↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

皿 ― 番町皿屋敷・現代異聞

お盆の期間、休みの日にたっぷり読んでもらおうと1作25000字以上の中編小説を4編、用意しました。

夏なので怪談話を。


第四作目は、番長皿屋敷をモチーフに新たに現代のテイストを盛り込んでみました。


ゾッとする感じ。


それを表現できていたら執筆した甲斐があります。


※怪談話しが苦手な方は読まれないでくださいね。

第一章 十客


その部屋には、作り付けの古い茶簞笥が残されていた。


退去した前の住人が置いていったものだという。大家は、処分するのも金がかかるから、使ってくれて構わない、と言った。家賃は相場よりずいぶん安かった。安い理由は聞かなかった。聞けば、住めなくなる気がした。


引っ越しの荷物は段ボール五つきりだった。前の暮らしを私はほとんど捨ててきた。捨てるものしかなかった、とも言える。割のいい仕事を失い、貯えを使い果たし、頼れる人もいなくなって、私はこのいちばん安い部屋に流れ着いた。引っ越してすぐ、条件は落ちるが次の勤め先は見つかった。誰かに必要とされたかった。ただ、それだけのことがどうしても、叶わなかった。日当たりも悪かった。昼でも部屋の隅に夕方の色が溜まっていた。それでも雨露がしのげれば、じゅうぶんだった。そのときはそう思っていた。


茶簞笥のいちばん下の観音開きの奥に桐の箱がひとつあった。埃をかぶっていた。紐を解くと古い皿が出てきた。白磁に藍で水の流れのような文様の入った上等の皿だった。箱の蓋の裏に墨で十客と書いてあった。


皿は見るからに古いものだった。素人の私にも値の張るものだとわかった。こんな上等の皿をなぜ置いていったのか。引っ越しのどさくさで忘れたのだろうか。それにしては、桐の箱にきちんとしまってある。まるで、誰かに見つけてもらうのを待っていたように。私は箱をもとの簞笥の奥へ戻そうとした。戻そうとして、なぜか蓋を開けてしまった。開けたら、もう数えずにはいられなかった。


十客。十枚ひと組という意味だ。私は箱から、皿を出して、数えた。一枚。二枚。三枚。畳の上に伏せて、並べていく。四枚。五枚。手が冷たくなった。皿が井戸の水のように、冷たかったからだ。六枚。七枚。八枚。九枚。


九枚で箱が空になった。


私はもう一度簞笥の奥を探した。転がり落ちた一枚がどこかにないかと。なかった。桐の箱の綿のへこみはたしかに十枚ぶんあった。十の丸い、へこみ。そのうちのひとつだけが空っぽでぽっかりと口を開けていた。抜けた歯のあとのように。私はその空のへこみを指で押した。まだ湿っていた。ついさっきそこから、一枚抜き取られた、とでもいうように。


九枚しかなかった。十客と書いてあるのに、一枚足りない。割れたか失くしたのだろう。前の住人が。私はそう思って、九枚を桐の箱に戻した。戻しながら、なぜかもう一度数えた。一枚。二枚。やはり、九枚だった。


その皿で私はその晩、コンビニの惣菜を食べた。安い惣菜が少しだけ上等に見えた。洗って、伏せて、寝た。


桐の箱には、綿が敷いてあった。

十枚ぶんの丸いへこみが、きれいに並んでいる。

そのうちの九つには、皿の重みで色が変わった跡があった。

残る一つのへこみだけが、白いままだった。使われた跡がない。はじめから空だったように。


夜中に目が覚めた。


台所のほうで音がしていた。かちゃ、かちゃ、と皿の触れ合う音。誰かが皿を重ねているような。私は起きて、明かりをつけた。台所には誰もいなかった。伏せておいた皿は伏せたままだった。ただ、濡れていた。洗った覚えはあるが、拭いて、伏せたはずだった。皿はたったいま、水から上げたように、濡れていた。


私はその皿を拭いた。布巾がすぐ濡れそぼった。拭いても、拭いても、皿の裏から、水がにじんでくる。素焼きではない。上等の水を通さない、白磁だ。それなのに、皿は内側から、汗をかくように、濡れていた。冷たかった。井戸の底の石のように。私は九枚を伏せて、重ねた。重ねるといちばん下の一枚から、水が垂れて、畳にしみを作った。丸い、しみ。皿の形の。


私は皿をもう一度数えた。癖のように。一枚。二枚。九枚。九枚だった。


それから、私は夜皿を数える癖がついた。

朝起きて、数える。九枚。仕事から帰って、数える。九枚。寝る前に数える。九枚。何度数えても、九枚だった。当たり前だ。九枚しかないのだから。


その晩、私は皿で飯を食った。


惣菜を移しただけの、味気のない夕飯だった。

それでも皿がいいと、少しだけ気分が上向く。


上向いた自分に、あとになって腹が立った。あれは餌だったのだ。


数えることが私の暮らしの芯になっていった。朝目が覚めるとまず、皿を数える。数えて、九枚あることを確かめて、やっと息をつく。会社でも、書類の数字を数えていると指が勝手に皿を数えた。いちまい。にまい。同僚に変な顔をされた。私は笑って、ごまかした。ごまかしながら、心の底でもうわかっていた。この癖は私が始めたのではない。始めさせられたのだ、と。


隣の部屋には人の気配がなかった。廊下で誰とも会わなかった。郵便受けには私の名だけが白く新しかった。ほかの部屋の名はどれも褪せて、読めなかった。この建物に生きて、住んでいるのは私ひとりかもしれない、と、ある夜思った。思ったとたんどの部屋の水回りからもかちゃ、という皿の音がいっせいに聞こえた気がした。空き部屋のはずのどの台所でも誰かが皿を数えている。そんな気がして、私は耳を塞いだ。それでも私は数えずにはいられなかった。数えないとその晩、かちゃ、かちゃ、と音がするからだ。


数え終えて、私は箱の蓋を閉めた。

閉めてから、もう一度開けた。


九枚。合っている。


合っているのに、なぜ確かめ直したのか、自分でもわからなかった。

数えた晩は音がしなかった。数え忘れた晩は音がした。まるで、私が数えないと誰かが代わりに数えるように。


一週間ほどして、私は大家に電話をした。前の住人のことを聞いた。大家は少し、黙った。それから、女の人でね、と、言った。長く住んでいたが、事情があって、出ていった、と。事情とは、と聞くと大家は答えなかった。かわりにこう言った。あの茶簞笥の皿はいじらんほうがいい。数えたりせんほうが。


その晩、私は皿を伏せて重ねた。

上から順に、九枚。

重ねたいちばん上の一枚だけが濡れていた。


拭いても拭いても、朝には同じ一枚が濡れている。いつも、いちばん上の一枚だけが。


電話を切ったあと私はしばらく桐の箱を見つめていた。いじるな、と、言われた。数えるな、と。けれど、いじらずに数えずにいることが私にはもうできなかった。数えないとあのかちゃ、かちゃ、が始まる。数えていないあいだ誰かが私の代わりに暗い台所で皿を数えている。その音を聞くくらいなら、自分で数えたほうがまだましだった。私はそう思うことにした。それが間違いだった。


その晩、私は決めた。皿を数えるのをやめよう、と。数えなければ、この癖も止まる。あの音も止まる。私は、桐の箱をガムテープでぐるぐる巻きにして、簞笥のいちばん奥へ押し込んだ。開けられないように。数えられないように。その晩、私は久しぶりに深く眠れた。明け方頬につめたいものが触れて、目が覚めた。枕もとに皿が一枚伏せて、置いてあった。濡れて。ガムテープは簞笥の奥で封を切られていた。内側から。


私はそれきり皿を封じるのをあきらめた。逆らうほど皿は私に近づいてきた。逆らわず、数えていれば、皿は箱の中でおとなしくしていた。私は皿と折り合うように、暮らしはじめた。朝数える。夜数える。数えるあいだだけ部屋は静かだった。数え終えるといつも九枚。足りない一枚の置き場所だけが桐の箱の中でぽっかりと空いていた。その空いた場所を見るたびに私は自分の胸のあたりが同じように、ひとつ空いていくのを感じた。


