで回した。
翌日、昼間の明るいうちに聞いた。
入っていた。
からんころん、と、はっきり入っていた。
けれど、おかしかった。
録音の中の音は、私が聞いたときよりずっと近かった。
私はあの晩その音を戸の外で聞いた。鉄の扉一枚を隔てて。
録音の中ではそれは部屋の中で鳴っていた。
私の枕もとで鳴っていた。
私の寝息のすぐ隣で。
私はその部分を三度聞き直した。
三度とも同じだった。
からん、と鳴って、ころん、と鳴る。そのあいだに私の寝息が入っている。
つまりあれは私の眠っているあいだ部屋の中を歩いていた。
札を貼る前のあの晩に。
私はレコーダーを止めた。
それから、電池を抜いて、押し入れのいちばん奥へ突っ込んだ。
二度と使わなかった。
私は寝る時間を変えてみた。夜の八時に布団に入る。そうすれば、二時には深く眠っている。そう考えた。
その晩、私は午前一時五十八分に目を覚ました。
次の晩も一時五十八分だった。その次も。
目覚ましはかけていない。時計も見ないようにしていた。それでも体が覚えてしまっていた。二分後にそれが来ることを私の体のほうが先に知るようになっていた。
濡れた足跡は日ごとに増えた。
はじめは一人ぶんだった。小さい、裸足の足跡。
七月に入るころには二人ぶんになっていた。
一つは小さい。もう一つはそれより少し大きい。踵の減り方が違うのが水の形でわかった。
二人が並んで歩いていた。
朝、私が仕事に出るときにはまだ乾ききっていない。日が高くなるころに消える。
消えたあとも、その部分の廊下だけ色が違って見えた。
コンクリートにしみが残るのだ。
そのしみは洗っても、落ちなかった。私はいちどデッキブラシで擦ってみた。擦った翌朝、しみは前より濃くなっていた。
萩原の郵便受けには不在票がたまっていった。取りに行った気配がなかった。八月には口から、あふれていた。
私はいちどそれを押し込んでやったことがある。押し込んだ指にぬめりがついた。中の紙がぜんぶ湿っていた。
郵便受けのいちばん奥に赤いものが詰まっていた。指で引き出した。造花だった。牡丹の花だった。私は、そのときはまだその花に意味があるとは思っていなかった。
萩原には昼間何度か会った。
会うたびに痩せていた。
七月の半ばには頬がこけていた。目の下の影が青黒くなっていた。それでいて、機嫌はよかった。
「よく眠れてるんです」と萩原は言った。
そうは見えなかった。
「夜、来てくれる人が、いるので」
私は聞いた。彼女さんですか、と。
萩原はうれしそうに笑った。
「ええ。去年、亡くなったんですけど」
言い方があんまりなんでもないので、私はすぐには意味がわからなかった。
わかってから、背中が冷えた。
萩原はそれを隠していなかった。恥じても、怯えても、いなかった。
天気の話をするように、それを言った。
「毎晩、来てくれるんです。ひとりじゃ、ないんですよ、僕は」
私は何も言えなかった。
別れぎわに萩原はこう付け足した。
「あの人たち、戸を、開けないと、入れないんです。だから、僕が、開けてあげないと」
あの人たち、と、萩原は言った。
たち、と。
足跡が二人ぶんだったことを私は思い出した。
その晩、音はいつもより早く来た。
午前一時。
からん。ころん。
私の部屋の前で止まった。
いつもなら、二十数えるうちに動く。
その晩は動かなかった。
三十を数えた。四十を数えた。
音は動かなかった。
私は立ち上がった。足音を立てないように、戸口へ寄った。
覗き穴があった。安い、魚眼の。
覗いた。
外廊下の蛍光灯がいつものように、点いていた。手すりが見えた。向かいの家の屋根が見えた。
誰もいなかった。
何もいなかった。
私は目を離さなかった。
そのまま、見ていた。
すぐ目の前でからん、と、鳴った。
覗き穴の向こうで。
何も見えないまま、音だけが鳴った。
私は動けなかった。
それから、覗き穴が暗くなった。
白い、蛍光灯の光がふさがれた。何かが穴の前に寄ったのだ。
魚眼のレンズいっぱいに黒いものが詰まった。
私は目を離せなかった。離せば、離した瞬間に何かが起きる気がした。
黒い面はしばらく動かなかった。
それから、その真ん中に白いものがひらいた。
目だった。
私の目と覗き穴を挟んで一寸ほどの距離でそれは開いていた。
私を見ていた。
覗き穴は、こちらからは向こうが見えて、向こうからは見えない。そういうものだ。
それが私を見ていた。
声がした。
「あけて、ください」
それから、その声は私の名を呼んだ。
姓と名を。両方。
私はあの日萩原に名乗っていない。表札も出していない。郵便物は集合ポストで名前の欄は剥がしてある。
それでもそれは私の名を正しく呼んだ。
私はその晩、便所にこもった。
明かりを点けたまま、朝まで便器の蓋の上に座っていた。
音は私の戸の前から、二〇四の前へ移った。
「開けてください」
いつもの二百回が始まった。
三時過ぎに隣の鍵が回った。
がちゃ。
ぎい。
そして、あの息のない笑い声。
私は両手で耳を塞いだ。
塞いだ掌の内側でそれはなぜかよく聞こえた。
笑い声のあいだにもう一つ音が混じっているのがその晩、初めて、わかった。
かさ、かさ、という乾いた音。
枯れた枝をこすり合わせるような。
それが笑い声のたびに鳴っていた。
かさ、かさ。
その音を私はあとになって、思い出すことになる。
何を擦り合わせている音かそのときはわからなかった。
わかったのは、萩原の部屋の畳に、白いものが散らばっているのを見たあの晩だった。
わかってからは、その音を思い出すたびに口の中が鉄の味になった。
第三章 灯り
私は窓から、見るようになった。
戸は開けない。覗き穴も覗かない。
台所の擦り硝子の窓。そこを指の幅だけ開けて、外廊下の突き当たりのほうを見た。
七月二十日の晩。私は初めて、灯りを見た。
午前二時。廊下の蛍光灯は点いていた。
その蛍光灯の白とは別の白が突き当たりの暗がりに浮かんでいた。
丸い。
提灯のような形をしていた。手のひらを二つ合わせたくらいの丸い、白い光。
それが人の腰の高さに浮いていた。
ゆっくりと揺れていた。
灯りの高さは、いつも同じだった。
腰のあたり。人が提灯を提げて歩くときの高さだ。
けれど、その光は床を照らさない。
照らすためのものではないのだと、何度目かの晩に気づいた。あれは、見つけるための灯りだ。
私はそのときあることに気がついた。
光っているのに、何も照らしていない。
提灯なら、下のコンクリートが明るくなる。手すりが光る。壁に影ができる。
その光の下は暗いままだった。
床も、壁も手すりもまったく明るくならなかった。
光だけがそこにあった。
窓の隙間から見るとき、私はいつも息を止めていた。
息をすれば、硝子が曇る。曇れば、拭かなければならない。
拭く音で、こちらが起きていることが向こうに知れる。
起きていると知れた晩は、声が少し速くなった。
あとになって、私はそのことを何度も考えた。
提灯なら、風で揺れる。中の火が揺れるからだ。
あの光も揺れていた。
けれど、あの晩廊下には風がなかった。物干し竿も、洗濯ばさみもまったく動いていなかった。
光だけがひとりで、揺れていた。
その白い丸のうしろに二つ影があった。
背の高いほうが前。低いほうがうしろ。
前の影がその光を提げていた。
からん。
ころん。
影がこちらへ動いた。
私はその足もとを見た。
見て、しまった。
歩いていなかった。
足は動いていなかった。並んだまま、床から、少しだけ離れていた。
それなのに、からんころん、と、下駄の音だけが律儀に鳴っていた。
一歩ぶん進むごとに一度ずつ。
歩き方を覚えている音だけがそこにあった。
私は昼のうちに廊下の突き当たりを調べた。
物干し台の下。給湯器の裏。排水の溝。懐中電灯で隅から隅まで照らした。
何もなかった。蜘蛛の巣と枯れた蔦と錆とあの黒いしみだけだった。
しみに手を当ててみた。冷たかった。真夏の午後の二時にそこだけ氷を置いたあとのように、冷たかった。
手を離すと掌にしみの形が写っていた。洗っても、その日いっぱい、消えなかった。
私は窓を閉めた。
指が震えて、二度桟から、外れた。
布団にもぐった。
その晩は私の戸の前で音は止まらなかった。素通りして、二〇四の前へ行った。
少し、ほっとした。
ほっとした自分がいやだった。
隣の萩原が開けているあいだ私は助かっている。それはそういうことだった。
あの音が私の戸の前を素通りしてくれるように。あの声が隣で四時間費やしてくれるように。
私は毎晩そう願っていた。願っていることに途中から、気がついた。気がついてからもやめられなかった。
翌る晩私はまた窓を開けた。
見なければいい。それはわかっていた。
それでも見ずにいられなかった。
見ないでいると耳だけが暗闇の中で鋭くなる。音がどこにあるかわからなくなる。わからないほうがこわかった。
だから、私は見た。
白い丸が二〇四の戸の前で止まっていた。
戸のすぐ前。
その光の下で影が二つ。
「開けてください」
背の低いほうが言っていた。
若い女の声だった。
言うたびにその影の頭が少し、傾いた。
何かを覗き込むように。
戸には鉄しかない。覗くところなどない。
それでも傾いた。
そのうちに私は気がついた。
その影は戸を覗いているのではなかった。
戸のところに耳を当てていた。
中にいる者の息を聞いていた。
眠っていれば、こう言う。
「開けてください」
起きていれば、こう言う。
「開けてください」
言葉は同じだった。
変わるのは間だけだった。眠っている者にはゆっくりと。起きている者には少し、速く。
急かすように。
考える暇を与えないように。
起きているか。眠っているか。どちらの側から、戸へ近づいているか。
それを確かめてから、また言うのだ。
「開けてください」
三日後私は二〇四の中を見た。
見るつもりはなかった。
その日、萩原が昼間玄関の戸を開け放していた。暑い日だった。風を通していたのだろう。
私が階段を上ってくると萩原は部屋の奥にいて、こちらに背中を向けていた。
座卓の前に正座していた。
座卓の上に湯呑みが二つ置いてあった。
萩原はその向かい側に向かって、話しかけていた。
「うん。うん。そう」
うなずいていた。笑っていた。
向かいには誰もいなかった。
座布団だけが敷いてあった。
私はそのまま、通り過ぎるつもりだった。
通り過ぎながら、部屋の奥のテレビが目に入った。
消してあった。
黒い、大きな画面。
そこに部屋が映っていた。
座卓が映っていた。萩原の背中が映っていた。
そして、その向かいの座布団の上に白い顔が映っていた。
画面の中だけに。
髪が長かった。
うなじのあたりまでこちらへ垂れていた。
顔は下を向いていた。萩原の話を聞いているようだった。
私は足を止めていた。止めた覚えはなかった。
テレビの中のその顔が動いた。
ゆっくりと上を向いた。
そして、画面の中でこちらを見た。
戸口に立つ私を。
私は走った。自分の部屋に飛び込んで鍵をかけて、チェーンをかけて、その場に座り込んだ。
心臓が喉のあたりで鳴っていた。
その日から、二〇四の戸が開いていても、私は廊下の外側を壁に貼りつくようにして、通るようになった。
あれはいつも突き当たりから、来る。上ってくるところを見た者はいない。
つまりあれは日のあるうちから、あそこにいる。
私が仕事に出るときも。帰るときも。廊下を歩いて、鍵を開けて、部屋に入るときも。
あの行き止まりの暗がりに立って、こちらを見ている。
そう思いはじめてから、私は廊下を歩くとき東を向けなくなった。
それでもいちどだけ向いた。
九月の昼だった。突き当たりの暗がりをまっすぐに見た。
何もいなかった。物干し台と給湯器と黒いしみだけだった。
見終えて、私は少し、笑った。
笑いながら、部屋に入って、鍵をかけて、それから、思い出した。
あの暗がりに物干し竿が二本掛かっていた。
あのアパートで洗濯物を干す者は私しかいない。
私の竿は一本きりだ。
白木にその話をした。
一〇一の窓の下でしゃがみ込んで声を落として、全部話した。
白木は最後まで黙って聞いていた。
聞き終わってから、こう言った。
「見たな」
私はうなずいた。
白木は私の顔をしばらく見ていた。それから、いやな顔をした。同情でも憐れみでもなかった。
片づけの終わった部屋にまだ荷物が残っているのを見つけたときの顔だった。
「見ると、覚えられる」
覚えられる、と、私は繰り返した。
「顔と、名前をな。いっぺん覚えられたら、もう、離れん」
私は名前を呼ばれたことを話した。
白木は目を閉じた。
「そりゃ、いかん」
どうすれば、と私は聞いた。
白木は答えなかった。
かわりにこう言った。
「二〇四のは、もう、だめだ。あれは、自分で、開けとる。自分で開けた者は、助からん」
そのあと白木は私に指を一本立てて見せた。
「一つだけ、覚えとけ。あれは、向こうからは、開けられん」
だから。
「開けるのは、いつも、こちら側の人間だ」
私は白木に聞いた。それなら、開けなければ、いいだけではないですか、と。
白木は笑った。
歯のない口を開けて、声を出さずに笑った。
それから、こう言った。
「わしも、若いころは、そう思うとった」
どういう意味です、と私は聞いた。
白木は答えなかった。
かわりに自分の左手を私に見せた。
薬指と小指がなかった。