もう遅かった。私はその晩も皿を数えた。一枚。二枚……九枚。


数え終えて、顔を上げると台所の窓の暗い硝子に私の後ろの部屋が映っていた。その映った部屋の畳の上に皿が一枚伏せて、置いてあった。振り返ると畳には何もなかった。硝子の中にだけ十枚目の皿があった。


第二章 数え唄


その声を初めて聞いたのは梅雨の雨の晩だった。


夜中に目が覚めると雨の音にまじって、細い声がしていた。女の声だった。低く抑揚のない、経を読むような声でそれは数を数えていた。


はじめ私はそれを隣の部屋のテレビの音か水道管の鳴る音だろうと思おうとした。けれど、それはあまりに人の声であまりに律儀だった。ひとつ数えるごとにちょうどひと呼吸ぶんの間があく。生きた人が息を継ぐその間合いで。死んだものには息を継ぐ間などいらないはずだ。それなのに、その声は几帳面に息を継ぎながら、数えていた。まるで、まだ半分は生きているつもりで。


いちまい。にまい。さんまい。


台所のほうから、聞こえた。私は動けなかった。蒲団の中で息を殺して、聞いていた。声はゆっくりと律儀に数えていく。よんまい。ごまい。ろくまい。ひとつ数えるごとにかちゃ、と、皿を重ねる音がまじる。ななまい。はちまい。


くまい。


それきり声は止まった。

しばらく沈黙があった。雨の音だけがしていた。私は次を待った。じゅうまい、と、続くのを。けれど、声はじゅうまい、とは言わなかった。かわりにごく低くこう言った。


いちまい、たりない。


その声の底に泣くようなひきずるような恨みとも寂しさとも、何かを試して悔いているともつかない、湿った響きがあった。


声は、雨の晩にいちばん近く聞こえる。


屋根を打つ音にまぎれて、どこから鳴っているのかがわからなくなるからだ。

台所か、風呂場か、それとも枕もとか。

わからないまま、私はその数を、一緒に数えてしまうようになっていた。


そのたりない、というひとことがいちばんこわかった。責めるでも脅すでもない。ただ、途方に暮れている。ずっと探しているのに、どうしても、見つからない。あと一枚がどうしても、揃わない。その諦めきれなさが湿った声の底に澱のように、溜まっていた。私はその声を聞きながら、なぜか涙が出た。かわいそうだ、と、思ってしまった。思ってしまったことを私はあとで悔やんだ。同情は、あの声にいちばん届いてはいけない、感情だった。


私はその声を録音しようとした。スマートフォンを枕もとに置いて、朝まで回した。朝、聞き返すと雨の音と私の寝息しか入っていなかった。数え唄はどこにもなかった。私だけに聞こえる声だった。いや、と、私は思い直した。録音にひとつだけ混じっていた。私の寝息の合間にごく小さくいちまい、と、私自身の声が数えていた。眠りながら。私は眠っているあいだも数えていた。私は蒲団をかぶった。かぶった中で耳を塞いだ。塞いだ掌の内側でもその数え唄は、はっきりと聞こえた。いちまい。にまい。朝までそれは繰り返された。九まで数えては、一枚たりない、と。


朝台所へ行った。皿は桐の箱の中で伏せて、重なっていた。九枚。ただ、いちばん上の一枚だけが濡れていた。ほかの八枚は乾いていた。上の一枚だけがたったいま、水から、上げたように。


私はその濡れた皿を日に当てて、干した。ベランダに出して、夏の強い日ざしの下に。夕方取り込むと皿はまだ濡れていた。表は乾いていた。裏だけが濡れていた。伏せて干したから、日の当たらない、裏だけが。まるで、皿の裏に日の届かない、井戸の底が貼りついているように。私は、それを確かめるのがこわくて、皿を裏返さずに箱へ戻した。戻すとき指先にぬめりが残った。藻のような青くさい、ぬめりが。


皿は日ごとに私になじんできた。冷たかった皿が手に取ると私の体温くらいにあたたまるように、なった。まるで、私の一部のように。私はそのあたたかい皿を頬に当ててみた。心地よかった。ずっとこうして、いたい、と、思った。思ってから、ぞっとした。皿をいとおしく感じはじめている。それは、私が少しずつ皿の側に渡りはじめているしるしだった。あの声の寂しさが私にも移りはじめていた。


私はその皿を拭いた。拭いても、拭いても、また濡れた。布巾がしぼれるほど濡れた。井戸の底の水のような青くさい、土の匂いのする水だった。


その日から、声は毎晩するようになった。


雨の晩は大きく。晴れた晩は小さく。けれど、必ず、九まで数えて、一枚たりない、と、言う。私は眠れなくなった。昼もその数え唄が耳の奥で鳴っていた。仕事の書類の数字を見ているといつのまにかそれがいちまい、にまい、と、数え唄になった。

私は皿を捨てようとした。


割れない、なら、割ってやろう、とも思った。私は、九枚を庭のコンクリートに力任せに叩きつけた。皿は割れなかった。硬い音を立てて、跳ね返るだけだった。九回叩きつけて、九回跳ね返った。かちゃん。かちゃん。まるで、私が数えるのを手伝っている、とでもいうように。九つ数え終えると皿はひとりでに桐の箱の中へ戻って、重なった。私の手は、皿を割ろうとして、いつのまにか九まで数えていた。


その晩、雨はいちだんと強くなった。数え唄も雨に負けじと大きくなった。いちまい。にまい。窓の外の雨だれと台所の数え声がぴたりと拍子を合わせていた。まるで、この降りしきる雨がぜんぶ井戸の底へ集まって、あの声を太らせているように。私は窓を見た。暗い硝子に雨の筋が幾本も流れていた。その流れる筋を私は無意識に数えていた。いちすじ。にすじ。数えるものなら、皿でなくても、よかった。数えさえすれば、私は少しずつあちらへ近づいた。


雨がやんでも水音はやまなくなった。晴れた昼にも、台所のほうでぽたり、ぽたりと水の落ちる音がした。蛇口は締まっていた。それでもどこかで水が落ちていた。私はそのぽたりを数えるように、なった。ひとつ。ふたつ。皿を数えていないときは水滴を数えた。数えるものがこの部屋にはいくらでもあった。皿。水滴。罅。指。この部屋のすべてが私に数えることを覚えさせて、あの井戸の底の数え唄に私を慣らそうとしているようだった。


数え唄という言葉を、私はこの部屋で覚えた。

子どもの遊び唄のことだと思っていた。

そうではない。

終わらないように作られた唄のことを、そう呼ぶのだ。


数えることには抗いがたい、甘さがあった。数えているあいだ私は何も考えなくてよかった。仕事のことも金のこともひとりであることも。ただ、ひとつふたつ、と、口の中で繰り返していれば、心がしんと凪いだ。あの井戸の底の声が何十年も数えつづけているのは恨みからではないのかもしれない、と、私は思いはじめた。数えていないとあまりに寂しくて、たまらないから。ただ、それだけのことなのかもしれない、と。


ある晩、数え唄がふいに途切れた。九までいかずに。ろくまい、で止まった。私は蒲団の中で耳を澄ませた。次がこない。ななまい、がこない。かわりに台所でかちゃ、と、皿の割れるひとつ手前のきしむ音がした。それから、しくしくと泣くような声がした。数えられない。もうどこまで数えたかわからない。あの声は迷子になっていた。何十年も、数えつづけて、とうとう自分がいくつまで数えたのかを見失っていた。私は思わず、蒲団の中で小声で言ってしまった。ななまい、と。教えてしまった。声がぴたりとやんだ。そして、うれしそうに続けた。ななまい。はちまい。くまい。私はあの声に数え方を教えてしまった。もうあとには引けなかった。


桐の箱ごとごみ袋に入れて、集積所に出した。すっきりした気持ちでその晩は久しぶりに数えずに寝ようとした。夜中にかちゃ、と、音がした。台所に桐の箱が戻っていた。九枚揃って。濡れて。