根もとから、きれいになかった。
「わしは、いっぺんだけ、開けたんだ」
それだけ言って、白木は窓を閉めた。
第四章 造花
八月に入った。
その朝私の戸の前に花が落ちていた。
造花だった。
牡丹の花。布でできた安いものだ。葬儀の花輪や墓に供える束にまぎれているような。
赤い。
私はそれを拾わなかった。爪先で廊下の端へ寄せた。
寄せるとき花が裏返った。
茎の切り口に土が詰まっていた。黒い、湿った土だった。
造花に土はつかない。
店で買って、袋から出して、そのまま供えるものだ。土に挿さっていた花だけがそうなる。
造花は、捨てても翌朝には戻っていた。
戻るたびに、土の匂いが濃くなった。
四度目からは、捨てるのをやめた。
やめてから気づいた。あれは供えられているのではない。置き場所を確かめられているのだ。
私はそのときそれを墓場の花だと思った。
思っただけでまだどの墓かまでは考えなかった。
夕方帰ってくると花は戸の前に戻っていた。
拾って、階段を降りて、道の反対側のごみ集積所へ捨てた。
翌朝、戸の前にあった。
土がついていた。
墓地からの帰り、私は靴を捨てた。
井戸の水とも、雨とも違う濡れ方をしていたからだ。
新しい靴を履いた翌朝、その靴の底も濡れていた。
濡れているのは靴ではないのだと、そのとき気づいた。
私は三度捨てた。三度とも戻ってきた。四度目に私はそれを部屋の隅に置いた。
燃やそうともした。
造花の芯には、白い粒が埋まっていた。
爪の先ほどの、乾いた粒だ。
骨だと気づいたのは、萩原の部屋の畳を見たあとだった。
気づいてからも、私はその花を捨てなかった。捨てても戻ってくると、もう知っていた。
流しの上でライターの火を近づけた。布は燃えなかった。焦げもしなかった。
かわりに匂いが立った。髪を焼いた匂いだった。
私は火を消した。花を水で洗った。洗いながら、指の腹に細かい、硬いものが当たった。
花のいちばん奥。芯のところ。そこに白い粒が一つ埋まっていた。爪の先ほどの乾いた白い粒。
私はそれを見なかったことにした。花ごと部屋の隅に置いた。
置いてから、その晩はいつもより音が早く来た。
牡丹は増えた。
台所の流しの中に一つ。
洗濯機の槽の底に一つ。
仕事用の鞄の内ポケットに一つ。
どれも赤かった。どれも湿っていた。触ると指に土の匂いが残った。
決定的だったのは八月の五日の朝だ。
目を覚ますと枕もとに置いてあった。
私の頭のすぐ横に。
茎をこちらへ向けて、花を私の顔のほうへ向けて。
私は飛び起きて、部屋を調べた。
戸には鍵とチェーンがかかっていた。窓は内側から、締まっていた。郵便受けは、越してきたときから、板を打ちつけて、塞いである。
どこからも入れなかった。
それでもそれは内側にあった。
私は、その朝部屋じゅうの隙間という隙間を塞いだ。
換気扇にガムテープを貼った。風呂の排水口に蓋をして、上に水を張ったバケツを載せた。窓の桟に目張りをした。
それでも翌朝、牡丹は増えていた。
台所の湯呑みの中に一つ。
茶を飲もうとして、口に入りかけた。
私は萩原に聞いた。
その日、萩原は部屋の前でしゃがんでぼんやりとしていた。
顔が灰色だった。
唇が乾いて、皮がめくれていた。それでいて、髪だけが濡れているように、光っていた。
その萩原の首に痣があった。
両側に。指の形をしていた。細い、女の指の。
その痣の指の数が片側に五本ずつ。
私はそれを見ないふりをして、聞いた。あの人はどういう人だったんですか、と。
萩原はうれしそうに話した。
露子さん、といった。
去年の夏に死んだ。事故だった。詳しくは言わなかった。
その日、露子といっしょに伯母も死んだ。米原さん、といった。
二人だった。
足跡が二人ぶんだったことを私はまた思い出した。
「僕、その日、行けなかったんです」
萩原は言った。
「呼ばれてたんです。会おうって。でも、仕事が、抜けられなくて。行かなかった。だから」
だから、と、萩原は言って、笑った。
「いま、来てくれてるんです。約束だから」
私は聞いた。こわくはないんですか、と。
萩原はきょとんとした顔をした。
それから、私の目をまっすぐに見て、こう言った。
「だって、僕を、選んでくれたんですよ」
その目には何も映っていなかった。
私は萩原に聞いた。あの人はなぜあなたのところに来られるんですか、と。
萩原は少し、考えてから、答えた。
「僕が、教えたからです」
何を、と私は聞いた。
「住所です」
萩原はうれしそうに言った。
「お墓に、置いてきたんです。ここに、来てくださいって」
私はその場で背中が粟立った。
「そうしないと、来てくれないから」
萩原は自分の膝の上で両手をきちんと揃えた。
「向こうからは、勝手には、来られないんですよ。呼ばないと」
呼んだんですね、と私は言った。
萩原はうなずいた。
うなずいてから、初めて、少しだけ目を伏せた。
「呼ばなきゃ、よかったのかな」
その一言だけがこの男のまともな言葉だった。
それを最後に、萩原はまた笑った。
瞳が乾いていた。
私はその日、萩原の腕を掴んだ。冷たかった。氷ではない。土の冷たさだった。長く日の当たらない、床下の土の。
その日から、萩原の部屋の前を通ると匂いがするようになった。
戸を閉めていても、匂った。花立ての古い水の匂い。それに線香。それに土。
廊下に立って、その匂いを嗅いでいると鼻の奥が痛くなった。
墓地の匂いだ、と、気がついたのはあとになってからだ。
部屋の中に墓地があった。
私は、その匂いを自分の部屋にも持ち帰るようになった。
服につく。髪につく。
風呂で洗っても、翌朝、枕にその匂いが残っていた。
仕事場で若いのに、言われた。
線香くさいですね、と。
私は笑ってごまかした。ごまかしながら、その日、一日じゅう自分の腕の匂いを嗅いでいた。
私は墓を調べた。
市営の墓地は駅の向こうの坂の上にある。名前は萩原の話から、拾えた。
午後のいちばん暑い時間に行った。
明るいうちなら、大丈夫だと思っていた。
墓はすぐに見つかった。
二人の名が並んで彫ってあった。露子。米原。同じ日付。去年の八月。
花立てに水が入っていた。
新しかった。澄んでいた。この炎天で置きっぱなしなら、濁って、藻が湧く。
それが汲みたてのように、澄んでいた。
花立てには何も挿さっていなかった。
花を抜いた跡だけがあった。
私はその花立てに指を入れた。
底に何か当たった。
つまみ出した。
赤い、布の切れ端だった。
牡丹の花びらだった。私の部屋の隅にあるものと同じ布同じ色同じ縫い目だった。
抜くときにちぎれて、残ったのだ。
私はそれをその場に落とした。
落として、手をズボンで拭いた。