私はそれを山に捨てに行った。車で遠くの林道の奥へ。谷底へ投げ捨てた。皿が闇の中で割れる音がした。ぱきっ、と。九枚ぶん数えた。九回音がした。私は手を払って、帰った。


玄関を開けると三和土に桐の箱が置いてあった。濡れて。土がついて。谷の匂いがした。私は蓋を開けた。九枚揃っていた。割れても、いなかった。ただ、いちばん上の一枚に細い、罅が一本入っていた。さっき私が割った音のぶんだけ。


その晩、数え唄の最後が変わった。

いちまい、たりない。あとひとり。


第三章 一枚


あとひとり。


その意味を私は考えないように、した。考えるとこの部屋にいられなくなる。けれど、体のほうが先にわかっていた。皿が一枚足りない。十客なのに、九枚しかない。足りない一枚をあの声は探している。ずっと探している。そして、その一枚に私をしようとしている。


あとひとり。そのひとりが私だということは考えなくても、わかった。わかっていて、私は考えないことにした。考えないあいだだけ私はまだ人でいられた。九枚の皿と私。合わせて、十。その十のうちの一枚だけがまだ息をしていて、夜蒲団の中で震えている。私は自分の心臓の音を数えるように、なった。皿を数えないと心臓が次に、数えられる気がして。


人の心臓は、生まれてから死ぬまでに決まった数だけ打つ、という話をどこかで聞いた。だとしたら、私の残りの鼓動も数えられる。あと何回打てば、私は十枚目になるのか。あの声はたぶんそれも数えている。皿を数えるふりをして、本当は私の残りの命の数を。いちまい、と、聞こえるたびに私の残りがひとつ減っていく。そんな気がして、私は夜心臓を押さえて、眠った。押さえた掌の下で鼓動がいちまい、にまいと数を打っていた。


私は皿を増やそうとした。


同じような白磁の皿を店で買ってきた。十枚目の代わりに。桐の箱にそっと足した。これで十枚。これで足りる。あの声も、もう数え終える。私はそう思った。


その晩、声はいつものように、数えた。いちまい。にまい。くまい。そして、止まらなかった。じゅうまい、と、続いた。私は息を呑んだ。数え終える。終わってくれる。じゅうまい、のあとに声はこう言った。


にせもの。


かちゃ、と、音がして、私の足した皿が台所の床に落ちて、割れた。ひとりでに。粉々に。あとにはまた九枚だけが残った。あの声はごまかしを許さなかった。


私はあきらめずに別の皿を試した。骨董屋をまわって、同じ白磁に藍の水の文様の古い皿を探した。似たものはあった。私はそれを買って、桐の箱に足した。その晩、声はじゅうまい、と、言いかけて、止まった。においがちがう、と、言った。井戸のにおいがしない、と。翌朝、その皿は桐の箱の外にはじき出されて、畳の上で真っ二つに割れていた。切り口が濡れていた。井戸の水で。本物の十枚目は井戸の底の水の匂いをまとっていなければ、ならなかった。


店で買った皿を足したときのことを、私は何度も思い返す。

あのとき、あの声は、にせもの、と言った。

見分けたのではない。においで、わかったのだと思う。

井戸の水の匂いがしないものは、この箱に入れない。そういう決まりが、どこかにある。


私はようやく悟った。足りない一枚を埋められるのはこの部屋の水を飲みこの部屋の空気を吸い、この井戸の上で眠っている者だけだ、と。つまり私だけだ、と。私はもう井戸の水の匂いをまといはじめていた。髪からも肌からもあの土と水の匂いがした。石鹸で洗っても、落ちなかった。私は少しずつ本物の十枚目になりつつあった。店で買ったにせものとは違って。にせものは、はじき出された。本物は、はじき出されない。この部屋が私を離さない。足りない一枚は店で買える皿ではなかった。


私は皿を数えるとき指を使うように、なった。一枚数えるごとに指を一本折る。いちまい。親指。にまい。人差し指。そうやって、両手の指で数えていく。くまい、で右手の小指までいって、左手が一本余る。その余った一本の指がいつも冷たかった。まるで、そこにあるべき皿がないことを指が知っているように。


私はその余った指をじっと見た。左手の人差し指。ほかの指より少し、白かった。少し、冷たかった。爪の色が青みを帯びていた。皿の藍と同じ青み。私はその指で皿の水の文様をなぞってみた。指と皿の青みが溶けあうように、見えた。指先が皿に吸いつく。離すとぷつり、と、糸を引いた。水あめのような透きとおった糸を。私はその指を握りこんで隠した。隠しても、冷たさは袖の中まで上ってきた。


職場で私はその手袋を外せなく、なった。夏なのに。同僚がどうしたのかと聞いた。私は火傷をしたと嘘をついた。本当は、手袋の下で指が白く硬くなりつつあった。爪が藍色に沈んでいた。それを見られたら、私がもう人でなくなりかけていることがばれてしまう。私はその日を境に会社を休むように、なった。部屋にこもって、皿と二人きりで数えて、暮らした。いちまい。にまい。それがいちばん心の休まる時間になっていた。それがいちばんこわいことだった。


部屋にこもっているあいだ私は皿と話すように、なった。おはよう。おやすみ。九枚の皿にそう声をかけた。皿は答えなかった。かわりに夜数え唄で答えた。いちまい。にまい。まるで、皿が私の挨拶を覚えて、数で返してくるように。私はそれがうれしかった。ひとりの部屋でたったひとつの話し相手が九枚の割れかけた皿になっていた。うれしいと感じているその心がもうあちら側へ半分渡っている証拠だった。それでも、私は皿に話しかけるのをやめられなかった。


ある晩、私は皿に名前をつけた。九枚にひとつずつ。数えるかわりに名で呼ぼうと思った。数えるとあちらへ近づく気がして。けれど、名を呼びはじめて、気づいた。私がつけた名はどれも菊から、始まっていた。菊一。菊二。菊三。私は、名をつけたつもりで結局また数えていた。菊の名で。皿はうれしそうにかちゃ、と、鳴った。呼ばれるたびに。九枚とも。あと、ひとつ名のない皿の場所が箱の中で私を待っていた。

皿に話しかけていて、あるとき私は皿の藍の文様が動くのに、気づいた。水の流れの文様がほんとうに流れていた。皿の中でゆっくりと。渦を巻いて。井戸の底の水のように。私は、その渦に吸い込まれそうで皿から、目を離せなくなった。渦のいちばん深いところに小さく白いものが沈んでいた。皿だった。皿の中にもう一枚皿が沈んでいた。その沈んだ皿の中にもまた渦があって、また皿が沈んでいた。いくつも。いくつも。数えきれないほど。私は、その皿の中の皿を数えようとして、めまいがして、倒れた。倒れた私の頬の下で床がぽたり、と、濡れた。


ある晩、指を折って、数えていて、気づいた。


くまい、まで数えて、余った左手のその一本。人差し指の爪が剝がれかけて、いた。覚えのない、傷だった。爪の下に藍色の染みがあった。皿のあの水の文様と同じ色の。私はその指を口に含んだ。土と水の味がした。井戸の味だ。私は井戸を見たこともないのに、そう思った。


その夜から、私は水を飲めなくなった。コップの水を口にふくむと井戸の味がした。土と苔と古い水の味。歯を磨くその水も。顔を洗うその水も。この部屋の蛇口から、出る水はどこかであの井戸に繋がっているのだ、と、私は思った。水道管を伝って、地の底の暗い水脈を伝って、あの埋められた井戸の底まで。だから、私が水を使うたびに井戸の底のあの人が顔を上げる。呼ばれた、とでもいうように。


喉はひび割れるように、渇いていた。それなのに、水に手を伸ばすことがどうしても、できなかった。流しには水を張ったままの器がいくつも置いてあった。その面にうっすらと膜が張っていた。飲まなければ、干からびる。飲めば、あの井戸の底の水を自分の体に入れることになる。私はその二つのあいだで、ただ、渇いていた。渇いているあいだだけは、まだ私はあちら側の水になっていなかった。