何度拭いても、指の匂いは取れなかった。
私は屈んでその空の花立てを見ていた。
足もとに水が垂れていた。
点々と。
私の靴の先から、墓のあいだの細い通路へ。
そして、参道のほうへ続いていた。
その水の跡を私は目で追った。
追ううちにわかった。
その前に私は墓の前の供え物を見た。
線香立ての灰の上に紙が一枚置いてあった。雨に濡れて、乾いて、皺になっていた。
開いた。
住所が書いてあった。
このアパートの住所だった。二〇四号室と部屋の番号まで書いてあった。
字は丁寧だった。若い男の字だった。
私はその字を知っていた。萩原が大家に出した書き置きの字と同じだった。
自分で書いて、置いていったのだ。ここに来てくださいと。
あの人たちは道を教わっていた。教えたのは萩原だった。
その跡は墓地の外へ向かっていた。
私が来た道と同じ方向へ。
私の帰る道と同じ方向へ。
私は走って、坂を下りた。
振り返らなかった。
振り返らなかったが、坂の途中でうしろから、聞こえた。
からん。
ころん。
真昼の白い日射しの中でそれは鳴っていた。
坂を下りきって、私は振り返った。
坂道には誰もいなかった。
蝉が鳴いていた。アスファルトが白く光っていた。
その白い坂の上のほうから、下のほうへ。
点々と水の跡が続いていた。
跡は私の足もとまで来ていた。
私の靴のすぐうしろで終わっていた。
第五章 札
白木は私に札をくれた。
古いものだった。
薄い紙。縁が茶色く焼けている。表に墨で何か書いてある。字とも絵ともつかない。何十年も簞笥の底で寝ていたような匂いがした。
「前のときの、余りだ」
前のとき、と、私は聞き返した。
白木は答えずに数を指で示した。
「八枚ある。戸口に一枚。窓に一枚。台所の換気扇に一枚。風呂の排水口に一枚。あとは、隅に、貼れ」
それだけで私を追い返そうとした。
私は粘った。萩原はどうすればいいのか、と聞いた。
白木は面倒くさそうにもう一組を出してきた。それと細い紐のついた小さな守り袋を投げてよこした。
札を貼ったのは八箇所。
戸口。窓。換気扇。風呂。便所。押し入れ。それに四隅。
どれも水と外気の通る場所だった。
白木は、そこから入ると知っていた。知っている者が、この建物に何人いたのだろう。
「首から、かけさせろ。風呂でも、外させるな」
それから、白木は初めて、声を落とした。
「三つ、覚えとけ」
一つ。剥がすな。誰に頼まれても、どんな声で頼まれても、剥がすな。
二つ。名を呼ばれても、返事をするな。返事をした者はそのぶん覚えられる。
三つ。
札は日に日に黒くなった。
墨が滲むのではない。紙そのものが水を吸って、内側から黒ずんでいく。
貼った八枚が、同じ速さで黒くなった。
いちばん黒いのは、いつも戸口の一枚だった。
「戸の前で、泣いても、開けるな」
泣くんですか、と私は聞いた。
守り袋の中身を、私は最後に見た。
土がひとつまみ、入っているだけだった。
墓地の匂いのする土だ。
あれで何かを防げるとは、いまでも思えない。それでも萩原は、あれを握って眠っていた。
白木は私の顔をじっと見た。
「泣くさ。あれは、なんでも、するよ」
私は白木に聞いた。あなたはなぜ無事なんですか、と。
白木はしばらく私を見ていた。
それから、こう言った。
「わしは、いっぺんも、覗いとらん」
見なければ、覚えられん。覚えられなければ、名を呼ばれん。呼ばれなければ、返事もせん。
「あんたは、もう、覗いたな」
私は答えられなかった。
私はその足で二〇四の戸を叩いた。
萩原はなかなか出てこなかった。
出てきたときには、戸に体を預けるようにして、立っていた。
昼の光の中で見るとひどかった。
皮膚が乾いていた。頬に細かい罅が入って、白く粉を吹いていた。首の痣は色が変わって、緑がかっていた。
私は札と守りを差し出した。
萩原はそれを見た。
見た瞬間萩原の顔が変わった。
すがるような顔だった。
私がこの男の素の顔を見たのはそのときが初めてだった。
「……いいんですか」
いいも悪いもない、と私は言った。貼りなさい、と。
萩原は札を両手で受け取った。守りを首にかけた。かけてから、両手でその袋を握りしめた。
それから、こう言った。
「昼は、こわいんです」
声が震えていた。
「昼になると、こわくて、たまらない。夜になると、こわくなくなるんです」
私は黙っていた。
「それが、いちばん、こわい」
萩原はそう言って、自分の口を押さえた。押さえた指の隙間から、息が洩れた。泣いているのだとしばらくして、わかった。
その日、私は自分の部屋の八箇所に札を貼った。
戸口の内側。台所の窓。風呂の排水口。換気扇。押し入れの中。便所の小さな窓。それから、四隅。
貼りながら、手が震えた。
糊がうまくつかなかった。
最後の一枚を戸口の上に貼り終えたとき外が暗くなっていた。
私は二〇四の壁を叩いた。
返事があった。萩原も貼り終えたようだった。
その晩を私は待った。
午前二時。
からん。
ころん。
音はいつもの晩とまったく同じに来た。
突き当たりから。
私の部屋の前で止まった。
私は布団の中で目を開けていた。
声がした。
「開けてください」
私は返事をしなかった。
「開けてください」
返事をしなかった。
十回。二十回。
同じ調子だった。
やがて、それは私の戸から、離れた。二〇四の前へ移った。
「開けてください」
そこでも同じことが始まった。
その晩、隣の鍵は鳴らなかった。
一度も。
朝が来て、音が消えた。
私は布団の中で涙が出た。助かった、と、思った。
朝の光の中で私は貼った札を一枚ずつ見て回った。
どれもそこにあった。八枚。ちゃんとあった。
私はその日、久しぶりに飯を二膳食った。
風呂にも入った。湯につかりながら、鼻歌を歌った。
そのとき、風呂場の排水口に貼った札が目に入った。
札の下の縁がめくれていた。
糊が剥がれたのではない。何かが下から、そっとめくり上げようとした形にめくれていた。
その考えがどれほど甘かったか。
翌る晩声が変わった。
午前二時。からん。ころん。私の戸の前。
「あけて」
若い、女の子の声だった。
「あけて。おとうさん」
私は息を止めた。
娘の声だった。
七年聞いていない。声変わりもしていない、小さいころのあの声だった。
「おとうさん、あけて。さむい」
私は両手で耳を塞いだ。
「さむいよ。ここ、くらいよ」
塞いだ掌の内側でその声は、はっきりと鳴った。
「あけてくれないの」
私は布団の中で体を丸めた。歯が鳴った。
声は朝まで娘の声で私を呼びつづけた。
そのあいだじゅう私はこれは娘ではない、と、自分に言い聞かせた。
言い聞かせながら、いちどだけ開けたい、と思った。