大家にまた電話をした。この建物の下に井戸はないか、と。大家はしばらく黙っていた。


「昔は、あったよ」。大家は言った。「庭の隅にね。いまは埋めて、コンクリートで蓋をしてある」


前の住人がその井戸のことをしきりに気にしていた、とも言った。

その前の住人の名前を私は聞いた。


大家は教えて、くれなかった。ただ、菊という字のつく人だった、と、それだけ言った。菊。私はその一文字を口の中で転がした。台所の桐の箱がかちゃ、と、鳴った。呼ばれた、とでもいうように。


その晩、数え唄の声が初めて、私に向かって、口をきいた。壁の向こうでも、床の下でもなかった。台所の暗がりの、桐の箱とちょうど同じ高さから。


「――いちまい。にまい。……くまい。一枚、たりない」

「――あとひとり」


そして、その声は私の名を呼んだ。三度。数えるように。呼ばれたとたん、口の中に残っていたわずかな水気まで失せた。私は口をきかなかった。渇いた喉は音になるものを一つも通さなかった。それでも、喉は勝手に鳴った。飲みこむものが何もないのに。


第四章 井戸


私は庭の隅の井戸を探した。


アパートの裏の狭い庭。雑草の茂ったその隅にコンクリートの丸い蓋があった。直径一メートルほど。ひび割れて、苔が生えていた。踏むと下から、冷たい風が蓋の割れ目を抜けて、吹き上がってきた。土と水の匂い。あの皿の濡れる匂いと同じだった。

私は、しゃがんでそのコンクリートの蓋をしばらく見ていた。蓋にはひび割れが走っていた。放射状に。まるで、下から、何かが押し上げようとして、ついたひびのように。ひびの隙間から、細い草が生えていた。その草だけがこの乾いた庭でいつも濡れていた。根もとが。井戸の水を吸い上げて。私はその草を一本抜いた。抜いた穴から、つう、と、水がにじんだ。地面のずっと下から。指をあてると氷のように、冷たかった。


蓋に耳を当ててみた。下から、聞こえた。


水の滴る音。ぽたり。ぽたり。そして、その水音にまじって、細くあの声が数えていた。井戸の底で。いちまい。にまい。この部屋に来る前から、ずっとこの井戸の底であの声は数えていたのだ。何十年も。ひとりで。足りない一枚を探して。


蓋に耳をあてたまま、私は動けなくなった。井戸の底の声は、私が聞いているのを知っているようだった。数える声がふと止んでこう言ったからだ。きた。やっときてくれた。その声はうれしそうだった。長いあいだたったひとりで、暗い底にいた者がようやく訪ねてきた者を迎えるような。私は耳を離そうとした。離れなかった。冷たいものが蓋のひびの奥から、伸びてきて、私の耳をそっと押さえているようだった。もっと聞いて、と。


私はその声に聞き入りそうになる自分を恥じた。井戸の底の寂しい声に心を寄せては、いけない。寄せれば、引き込まれる。わかっていた。それなのに、私の耳は蓋から、離れたがらなかった。私の体の半分はもうあの声を聞いていたかった。いっしょに数えたかった。私は力ずくで耳を引き剝がした。剝がした耳がちぎれるように、痛かった。ふり返ると蓋のひびから、細い、水の糸が私の耳のほうへ伸びかけて、宙で切れて、地面に落ちた。


私は蓋を動かそうとした。動かなかった。重かった。それに動かして、下を覗いてしまったら、もう戻れない気がした。覗けば、目が合う。合えば、終わる。私は蓋から、離れた。


よろけながら、私は庭をあとにした。背中にずっと視線を感じた。井戸の底からの。振り返っては、いけない、と、体が知っていた。振り返れば、蓋がずれて、暗い口が開いて、そこから、濡れた手が伸びてくる。私はまっすぐ部屋へ戻った。戻るその足あとが点々と濡れていた。私は井戸の水になど触れていない。それなのに、私のスニーカーの底から、井戸の水がにじんで廊下に足あとを残していた。


その足あとは、私の歩いた向きとは逆を向いていた。私は井戸から、部屋へ歩いた。それなのに、濡れた足あとは部屋から、井戸へ向かって、点々とついていた。私とは別にもうひとり濡れた足が部屋から、井戸へ通っているように。私はその足あとをたどった。たどるとそれは台所の桐の箱の前から、始まっていた。九枚の皿がいつのまにか箱を出て、井戸のほうを向いて、伏せて、並んでいた。九枚きれいに。あと一枚置く場所を空けて。離れるその背中に井戸の底の声がついてきた。まって。まって。行かないで。


井戸の蓋には、名前が彫ってあった。

苔を削ると、菊、という一文字が出てきた。

埋めた者が彫ったのか、埋められた者が内側から彫ったのか。

彫り跡は、蓋の下側にもあった。指の先で触れると、同じ字だとわかった。

その声はすがるようだった。すがるように、聞こえた。

それが間違いだった。


振り返ろうとしたその耳もとへ蓋の割れ目から、何かが伸びた。細く冷たい、指だった。

爪が耳のうしろを裂いた。

熱くなったと思う間に手をやったその指がぬめった。

その瞬間井戸の底の声が変わった。


すがるのをやめた。数え唄でもなくなった。蓋の下でぐ、ぐ、と喉の奥で何かを噛むような音が鳴った。

飢えている音だった。

私は走った。走りながら、耳から流れるものを掌で押さえた。

掌に血はつかなかった。

冷たい水が流れていた。井戸のあの匂いの水が。


私は逃げるように、部屋に戻った。そして、あの人のことを調べはじめた。菊という字のつく前の住人。この建物のこの井戸のまわりで昔何があったのか。図書館の古い記録。近所の年寄りの話。断片はいくつかあった。断片のほうがこわかった。


わかったことはひとつずつはささいだった。古い屋敷。住み込みの女中。割れた皿。井戸。けれど、それらを繋ぐとひとつの形が浮かんできた。この土地では、同じことが何度も繰り返されていた。皿を数える女の話はこの井戸のこの土地に代々貼りついていた。名前だけが変わった。菊という字のつく名が多かった。まるで、この井戸が住む女に菊という名を与えているように。次の菊をずっと待っているように。


私は自分の郵便受けの名札を見に行った。私の名前が書いてあった。そのはずだった。けれど、名札の私の名の上にうっすらと別の字が透けて、浮いていた。何度も書いては、消された跡だった。菊江。菊代。それぞれの名の下に私の名がいま、書かれている。そして、私の名もいつか、消されて、次の菊が書かれる。名札はそのためのただの紙きれだった。この井戸の次の器に貼る名前の控えだった。


私はその名札を剝がそうとした。剝がせば、次の菊にならずにすむ気がして。爪を立てて、めくった。名札の裏は濡れていた。井戸の水で。めくったその下にまた同じ私の名があった。その下にも。何枚も、何枚も同じ名札が重なって、貼られていた。井戸の水で貼りついて。私は剝がすのをやめた。何枚剝がしても、下から、私の名が出てくる。私は、もうこの名札のいちばん上の一枚にすぎなかった。めくられれば、次が出てくる九枚重ねのいちばん上の。


私はその名札をそっともとに戻した。戻すとき、いちばん上の私の名が少し、薄くなっているのに、気づいた。滲んで。井戸の水で。次に、めくる者の目にはもう私の名は読めないだろう。私の下から、出てくる次の菊の名前のぶんだけ余白をあけて。私は、その薄れた名札を見ていられなくて、部屋へ逃げ帰った。


昔ここには古い、大きな屋敷があった。その屋敷に住み込みで働く若い女がいた。名を菊といった。よく気のつく器量よしだったが、身寄りがなく、ひとりだった。あるときその菊が主家の家宝の皿を割った。十枚ひと組のうちの一枚を。それがもとで菊は責められなぶられあの井戸に身を投げた。あるいは投げ込まれた。記録はそこまでだった。


なぜ割ったのか。


記録にはなかった。ただ、近所のいちばん年老いた人がこう言った。あれはわざと割ったんだ、と。旦那さまの心を試そうとして。ほんとうに自分を想ってくれているなら、皿の一枚くらいで見捨てはしないだろう、と。そう思って、菊はわざと一枚を割ってみせた。試したのだ。たったひとつの寄る辺を。


そして、その試しに菊は負けた。


旦那さまは、皿の割れたことではなく、菊が自分の心を疑い、試したことに逆上した。あんなに想っていたのに、疑ったな、と。菊は井戸に落ちた。落ちながら、菊はきっと数えはじめたのだ。割ってしまったあの一枚を。取り返そうとして。いちまい。にまい。何十年も。足りないのは皿ではなかった。試して、失った、たったひとつの心のほうだった。


私はその話を聞いて、部屋に帰った。


桐の箱を開けた。九枚。数えた。いちまい。にまい。くまい。そして、私は初めて、自分から、続きを口にした。じゅうまい、と。足りない、十枚目を埋めるように。私が。すると台所の窓の暗い硝子に濡れた女が映って、笑った。うれしそうに。やっと見つけた、とでもいうように。


その晩から、井戸の蓋が少しずつずれるように、なった。


第五章 欠け


罅は少しずつ育った。


いちばん上の一枚に初め細い一本だった罅が翌朝には二本に枝分かれしていた。その次の朝には三本に。皿の白い肌を藍色の水の文様を縫うように、罅は伸びていった。数えるたびに増えていた。いちまい。にまい。皿の罅もいっしょに数えられるように。


罅の入り方には順番があった。いつもいちばん上の一枚から。数えて、いちばん初めに手に取るその一枚から。まるで、私の指が触れた場所から、罅が生まれるように。私は触れないように、した。箱を開けずに数えようとした。目だけで。それでも罅は増えた。目で数えたその数だけ。見ることも触れることのうちに入るらしかった。この皿は見られることを待っている。数えられることを。そうして、少しずつ割れていくことを。


私はその罅を指でなぞった。冷たかった。なぞった指の腹がかすかに切れた。血がにじんだ。皿の欠けた縁は剃刀のように、鋭かった。血は、皿に落ちて、藍の文様の溝を伝って、流れた。まるで、皿が血を吸っているように。吸った罅がまた一本増えた。


血を吸わせては、いけない、と、気づいたのはそのあとだった。私がうっかり指を切って、血を落とすたびに皿はいきいきと罅を伸ばした。まるで、私の血が皿の養分だった。私は、皿に触れるとき手袋をするように、なった。それでも、夜になると手袋の指先に赤い、しみがにじんでいた。私は切った覚えがないのに。皿は手袋ごしにでも私から、血を吸っていた。少しずつ。数えるたびにひと吸いずつ。


その晩、数え唄に新しい言葉がまじった。


いちまい。ひび。にまい。ひび。皿を数える合間にひび、ひび、と囁く。まるで、私の体のどこに罅を入れるかを選んでいるように。私は耳を塞いだ。塞いだその耳のうしろ。首のつけ根の皮膚がつっぱった。触るとそこに細い、筋があった。皮膚の下に。硬い、筋が。皿の罅と同じ手触りの。


朝鏡で見た。首すじにうっすらと藍色の線が一本走っていた。皮膚の下から、透けるように。血管ではなかった。もっと硬い、もっとまっすぐな。陶器の罅のような。


はじめは首すじの一本だけだった。それが日ごとに増えた。鎖骨のあたりに一本。手の甲に一本。数えると皿の罅と同じ数だけ私の体にも罅が走っていた。皿の罅が九本増えれば、私の罅も九本増えた。私と皿は同じ数を分けあっていた。合わせて、いつも同じ数。まるで、私が九枚目の皿で皿が私の体の続きであるように。触れるとその藍色の筋は皮膚の下で硬くつめたかった。指ではじくとちん、と、澄んだ音がした。

その音は、皿をはじいた音と寸分たがわなかった。私は、試しに皿をはじき次に、自分の腕の罅をはじいた。ちん。ちん。同じ音だった。同じ高さで同じ澄み方で。私はもう皿と同じ材質になりかけていた。焼き物に。触れると体温のない場所が増えていた。首すじ。手の甲。頬の右半分。そこだけ陶器のように、なめらかでつめたく指をあてるとうっすら藍色の文様が透けて、見えた。皿の水の文様と同じ流れの模様が。私はそれを化粧で隠そうとして、やめた。隠しても、育つ。皿の罅が育ったように。

罅は、皿と私の体を行き来した。


皿の罅が減った朝は、私の体に増えている。

私の罅が減った朝は、皿に増えている。

合わせた数だけは、いつも同じだった。合っていて、足りない。

私は割れていくのだ、と、思った。皿のように。


体のあちこちがつっぱるように、なった。指の関節。肘。膝。動かすと内側でぴき、と、鳴った。陶器が冷える夜にひとりでに鳴るあの音だ。私は水に触れるのがこわくなった。冷たい水に触れるとそのぴきが大きくなる。ひとおもいに割れてしまいそうで。

台所の桐の箱の九枚も日ごと罅を深めていった。九枚ともいまでは罅だらけだった。それでいて、一枚も割れなかった。割れそうで割れない。ちょうど私の体が割れそうで割れないのと同じだった。


私は割れるその日を待つように、なった。こわいのに、待っていた。いつ割れるのか。どこから、割れるのか。夜、蒲団の中で自分の体をそっと指ではじいて、まわった。ちん。ちん。どこもまだ澄んだ音を立てた。まだ割れていない。まだ私は九枚目のままだ。十枚目になるのは割れて、井戸の底へ落ちて、揃ったそのときだ。私は割れないように、体を丸めて、眠った。冷たい水にも近づかないように。割れ物のように、そっと。


体が陶器になるにつれて、私の体は水をほしがるようになった。こわさは少しも変わらなかった。冷たい水に触れるたび悲鳴をあげたくなる。それなのに、足が風呂場へ向かう。手が蛇口をひねる。いやだ、と、頭の中では叫んでいるのに、体だけが言うことをきかなかった。乾くと罅がぴき、と、鳴った。割れる、と思うと体が勝手に水を探した。私はこわいのに、水から、出られなくなった。震えながら、水に浸かっているあいだじゅう私は自分の体がもう私のものでないことを思い知らされていた。私たちは、九枚の割れかけた皿と割れかけた私は同じものに、なりつつあった。


ある晩、いちばん上の一枚が、とうとう欠けた。


縁が三日月の形にぱきっと欠けて、床に落ちた。私はその欠けたかけらを拾おうとした。拾えなかった。かけらは、私の足もとでみるみる透きとおって、水になって、畳にしみこんでいった。あとには湿った三日月のしみだけが残った。


その欠けた皿は翌朝にはもとどおりになっていた。欠けた縁がふさがって。かわりに私の右の耳たぶが三日月の形に欠けて、いた。痛みは遅れて、来た。半日ののち耳の芯が焼けるように、疼きはじめた。骨まで灼ける痛みだった。私は畳を転げまわった。押さえた指の隙間から、流れたのは血ではなかった。冷たい、井戸の水のようなものが止まらずに垂れて、畳に丸いしみを作った。ただ、鏡の中で私の耳たぶが皿と同じ白い陶器のなめらかな断面を見せて、欠けて、いた。


私は、その欠けた耳たぶを拾おうと床を探した。なかった。三日月のかけらはどこにもなかった。かわりに桐の箱のいちばん上の皿の欠けがふさがって、まんまるに戻っていた。皿の欠けが私の耳へ移ったのだ。皿が欠けると私が欠ける。私が欠けたぶん皿が揃う。私と皿はそうやって、少しずつ入れ替わっていた。皿が十枚に揃うとき私はすっかり欠けて、なくなっている。


私は鏡を見るのをやめた。鏡に映る自分が日ごとに皿に近づいていくのを見たくなかった。けれど、部屋じゅうの水面が鏡になった。風呂の水。コップの水。台所の溜めた水。そのどれもが私の欠けた顔を映した。右の耳たぶが欠け首すじに藍の罅が走り頬の右半分が陶器の白さになったその顔を。私は水を見ないように、うつむいて、暮らした。うつむいたその先の床に溜まった水にも私の顔は映った。もう逃げ場はどこにもなかった。