そのいちどがこわかった。
娘は生きている。七年前に母親と出ていって、いまは遠い町にいる。
それは知っていた。知っていて、それでもこわかった。
三日目の晩その声は犬の名を言った。
娘が五つのときに飼っていて、半年で死んだあの犬の名だった。
妻も忘れているだろう。私が忘れていなかったのが不思議なくらいの名前だった。
それを戸の外のそいつが言った。
「おとうさん。ノンタが、さむいって」
私はその晩、布団の中で声を殺して、泣いた。
泣きながら、こう思った。もし、あれがいま、笑ったら、私は開ける。
あれは笑わなかった。同じ調子で朝まで繰り返した。
隣の萩原も同じだった。
壁越しに声が聞こえた。
女の声が「あきちゃん」と呼んでいた。萩原の名だろう。
そのたびに萩原の泣き声が聞こえた。
「ごめん。ごめん」
萩原は戸の内側で謝っていた。
「開けられない。ごめん。ごめんなさい」
その声は夜ごとに細くなっていった。
八月の半ばには、萩原はもう昼間外に出なくなった。
私は頼まれて、食い物を買ってやるようになった。渡すときに戸は開けない。細く開いた隙間から、袋だけを押し込む。
その隙間から見える萩原の顔は日ごとにひとの顔から、遠ざかっていった。
札は湿った。
貼って、四日目の朝戸口の札が水を吸っていた。
外は晴れている。部屋の中も乾いている。
札の下半分だけが濡れていた。
墨がにじんでいた。
私はその札の前に立って、しばらく見ていた。
にじんだ墨の形が字ではなく、何か別のものに、見えはじめた。
見えはじめたところで目をそらした。
それから、私は毎朝札を確かめるようになった。
確かめるとき私はいつも同じ順に回った。
戸口。台所の窓。換気扇。風呂。便所。押し入れ。それから、四隅。
数えながら、回った。
一枚二枚と口に出して。
数えていないとどこか一枚を飛ばしてしまいそうだった。
どの札も少しずつ濡れていった。
音が来なくなった日は一日もなかった。
それは来て、待った。
午前二時から、明け方まで。私の戸の前と萩原の戸の前で四時間。ひと晩も休まなかった。
八月十八日の朝、私は廊下のコンクリートを見た。
私の戸の前のちょうど人が立つあたり。
そこだけ色が抜けていた。
毎晩、同じ場所に同じものが立ちつづけたためにコンクリートが白く焼けたように、なっていた。
私は、その白い足形の上をまたいで仕事に出るようになった。
またぐとき私はいつも息を止めた。
その白い部分を踏むのがこわかった。
いちどうっかり踵で踏んだ。
その日、仕事から帰ると右の踵がしびれていた。
風呂で見た。
踵の皮が白く乾いて、粉を吹いていた。
萩原の頬と同じだった。
第六章 骨
八月二十日の晩萩原の部屋から、音がした。
午前一時。まだあれが来る前の時刻だった。
どさり、と、重いものが倒れる音。
それから、何も聞こえなくなった。
私は壁を叩いた。返事がなかった。
名を呼んだ。返事がなかった。
私は廊下に出た。
出る前に二秒迷った。その二秒を私はいまでも思い出す。
二〇四の戸は鍵がかかっていなかった。
押すと開いた。
骨は乾いていた。
土に埋まっていたものは、指で挟めば崩れる。
あれは崩れなかった。日に当てて丁寧に干したもののように、よく乾いていた。
誰が干したのかを、私は考えないようにした。
中は暗かった。
匂いがした。
土の匂い。それと線香の匂い。それと水を張ったまま何日も置いた花瓶のあの匂い。
萩原は床に倒れていた。
座卓のそばで俯せに。
私は抱き起こした。
萩原の部屋の匂いを、私はいまでも思い出せる。
土と、線香と、長く放っておいた花瓶の水の匂い。
あの部屋には、墓地がそのまま持ち込まれていた。
持ち込んだのは、萩原自身だ。
軽かった。
子どもを抱くようだった。骨に皮が張ってあるだけのそういう軽さだった。
警察が来たとき、部屋には何も残っていなかった。
骨も、髪も。
私が見たものを、誰も見ていない。
見た者が私ひとりだということの意味を、あとになって考えるようになった。
萩原は意識があった。私を見た。
そして、笑った。
「もう、いいんです」
何がいいんですか、と私は聞いた。
萩原は答えずに自分の首を指した。
守り袋の紐が皮膚に食い込んでいた。
その紐の下の皮膚が黒く腐れていた。
「これ、つけてると、痛いんです」
外さないでください、と私は言った。
萩原はうなずいた。うなずきながら、その紐を指で引っぱっていた。
私は萩原を布団に寝かせた。
寝かせて、部屋の明かりを点けようとした。
点かなかった。
何度スイッチを上げ下げしても、点かなかった。
台所の明かりも点かなかった。
私は携帯を出して、その光で部屋を照らした。
布団の足もとのあたりに白いものが落ちていた。
拾った。
細い。乾いている。両端がざらついている。
枝ではなかった。
骨だった。
指の骨だ、と、思った。人の指のいちばん先の。
乾いていた。
骨は埋めれば、湿る。土の中に何年もあったものは指で挟めば、ぼろりと崩れる。
それは崩れなかった。
よく乾いていた。
日に当てて、丁寧に干したもののように。
私はそれを落とした。
落として、携帯の光を部屋の隅へ向けた。
畳の上に同じような白いものがいくつも散っていた。
布団の縁にも。
座卓の下にも。
数えなかった。数える気にならなかった。
けれど、目が勝手に数えていた。
畳の上に七つ。
布団の縁に四つ。
座卓の下にいくつか。
どれも細かった。指の骨だ、と、私は思った。手の指のいちばん先の。
人の手の指は片手で十四本の骨でできている。両手で二十八。
その数を私はなぜかそのとき思い出した。
部屋の中の白いものがそれより多いか少ないか。
考えかけて、やめた。
そして、萩原の枕もと。
そこに髪の毛があった。
長い。黒い。房になって、まとまっていた。
畳の上に扇のように、ひろがっていた。
まるで、そこに頭を置いていたように。
私は逃げようとした。
立ち上がって、戸口へ向かった。
向かって、足を止めた。
戸が開いていた。
私が開けたままにしていた。
その開いた戸の外に。
廊下の蛍光灯が消えていた。
そのかわりに白い、丸い光が浮かんでいた。
腰の高さに。
何も照らさない光だった。
その光のうしろに二つ。
私は動けなかった。
背の低いほうが少し、前へ出た。
戸口の敷居のところで止まった。
そこから先へは来なかった。
札があるからだ、と、私は思った。萩原の部屋にも貼ってあるはずだった。
私は目だけを動かした。戸口の上の鴨居を見た。
札はあった。
あったが、真っ黒になっていた。
墨がにじんで紙全体が黒く濡れていた。
それでもまだそこにあった。