私は、水面に映る自分の欠けた顔にいつのまにか見入るように、なっていた。こわいはずのその顔が日ごとに静かできれいに見えた。人であったころよりずっと。

ある晩、体をはじいて、まわっていて、私は胸のあたりでにごった音を聞いた。ちんではない。ごつ、という鈍い音。そこだけまだ陶器になりきっていない。まだ肉の残っている場所。心臓のある場所だった。私は悟った。最後に、陶器になるのはそこだ。心臓が陶器になったとき私は完全な皿になる。十枚目に。私はその鈍い音のする場所をそっと押さえた。まだ脈があった。まだ私は少しだけ人だった。あと少し。あと心臓ひとつぶん。


私は悟った。足りない一枚は皿では埋まらない。私で埋めるのだ。

いちまい。にまい。私の耳たぶが欠けたその音まで、あの声は数に入れて、数えた。


第六章 指


夢を見るように、なった。


同じ夢だった。私は暗い、井戸の底にいる。冷たい水に膝まで浸かって。手さぐりで水の底を探している。何かを。足りない、何かを。指先が水の底の泥に触れる。泥の中に硬いものがある。皿だ。私はそれを拾い上げる。数える。いちまい。また探す。にまい。井戸の底は割れた皿でいっぱいだった。何百枚もの。それでもいつも一枚足りなかった。


目が覚めると手が濡れていた。爪の間に泥が詰まっていた。井戸の泥が。私は井戸を覗いた覚えはなかった。夢の中でしか。それなのに、指は井戸の底を知っていた。

夢の中で私はいつも皿を探していた。井戸の底の冷たい泥の中を手さぐりで。割れた皿の鋭い縁で指を何度も切りながら。それでも探すのをやめられなかった。あと一枚。あと一枚が揃えば、上がれる。井戸の底から、日の当たる上の世界へ。けれど、探しても、探しても、いつも九枚だった。十枚目がどうしても、見つからなかった。目が覚めて、私は悟った。十枚目は井戸の底にはない。上にいる。まだ生きて、探している私自身が十枚目なのだ、と。


目が覚めても、指の泥は落ちなかった。爪の間に井戸の底の黒い泥が詰まっていた。私はそれをほじり出そうとした。ほじると泥の中から、白い、小さなかけらが出てきた。骨のかけらのようだった。あるいは陶器の。私はそれを桐の箱の皿の上に置いた。置くと水になって、藍の文様にしみこんだ。皿がまた濡れた。私は、毎晩井戸の底の何かを少しずつこの部屋へ運び上げていた。眠りながら。皿を揃えるために。

指を折って、皿を数えるその余った左手の一本。人差し指。爪が剝がれかけていたあの指。それがある朝、根もとから、白く硬くなっていた。骨まで。陶器の指になりかけていた。曲げるとぴき、と、鳴った。血の通わない、音だった。


陶器になった指は日ごとに増えた。人差し指の次は中指。その次は薬指。左手が少しずつ白い、硬い、冷たいものに、変わっていった。感覚のない指で皿に触れると皿と指の境目がわからなかった。どこまでが私の指でどこからが皿なのか。私は、自分の左手を桐の箱に入れて、九枚といっしょに数えられそうでこわかった。いちまい。にまい。私の指も、その数のうちに入れられてしまいそうで。


ある朝、私は自分の手を数えた。何気なく。いち。に。さん。数えて、指が九本しかないことに気づいた。左手の小指がなかった。根もとから。痛みも傷もなかった。ただ、そこにあったはずの指がなめらかになくなっていた。はじめから、九本だったように。私は桐の箱を開けた。九枚の皿のいちばん上に白い、陶器の小指が一本のっていた。皿の上に。十枚目の皿の代わりに置かれたように。私の小指が。私はその指だけ感覚がなかった。冷たい水につけても、何も感じなかった。


菊の指のことを私はあとで知った。


古い記録のいちばん奥に小さく書いてあった。皿を割った菊は、責め苦のなかで片手の指を一本切られた、と。割った皿の代わりに、と。台所のまな板の上で菊の白い指が一本落とされた。皿を切り分けるその同じ包丁で。切られた指は、割れた皿のかけらといっしょに井戸へ捨てられた。皿が九枚になったその同じ夜菊の指も九本になった。指を一本。十本の指から、一本。九本に。皿と同じだった。十から、一を引いて、九。菊は、九本の指で井戸の底の皿を数えつづけている。足りない、一本と一枚を探して。


陶器になった指は、水に浸けても冷たさを感じない。

けれど、皿に触れたときだけは、何かが伝わってくる。

遠くで数えている声の、その振動のようなものが。

私はその指を、なるべく皿に近づけないようにした。近づけると、数がわかってしまう。


切られた指の代わりに菊が探しているのは皿だけではなかった。指もだった。自分の失くした一本の指。それを菊は次に、来る者の指で埋めようとした。私の陶器になった指は井戸の底へ落ちて、菊の九本を十本にするための一本だった。菊は指が揃えば、皿が数えられる、と、思っている。皿が揃えば、上がれる、と。けれど、揃わない。永遠に。一本埋めれば、また別の一本が足りなくなる。数えるための指を菊はいつまでも集めつづける。


私は、なくなった小指のあった場所をずっと撫でていた。撫でるとそこから、井戸の匂いがした。私の体の一部がもう井戸の底にある。あの皿の上の小指が私の井戸へのいちばん初めの一部だった。そのうち次の指がなくなる。次の耳が。次の頬が。私は、少しずつこの部屋から、井戸の底へ運ばれて、皿になって、積まれていく。あの人が私を数えられるように。ひとかけらずつ。いちまい。にまい。


私は、なくなっていく自分のかけらを惜しまなくなった。惜しむ気持ちのほうが先に抜き取られていた。小指の次に、右の耳たぶが欠けその次に、左の薬指が陶器になった。ひとつ失うたびにあの数え唄がやさしくなり私の胸にうれしさが湧いた。もっと欠けたい、と、思った。思ってから、ぞっとした。このうれしさは私のものではない。誰かが私の中へ入れているものだ。いやだ、と叫ぶ私が日ごと小さくなる。叫ぶ声が部屋の隅のほうから、聞こえるようになった。私は残りの指を数えた。六本。待ち遠しいと感じているその感じ方そのものがいちばんこわかった。


残った指で私はまだ皿を数えられた。六本の指と九枚の皿。数が合わなくなっていくのがかえって、心地よかった。人の形が崩れ皿の側へ傾いていく。その傾きの角度がそのまま、あの人へ近づく距離だった。そのあいだにも、指は日ごとに、また一本、また一本と白くなっていった。朝、目が覚めるたびに数が違う。私は夜ごと残りの指を折って、確かめた。まだ六本。まだ五本。指が減るたびに数え唄の声が耳もとまで近づいてきた。もう井戸の底からではなかった。私のすぐ隣であの人は数えていた。

六本の指で私は皿を数えられなくなっていた。片手が五本に満たない。両手をあわせても、六本。数えるには指が足りなかった。やがて足の指まで使うようになったが、それも一本また一本と陶器になって欠けていき、数える指が減るほどに私は数えることへ必死になっていった。指がなくなる前にあと何枚数えられるか。数えられなくなったら、私はどうなるのか。数えられない者は、井戸の底でいちばんこわい目にあう気がした。数を見失って、迷子になったあの泣き声のように。私は、残った指を握りしめて、そのこわさに耐えた。握った指の中でまた一本ぴき、と、鳴った。


私の左手の人差し指が陶器になったのはその菊の切られた指の代わりだった。菊が失くした一本を私の指で埋めようとしている。私は指を隠すように、なった。手袋をして、暮らした。手袋の中でその指は日ごと白く硬く冷たくなっていった。


私はその指でものを掴めなく、なった。箸もペンも滑り落ちた。陶器の指には力が入らない。かわりにその指は水を恋しがった。放っておくと勝手に蛇口のほうへ水回りのほうへ伸びていく。私はその手を反対の手で押さえた。押さえていないと指が私を井戸へ連れていこうとする。夜、眠っているあいだにその指が蒲団を抜け出して、台所の桐の箱をそっと撫でているのを私は明け方何度も見つけた。


ある晩、数え唄の途中でかちゃではない、音がした。


ころり、と、乾いた硬いものが床を転がる音。私は明かりをつけた。桐の箱のそばに白いものが一本落ちていた。指だった。陶器の指。私のものではなかった。私の指は手袋の中にまだあった。それは菊の切られた指だった。井戸の底から、上がってきた。数えるための九本目の指として。私に渡そうと。


私は、それを桐の箱の皿の上にそっと置いた。置いた、とたん指は水になって、皿の藍の文様にしみこんだ。皿が一枚また濡れた。その晩、数え唄はいつもよりやさしかった。ありがとう、と、言うように。あとひとり、と、言うように。あと指一本と言うように。私のどの指が次に、陶器になるのかを私はもう数えはじめていた。


第七章 九


なぜ九で止まるのかがわかった。


わかった、というのは正しくない。ただ、体のほうが先に知っていた。あの声は九まで数えて、いつも止まる。じゅうまい、とは言わない。言えないのか言わないのかそれさえ私にはわからなかった。理屈はどこにもなかった。ただ、九のあとのあの空白に私の名が、入るのだということだけが腹の底でわかった。わからないまま、わかった。それがいちばんこたえた。


私はこの部屋の水道の検針票を見つけた。簞笥の隙間に落ちていた。前の住人のものだった。ひと月の使用量が異常に多かった。ひとり暮らしとは思えないほど。まるで、毎晩大量の水を使って、何かを洗って、いたように。何百枚もの皿を。あるいは、毎晩浴槽に井戸の水を満たして、その中に身を沈めて、いたように。検針票のいちばん下の月は使用量がゼロだった。その月に前の住人はいなくなった。十枚目になって。


その生きた十枚目が井戸に落ちて、皿になると数え唄はやっとじゅうまい、と、言える。言って、そして、また九枚に戻る。新しい、生きた十枚目が来るのを待って。

私は、簞笥のいちばん奥に貼られた古い紙を見つけた。何人もの名前が書いてあった。この部屋に住んだ歴代の住人の名らしかった。上から、順に。どの名にも菊という字があった。菊江。菊代。小菊。真菊。名のいちばん下に私の名があった。私の名には菊の字はない。それなのに、私の名のすぐ下に鉛筆でうっすらともう一つ名前が書き加えられかけていた。菊という字から、始まる名前が。私がそう呼ばれる日のために。


私は、その書き加えられかけた菊の字を消そうとした。消しゴムで。爪で。消えなかった。むしろ、こすると字は濃くなった。私がこすって、それに命をあたえているように。私は消すのをやめた。やめて、じっとその字を見た。見ているとその菊という字がだんだん私の名前の読み方に思えてきた。私はいつから、菊という名前だったろう。生まれたときからではなかったか。私は、自分の本当の名前を思い出せなくなっていた。私の前の菊という人もそうやって、十枚目になった。その前の誰かも。何十年も。この井戸は順番に待っていた。次の十枚目を。


私はこの部屋の歴代の住人を思った。家賃が安い、いわくつきのこの部屋に寄る辺なく、たどり着いた者たちを。みな九枚の皿を見つけ数えそして、十枚目になった。私のように。私もほかに行くところがなくて、ここに来た。安さにつられて。あの皿を数えて、しまった。


逃げよう、と、決めた晩ほど水音はやさしかった。まるで、私の心を読んでなだめるように。いかないで。ここにいて。外は寒いよ。ここはあたたかいよ。井戸の底はしずかでいいよ。数える声が子守唄のように、聞こえた。いちまい。にまい。私は、そのやさしさに蒲団をかぶって、耳を塞いだ。塞いでも、その声は私の体の内側から、聞こえた。もう私の心臓の音がその数え唄に合わせて、打っていた。


逃げる、という言葉が私の中から、少しずつ消えていった。逃げて、どこへ。私には帰る家も待つ人もいなかった。この部屋に来る前から、私はもうひとりだった。世界のどこにも私の居場所はなかった。だから、この井戸の底の寂しい声がいっしょに数えよう、と、誘うとき私はいやだ、と、心の底から、思えなかった。ひとりで、上にいるよりふたりで底にいるほうがまし、かもしれない。そう思いはじめている自分がいちばんこわかった。


私は逃げようとした。

九という数を、私は日に何度も見るようになった。

時計の針。釣り銭。歩数。

どれも九で止まって、その先へ進まない気がした。

十へ進めるのは、私が十枚目になったときだけなのだ。


荷物をまとめた。鍵を大家に返しに行こうとした。玄関の鍵が回らなかった。三和土に水が溜まっていた。井戸の匂いの水が。くるぶしまで。振り返ると部屋じゅうの畳から、水がしみ出していた。井戸の水が上がってきていた。この部屋を井戸の底にしようとするように。


水は、畳を浸し、簞笥の脚を浸し、桐の箱を浮かべた。部屋がゆっくりと井戸の底に沈んでいく。私は、いちばん高い、簞笥の上に上って、膝を抱えた。下を見た。水面に私の顔が映った。首すじの藍の罅が水の中で光っていた。そして、水の底から、白い手が幾本も伸びて、簞笥の縁を掴んだ。指の足りない手だった。九本しかない手がいくつも。みな私の十本目の指をほしがって、水の上へ伸びてきた。


私は、簞笥の上で膝を抱えたまま、その九本指の手を数えた。いくつあるだろう。水の上に伸びた手を。いち。に。数えはじめて、やめた。数えれば、その手の仲間に私も入ってしまう。けれど、数えずにはいられなかった。私の指は、勝手に折れて、その手の数を数えはじめた。いち。に。さん。水の上に伸びた九本指の手をひとつずつ折って、いく。よん。ご。ろく。しち。はち。く。九まで数えて、折る指が尽きた。それ以上は数えられなかった。数えられない、ということが答えだった。九つの手とそのいちばん端にまだ誰もいない、空いた場所がひとつ。


私は、その空いた場所を見て、ふしぎと安心した。ようやく決まった場所ができた、と思った。

そこに居場所があると思ったのは私の思い違いだった。

あれは席ではない。皿を伏せて置くための窪みだ。


部屋を出ようと決めたのは、九月の終わりだった。

不動産屋に電話をして、解約の話をした。

翌朝、電話の履歴が消えていた。

かけ直すと、その番号は使われていないという案内が流れた。


私は簞笥の上から、水の中へ片足を下ろした。冷たくはなかった。ぬるかった。長く何かを浸けておいた水のぬるさだった。

下から、いくつもの手が足首を掴んだ。

この部屋を出た者はいない。

そう気づいてから、私は台帳を見るのをやめた。

見なければ、まだ自分は例外かもしれないと思えた。

思えているうちだけ、人は正気でいられる。


――ここまでは、私の話だ。


迎える手つきではなかった。掴んで引いた。爪が皮膚に食い込んだ。


桐の箱が水に浮いて、ゆっくりとこちらへ流れてきた。蓋が開いていた。九枚の皿が水の上でかちゃ、かちゃ、と鳴った。私を呼ぶように。あとひとり。あと一枚。おいで。おいで。井戸の底でひとりは寂しい。一緒に数えよう。いちまい。にまい。ずっと。ずっと。


私はそのとき菊の寂しさがわかってしまった。

私はいちど菊を憐れんだ。井戸の底でたったひとり数えつづける姿を思って。

いま思えば、それがいちばんいけなかった。

憐れんだとき、私はあれにこちらから、指を差し出したのだ。


あれは寂しがってなどいない。寂しそうな声を出すだけだ。

すがるような声も、やさしい呼び方も、身内を迎えるような口ぶりもぜんぶこちらの戸を、内側から開けさせるための道具にすぎない。

飢えているものは飢えている、とは言わない。

おいで、と、言う。


あの声のあのすがるような調子。あれが本物か演技か私にはもうわからなかった。

わからないことがいちばんこわかった。

わからないまま、私の胸には誰かといっしょに、数えたい、という気持ちだけが日ごとに太っていった。

その気持ちの出どころも見当がつかなかった。


足が水の中へ一歩進んだ。私の意思ではなかった。陶器になりかけた左足が水の匂いのするほうへ向かった。井戸のほうへ。私は柱にしがみついた。しがみついた指がぴき、と、鳴って、一本欠けた。ころり、と、水に落ちて、皿になった。じゅうまい、と、あの声が言った。そして、またいちまい、と、数えはじめた。私の欠けた指を一枚目にして。