敷居の向こうのその顔がこちらを見た。
若い、女の顔だった。
きれいな顔だった。
そのことがいちばんいやだった。
その顔には恨みがなかった。
怒っても、悲しんでもいなかった。
欲しいものが目の前にあるときの人の顔だった。
腹をすかせた者が飯の前に座ったときのあの静かな顔。
それがこちらを見て、微笑んだ。
その顔は私を見て、微笑んだ。
それから、口を開けずに私の名を呼んだ。
声だけが部屋の中で鳴った。
私は悲鳴を上げた。
上げながら、戸口へ突っ込んだ。
その二つのあいだを抜けた。
抜けるとき頬を何かが掠めた。
冷たかった。
濡れた髪だった。
廊下に出て、私は走った。
走りながら、背中で聞いた。
あの二つは追ってこなかった。
追ってくるかわりにこう言った。
「また、来ますね」
丁寧な言い方だった。近所づきあいの挨拶のような。
その丁寧さがいちばんいやだった。
自分の部屋に飛び込んだ。
鍵をかけた。チェーンをかけた。
札を確かめた。
戸口の札は黒く濡れていた。
その前に座り込んだ。
座り込んで初めて、掌にまだあれを握っていることに気がついた。
指の骨だった。
萩原の部屋から、持ってきてしまっていた。
私はそれを流しに放り込んだ。水を流した。
骨は排水口の金具に引っかかって、残った。
何度水を流しても、そこにあった。
私は割り箸でそれをつまみ上げた。
つまみ上げて、気がついた。
その指の骨の先のところ。
爪のあるあたり。
そこに赤い、布の切れ端が貼りついていた。
牡丹の花びらだった。
私はそれを便所に流した。水を二度流した。
流してから、便所の水を見ていた。
水面に私の顔が映っていた。
その顔の頬に黒い筋があった。
洗面所へ行って、鏡を見た。
右の頬に細い筋が三本走っていた。濡れた髪が掠めたあの場所だった。
石鹸で洗った。落ちなかった。
痣ではなかった。皮膚のいちばん上だけが乾いて、白くなっていた。
その三本の筋はそれから、十日ほどして、消えた。
消えたあとにそこだけ髭が生えなくなった。
翌日、白木に話しに行った。
一〇一の窓は閉まっていた。
叩いても、返事がなかった。
私は窓の下で話した。返事がなくても、話した。
骨のこと。髪のこと。萩原の首のこと。
話し終えるとしばらくして、窓が少しだけ開いた。
白木の目だけが見えた。
「前のときも、そうだった」
前の二〇四の人ですか、と私は聞いた。
白木はうなずいた。
「布団の中に、骨が、あった。あの人の骨じゃ、ない。抱かれて、死んどった」
警察は、と私は聞いた。
「警察が来たときには、骨は、なかったよ」
白木はそう言って、窓を閉めようとした。
私は慌てて、聞いた。萩原を助ける方法はないんですか、と。
窓が止まった。
白木の声が細く聞こえた。
「あの人は、もう、内側に、入れとる」
どういう意味です、と私は聞いた。
「戸を閉めたって、遅いんだよ。ひと月も、毎晩、自分で、開けとったんだから」
札は、と私は言った。札があるじゃないですか。
白木はこう言った。
「札はな、外から入るのを、止めるだけだ」
中にいるものは止められん。
窓が閉まった。
その日から、白木は二度と窓を開けなかった。
帰りぎわに私はもう一度聞いた。
あの人たちはいったい、何なんですか、と。
閉じた窓の内側から、白木の声がした。
「知らんよ」
知らないんですか、と私は言った。
「知らんほうが、いい」
それから、こう続けた。
「昔は、あれを、あの人の霊だと、思うとった」
いまは、と私は聞いた。
白木はずいぶん長く黙っていた。
「あれは、あの人の、かたちを、しとるだけだ」
あの人の声であの人の顔であの人の癖で頼んでくる。
「けどな。中身は、別のもんだ」
何がいちばんの証拠か、と、白木は言った。
「本物の人間なら、二百回も同じことを頼めん。途中で、腹を立てるか、泣くか、あきらめるかする」
あれはしない。
「二百回でも、二千回でも、同じ声で、同じ強さで、言える。人じゃ、ないよ」
第七章 百万
萩原は行けなかった、と言った。呼ばれていたのに、仕事が抜けられなくて、行かなかった、と。
私も娘の運動会に行かなかった。金にならない日は動けなかった。あのころ私はいつも何かに追われていた。
同じだ、と、そのとき私は思った。
思ってしまったことを私はあとで悔やんだ。
八月二十四日の朝枕もとに封筒が置いてあった。
茶色の事務用の封筒だった。
牡丹と同じところに。私の頭のすぐ横に。
中を見た。
金だった。
一万円札の束が二つ。帯がかかっていた。銀行の帯だ。
百万円は、帯がついたままだった。
銀行の帯だ。日付の判も押してある。
私はその日付を調べた。岩美が、いや、あの二人が死んだ日の、翌日だった。
誰かが銀行で下ろした金だ。人の手を通っている。それが何より薄気味悪かった。
百万円あった。
私はそれを畳の上にあけた。
新しい札だった。折り目がない。
匂いを嗅いだ。
土の匂いがした。かすかに湿っていた。
指でこすった。インクは落ちなかった。透かしを見た。ちゃんと入っていた。
本物だった。
本物である、ということがいちばんこわかった。
偽物なら、投げ捨てられた。
燃やして、忘れられた。あれは、こちらを担ごうとしているだけだと思えた。
本物だとそうはいかない。
本物の百万円は、私の暮らしの中ではっきりと意味を持ってしまう。
金を数えるとき、私はいつも二度数えた。
一度目で合っていても、もう一度数える。
そうしないと落ち着かなくなっていた。
数えているあいだだけ、廊下の音を忘れていられた。
取り立ての男の顔。滞納の通知。冷蔵庫の中身。仕事のない日の朝の時間。
そういうものの、すべてにその百万円は繋がった。
あれは、私の欲しがっているものを正確に知っていた。
娘の声を使ってきた奴だ。知っていて、当たり前だった。
その晩、声はいつもと違うことを言った。
午前二時。からん。ころん。私の戸の前。
「あけてください」
私は返事をしなかった。
「札を、はがしてください」
私は体を固くした。
「あの人の、首の、守りを、とってください」
声は静かだった。
「それだけで、いいんです」
それだけで、と、その声は繰り返した。
「あなたには、何も、しません」
私は耳を塞いだ。
「約束します」
その約束します、という言い方があまりに人の言い方だったので、私は掌を耳から、離してしまった。
「お金は、受け取っていただけましたか」
私は答えなかった。
「足りなければ、また、持ってきます」
その晩から、それは毎晩同じことを頼むようになった。
札をはがしてください。
守りを、とってください。
あなたには何もしません。
約束します。
私は金を押し入れの奥に突っ込んだ。
突っ込んで二日寝た。
三日目に出して、数えた。
四日目にまた数えた。
数えることはもう癖になっていた。階段の段も。声と声の間も。金も。
数えているあいだだけ頭が静かになった。
数えるたびに百枚あった。
当たり前だ。誰も触っていない。
それでも私は数えた。数えていると落ち着いた。
五日目の晩数えているとき外で音がした。
からん。
私は手を止めた。
止めた指のあいだで札束が汗で湿っていた。
その晩、私は金を押し入れに戻さなかった。
枕もとに置いたまま、寝た。
借金は二百万近くあった。返しても減らない、あの数字だ。
百万あれば、半分になる。
半分になれば、息ができる。
そんなことを考えている自分に気づいて、私は震えた。
震えながら、考えるのをやめられなかった。
八月の終わりに取り立てが来た。
アパートの前で一時間待たれた。
帰ったあと私は押し入れを開けた。
一枚抜いた。
その一枚を持って、駅前の自動販売機まで歩いた。
入れた。
釣りが出た。
飲み物が出た。
本物だった。
私は、その缶を握ったまま、しばらくそこに立っていた。
その晩、私は押し入れから、金を出して、畳に並べた。
百枚を十枚ずつ十列に。
並べて、眺めた。
眺めているうちに私はあることを考えていた。
萩原はもう助からない。白木がそう言った。中に入っているのだ、と。
助からない人間から、守りを取っても、同じことではないか。
どうせあと幾日かの違いだ。
そう考えている自分の声がずいぶん優しい調子なのに、私は気がついた。
戸の外のあの声と同じ調子だった。
九月二日の晩私は二〇四の戸を叩いた。
萩原はもう戸を開けなかった。返事もしなかった。
私は大家から、合鍵を借りていた。萩原の様子を見てやってくれと頼まれていたからだ。
その鍵を使った。
部屋は暗かった。明かりは、とうに点かない。
萩原は布団にいた。
目は開いていた。天井を見ていた。
私が入っても、こちらを見なかった。
呼吸はしていた。ひゅう、ひゅう、と細い音を立てて。
首の守り袋を見た。
紐が皮膚に埋まっていた。
私はその紐に指をかけた。
かけたとき萩原の目が動いた。
私を見た。
何か言おうとした。
唇が動いた。声は出なかった。
私は目をそらした。
そらしたまま、紐を切った。
持ってきた鋏で。
守り袋が私の手の中に落ちた。
かわりに私は百円で買った細い紐に通した安物の飾りを萩原の首にかけた。同じ大きさの同じような形をした何の意味もない、金具だった。
萩原の喉から、音が洩れた。
言葉ではなかった。
私はその部屋の四隅と戸口の札を剥がした。
黒く濡れた紙は剥がすときぶよぶよとしていた。
剥がした札は温かかった。
生きものの、腹のような温かさだった。
剥がした札は、ポケットの中でその晩のうちに乾いた。
翌朝、出してみるとただの古い紙だった。
墨も消えていた。
白い、四角い紙が五枚。
それだけが私の手に残った。
最後の一枚を剥がして、丸めて、ポケットに突っ込んだとき。
廊下の蛍光灯が消えた。
まだ夜の九時だった。
からん。
すぐ外で鳴った。
ころん。
私は萩原の部屋を飛び出した。
飛び出すとき廊下にいた。
二つ。
私のすぐ横に。
手を伸ばせば、届く距離に。
白い光が私の顔を下から、照らしていた。照らしていたのに、私の手も廊下も暗いままだった。
背の低いほうが私に頭を下げた。
丁寧なお辞儀だった。
「ありがとうございます」
それだけ言って、二つは私を見なかった。
私など初めから、そこにいないように、二〇四の戸のほうへ向き直った。
私は自分の部屋に駆け込んだ。
鍵。チェーン。札を確かめた。私の部屋の札はまだ貼ってある。黒く濡れて、それでも貼ってある。
壁に背中をつけた。
そのまま、床に座り込んだ。
隣で鍵が回る音がした。
がちゃ。
ぎい。
萩原が開けたのだ。
あの体で起き上がって、戸口まで這っていって、自分の手で開けたのだ。
私は両手で口を押さえた。
「開けてください」の声はしなかった。
もう要らなかったのだ。
かわりに隣から、あの息のない笑い声が聞こえた。
それが二つになっていた。
高いのと低いのと。
その笑い声のあいだにかさ、かさ、という乾いた音が混じった。
枯れた枝をこすり合わせるような音。
その音はだんだん大きくなった。
それから、湿った音がした。
何かをたたむような音。
何かを絞るような音。
私は耳を塞いだ。塞いだ掌の内側でそれはいっそうはっきりと聞こえた。
最後に、萩原の声がした。
はっきりと聞こえた。
壁のすぐ向こうで。
「ありがとう」
私に言っていた。
礼を言われた。
私はその晩、その二文字を繰り返し、思い出した。
萩原は、最後の力で壁の向こうから、私に礼を言った。
守りを切って、札を剥がした私に。
それが皮肉なのか本気なのか。
わからないことがいちばんこたえた。
たぶん本気だったのだといまは思う。
あの男は開けたくて、たまらなかったのだ。
私は開けさせて、やっただけだ。
それから、朝まで何の音もしなかった。
明け方私はポケットに手を入れて、あの守り袋を掴んだ。
切った紐がぶら下がっていた。
袋の口の糸を切った。
中には何も入っていなかった。
土がひとつまみ。それだけだった。
私はその土を掌にあけた。
掌の上でそれは湿って、黒く光った。
墓地の匂いがした。
第八章 戸口
朝私は二〇四の戸を開けた。
自分でもなぜ開けたのかわからない。
確かめなければ、と、思った。
中は明るかった。
朝の光がカーテンの隙間から、まっすぐに差し込んでいた。
萩原は布団にいた。
仰向けだった。
両腕を胸の上で丸くしていた。
何かを抱くかたちで。
その腕の中に何もなかった。
この話に、助かる方法は書けない。
書けるのは、あれにできないことだけだ。
あれは戸を壊さない。窓も割らない。鍵もこじ開けない。
できるのは、外に立って頼むことだけだ。それだけを、何年でも続けられる。
空気を抱いていた。
顔は笑っていた。
口の端が耳のほうまで上がっていた。人の顔がそこまで上がるものかと思うほどに。
目は開いていた。
乾いていた。
首に痣があった。
いま、私の部屋の札は、まだ貼ってある。
黒く濡れて、めくれかけて、それでも貼ってある。
新しいのは手に入らない。
白木はいない。はじめからいなかったことになっている。
指の形の痣はもう痣ではなかった。
皮膚がへこんでいた。
細い、硬いものが長く食い込んでそのまま、固まったようなへこみだった。
私は布団をめくった。
めくって、すぐに戻した。
布団の中に白いものがあった。
萩原の脚のあいだ腰のあたりにばらばらと。