第八章 十枚目


いま、あなたが、これを読んでいる。


それでじゅうぶんなのだ。あなたはもう数えはじめている。この話を一行読むごとに。いちまい。にまい。気づかないうちに。私があの箱の蓋を開けて、皿を数えて、しまったように。あなたはこの話を開いて、読んでしまった。もう遅い。


数えている、という感覚はないだろう。あなたは、ただ、字を目で追っているだけのつもりだ。けれど、行をひとつ下へ送るたびにあなたはひとつ数えている。いちまい。にまい。この話の段落を。文を。あなたは几帳面に数えながら、ここまで来た。人は、並んだものを見ると数えずにはいられない。皿を。段落を。指を。あなたのその数えたがる癖こそがあの声があなたを選んだしるしなのだ。


あなたの家の台所を思い出して。食器棚のいちばん奥。使わない、古い皿が重ねて、しまってあるあのあたり。今夜数えてみるといい。何枚あるか。きっと一枚足りない。あるいは一枚覚えのない皿が増えている。白磁に藍の水の文様の冷たい皿が。あなたの家にも井戸はなくても、水道はある。排水口はある。水の通う道はどこにでも繋がっている。あの井戸の底まで。


あなたの家の水回りを思い出して。台所のシンク。洗面台。風呂の排水口。夜静かなときに耳を澄ませてみるといい。ぽたり、という水滴の音の合間に細い声がしないか。いちまい。にまい。あなたは、たぶんこれまでそれを気のせいだとしてきた。冷蔵庫の音だと。配管の鳴る音だと。そうやって、打ち消してきた。けれど、今夜からはもう打ち消せない。一度そうと知ってしまえば、その声は毎晩あなたのために数えはじめる。


今夜あなたが、眠ったころ。台所のほうでかちゃ、と、音がするだろう。皿の触れ合う音が。そして、細い声が数えはじめる。いちまい。にまい。九まで数えて、止まる。一枚たりない、と、言う。あとひとり、と、言う。そのとき、声があなたの名を呼んでもけっして、返事をしては、いけない。返事をした者から、順に迎えにくる。暗い窓の硝子を見ては、いけない。そこに濡れた女が映って、笑っている。やっと見つけた、と。そして、指を折って、皿を数えては、いけない。数えれば、足りない一枚があなただとわかってしまう。


あなたはたぶん確かめずにはいられない。人は足りないと言われると確かめたくなる。今夜あなたは食器棚を開ける。奥の使わない皿を出して、数える。いちまい。にまい。そして、気づく。一枚多いか一枚少ないか。どちらにしても、あなたの手には覚えのない、白磁に藍の水の文様の冷たい皿が一枚残る。その皿の裏をそっと触ってみるといい。濡れているはずだ。あなたの家には井戸などないのに。


けれど、あなたはたぶん数える。人は足りないものを数えずにはいられない。九まで数えて、あなたも気づく。十枚目がない、と。そして、いつか、わかる。十枚目はあなただ、と。


そのときあなたは自分の指を数えるだろう。無意識に。両手を広げて。いち。に。さん。十本あるかを確かめるために。そして、たぶんこう思う。当たり前だ十本あるに決まっている、と。けれど、よく見て。あなたのそのどれか一本がほかより少し、白くはないか。少し、冷たくはないか。爪の色が藍色に沈んではいないか。もし、そうなら、あなたはもう数えられはじめている。井戸の底から。


私がこの話を書いているのは四〇四号室ではない。あなたは、この話の部屋を私の部屋だと思って、読んできた。ちがう。この話のあの部屋はあなたの部屋だ。あなたの台所。あなたの水道。あなたの食器棚の奥の古い皿。井戸はどこにでもある。埋められ忘れられた水の底がどんな建物の下にもある。あなたの住まいの下にも。そこから、細い声がいま、この行をあなたが、読んでいるまさにいま、数えはじめている。

数えることは、誰にでもできる。


できるからこそ、始めてはいけない。


始めた者は、終わらせたくなる。終わらせるには、足りない一枚を埋めるしかない。

埋められるものは、この世に一つしかない。


私にできることはこの箱をあなたに渡すことだけ。この話がその桐の箱だ。九枚の割れかけた皿だ。読んだあなたは、もうそれを受け取って、しまった。次の十枚目をあなたが、見つけて、渡すまであなたは井戸の底で数えつづける。私といっしょに。いちまい。にまい。


寂しくはないよなどと思っては、いけない。ここには慰めなどひとつもない。あるのは数だけだ。

そして、その数の中にあなたの指はもう入っている。


ごめんなさい、とは言わない。私もそうやって、渡された。前の菊に。あなたもいつか、次の誰かに渡す。この話を。それがあの桐の箱だ。九枚の割れかけた皿だ。あなたが、この話をこわいねと誰かにするとき。あなたの口は、勝手にこの数え唄をうつすだろう。いちまい。にまい。そうやって、井戸は次の十枚目を手に入れる。あなたが、私をそうしてくれたように。私も菊をそうしたように。


いま、私の指がまた一本欠けて、皿になった。水位はもう胸まで来ている。冷たくはない。もう慣れた。あなたもじきに慣れる。おいで。井戸の底は静かでいい。上では、あんなに足りない、足りないと数えていたものがここではぜんぶ揃って、見える。あなたの足りない一枚も。あなた自身がその一枚だと気づくのがここからはよく見える。


いちまい。にまい。


この話を読み終えたあと、あなたは台所へ行くだろう。


行かないと決めても、いつか行く。人は水と食器のあるところで暮らしている。

そのとき、食器棚の奥を見ないでいられるかどうか。

見た者から順に、数えはじめる。

私はいま、うれしいと感じている。

それがいちばんこわい。


最後にもうひとつ。

この話をどこかで誰かにするとき、あなたは必ず数を口にする。

九枚、と。


そのとき、あなたの家の水回りで、返事をする声がある。

このうれしさは私のものではない。菊が私に感じさせているうれしさだ。いやだと叫んでいた私はもうこの体のどこにも残っていない。


指は陶器になるとき焼けるように、痛い。慣れるなどと言った者はみなもう口がない。


あなたはこれをこわい話として、読み終える。読み終えて、明かりを消す。

その暗がりであなたはたしかめずにはいられなくなる。

自分の指が何本あるかを。

数えたら、終わりだ。


忘れないで。これはただのこわい話ではない。読み終えたら、あなたはきっと確かめたくなる。自分の家の皿の数を。自分の手の指の数を。数えては、いけない。数えれば、足りないものが見つかる。足りないものが見つかれば、あなたはそれを埋めたくなる。そして、埋められるのはこの世にただ一つ。あなた自身しかない。だから、数えないで。お願いだから。けれど、あなたはたぶんもう数えている。


あなたは、いま、この一文を読みながら、心の中でいくつめの文だろう、と、数えなかったか。あるいはあと何行でこの話は終わるだろう、と。それが始まりだ。足りないものを探して、数える。その癖がついたら、もう遅い。あなたの家のいちばん暗い水回りで今夜細い声があなたのぶんを数えはじめる。あなたが、この話を閉じても。閉じたあとの静けさの中でいちばんよく聞こえる。台所のあの暗がりから。いちまい。にまい。


最後に、ひとつだけ。


今夜台所で皿を数えたあと。九まで数えて、振り返る前にそっと自分の指を折って、数えてごらん。いちまい。にまい。もし、数え終えて、指が一本余ったら。その余った指が冷たかったら。もうあなたは十枚目だ。


いま、台所でかちゃ、と、鳴った。

あの声が数えはじめた。あなたの名を。いちまい、にまい、と。


今あなたの左手の指をそっと見てごらん。

どれか一本がほかより少し、

白く少し、


冷たくなっては、



いないか。




了


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


この話の最終話になります。

お盆の時期、お付き合いくださり誠にありがとうございました。



隠岐群青

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。