そして、萩原の胸の上腕の中のその空いた場所に。
髪の毛がひと房。
まとまって、置いてあった。
黒く長く濡れていた。
私は外に出て、廊下の手すりを掴んで吐いた。
救急車と警察が来た。
警察官が二人部屋に入った。
私は廊下で待たされた。
出てきた警察官は私にいくつか質問をした。
最後に、こう言った。
「布団の中に、何か、ありましたか」
私は答えた。骨がありました、と。髪もありました、と。
警察官は部屋のほうを振り返った。
それから、私に言った。
「何も、ありませんよ」
私はもう一度部屋を覗いた。
布団はめくられていた。
白いものはなかった。
髪もなかった。
畳の上にも座卓の下にも何もなかった。
死因は衰弱だった。
夏のあいだにろくに食べていなかった。持病があった。ひとり暮らしで発見が遅れた。
そういうことになった。
新聞にも載らなかった。
萩原の胸の上で両手が抱いていたもの。
そのかたちが何であったか。
それは誰にも記録されなかった。
私は借金を返した。
百万円はそのまま、使えた。
窓口の女は、帯を切って、機械に通し、私に受取を渡した。
何も起きなかった。
一週間何も起きなかった。
二〇四の部屋は業者が入って、片づけられた。
畳が替えられた。壁紙が替えられた。
臭いはなかなか取れないようだった。
大家が私にこぼしていた。あそこはどうも決まらない、と。
そのくせ九月の終わりにはもう募集の紙が貼られていた。
家賃は二万八千円に下がっていた。
私はその紙の前に立って、しばらく見ていた。
十月に内見の客が来た。
若い男だった。二十代の半ばくらいの。仲介の男と二人で階段を上ってきた。
私は部屋の中から、その声を聞いていた。
日当たりのことを聞いていた。風呂のことを聞いていた。前の人のことは聞かなかった。
私は戸を開けなかった。
廊下に出て、やめておけと言えばよかった。
言えなかったのではない。
言わなかったのだ。
隣に誰かが住んでくれれば。
あれはまず、そちらの戸の前に立つ。
四時間。私の戸の前ではなく、そちらの前に。
そう考えている自分に気がついたとき私は自分の口を両手で押さえた。
押さえた掌が震えていた。震えていたのはこわかったからではない。
安心して、いたからだ。
白木の窓は閉まったままだった。
九月の半ばにいちど開いていた。
中は空だった。
何もなかった。畳も上げてあった。
大家に聞いた。
白木さんはどうしました、と。
大家は妙な顔をした。
「一〇一は、ずっと空き部屋ですよ」
私は笑った。
笑ってから、大家の顔を見た。
大家は笑っていなかった。
私はその足で一〇一の窓の下へ行った。
窓は閉まっていた。硝子の内側に埃が厚く積もっていた。
その埃の上に手のひらの跡が一つだけあった。
硝子に内側から、押しつけたように。
指が二本足りない跡だった。
何年も人が開けていない窓の埃だった。
私はその埃の上に指で線を引こうとした。
引けなかった。埃は硝子の内側にあった。
音が来たのはそれから、四日後だった。
午前二時。
からん。
突き当たりから。
ころん。
私は布団の中で目を開けた。
音は私の部屋の前で止まった。
そして、動かなかった。
二十を数えた。四十を数えた。百を数えた。
動かなかった。
それから、声がした。
「あけてください」
若い、女の声だった。
私は返事をしなかった。
「あけてください」
その晩から、それは毎晩私の戸の前に来るようになった。
二〇四の前にはもう行かない。行く先がなくなったからだ。
四時間。午前二時から、明け方まで。
私の戸の前に立っている。
私の札はまだ貼ってある。
黒く濡れて、めくれかけて、それでも貼ってある。
新しいのは手に入らない。
白木はいない。初めから、いなかったことになっている。
声は毎晩変わる。
娘の声のときがある。
死んだ母の声のときがある。
七年前に出ていった妻の声のときがある。
先週から、萩原の声が混じるようになった。
「開けてください」
「あけて。おとうさん」
「ねえ。開けてよ」
「僕です。開けてください」
どれもそっくりだ。
そっくりなのに、どれも同じ抑揚のない調子でそれを言う。
私は返事をしない。
けれど、私は知っている。
夜ごと目が覚めるたび私の体は戸のほうを向いている。
先月は布団の中にいた。
今月は布団から、出ている。
昨日の晩は台所に立っていた。
歩いた覚えはない。
今朝。素足で三和土に立っていた。
右手が鍵にかかっていた。
チェーンは外れていた。
私が外したのだ。眠っているあいだに。
私はその場に座り込んだ。
座り込んで戸の下の隙間を見た。
廊下の蛍光灯の光が細く差し込んでいる。
その光が二か所途切れていた。
すぐ外に立っていた。
朝の六時だった。
鍵はまだ回っていなかった。
まだ。
だから、これを書いておく。
あれは戸を壊さない。
窓も割らない。鍵もこじ開けない。
そういうことはけっして、しない。
できないのだ。
あれにはそれができない。
あれにできるのは外に立って、頼むことだけだ。
「開けてください」
それだけを一晩に二百回毎晩何ヶ月でも何年でも繰り返すことだけだ。
そのかわりあれは疲れない。飽きない。眠らない。
待つことについては、あれはこちらよりずっと強い。
あなたには明日がある。仕事がある。眠らなければ、ならない。
あなたはそのうち慣れる。
毎晩のことだからだ。
慣れて、こわくなくなる。こわくなくなったころにいちどこう思う。
顔だけ見てやろう。
それが終わりの始まりだ。
見れば、覚えられる。覚えられれば、名を呼ばれる。名を呼ばれれば、いつか、返事をする。
返事をすれば、あとは鍵を回すまでの時間の問題になる。
あれにはそれがない。
だから、いつか、開ける。
みんな開けるのだ。
自分から。自分の手で。鍵を回して、チェーンを外して、こちら側から。
萩原もそうだった。前の住人もそうだった。
私もたぶんそうなる。
覚えておいてほしい。
夜中にあなたの家の前で硬い音がしても、覗いてはいけない。見れば、顔と名前を覚えられる。
名前を呼ばれても、返事をしてはいけない。返事は覚えられた、という合図になる。
泣いても、開けてはいけない。あれはなんでもする。
そして、いちばん大事なことを書く。
あなたが、いま、これを読んでこわいと思っているなら。
今夜あなたの戸の前でそれが鳴っても。
たぶんあなたは開けない。
今夜は。
問題はそのあとの千の夜だ。
からん。
ころん。
いま、外で鳴った。
あなたの家ではまだ鳴っていないか。
まだ?
了
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




