氷解アイオン
黒い羽根が舞う。
私が黒竜――アラストルのいる竜舎に足を踏み入れた瞬間、竜房の中が騒がしくなった。
ここにいるのはアラストル一頭のみだ。
「どうしたの?」
アラストルは鉄格子の隙間に鼻を差しこんで、ふんふんとひくつかせている。
私のにおいを嗅いでいるみたいだ。
黙って様子を見ていると、アラストルは興奮したように翼をばたつかせ始めた。
「落ち着いて」
竜笛を吹くと、翼をばたつかせるのは止めてくれたけれど、「キャア、キャア」と鳴いて、目を爛々とさせている。
怒っているわけじゃない。むしろ、何かに喜んでいる反応だ。
「どうしたんだろう……」
私が移動すると、アラストルも雛のようについて来る。
それを見たマシーシャさんが首を傾げて、
「急にどうしたんでしょう。フィルナ様から美味しそうなにおいがしたとか?」
「におい……?」
直前までエアルの散歩をしていたけれど、アラストルとエアルは、まだそこまで仲良くなっていないはず。
ひとつ思い当たるとすれば……。
「まさか、この竜笛?」
私は、ポケットに入れていた竜笛を取り出した。
すると、アラストルの目はその竜笛に釘付けになった。
これは、ルイス様から渡された、ヘリアス様の記憶を取り戻すための竜笛だ。
まだ、ヘリアス様の記憶は戻せていない。
記憶を戻した時にヘリアス様が気を失う可能性を考えて、仕事が落ち着いた日に行うと決めていた。それが、今日だった。
(ヘリアス様が巡回から戻ったあとに試すという話だったから、持ち出してきたのだけれど……)
なぜ、アラストルはこの竜笛に反応したの? 思考の海に沈みそうになった私を、騒がしい鐘の音が引き戻した。
「誰か来た?」
客人訪問の連絡は受けていない。
私はマシーシャさんにアラストルを任せて、城門の方へ向かった。
そこには、ちょうど巡回から戻られたばかりのヘリアス様の姿もあった。
「ヘリアス様! あの鐘の音は……?」
「連絡はなかったが、珍しい客人が来たようだ」
そう言って、ヘリアス様は空を仰いだ。
空には二頭の竜が飛んでいて、こちらの様子を探るように旋回している。
やがて、二頭の竜は風を巻き上げながら、私たちの前に舞い降りた。
その竜の姿を見た時、身体の奥から高揚感が湧き上がってきた。
私たちが普段目にしている野生の竜よりも、さらに大型の竜だった。
削り出した氷のように透き通った二本の角。
下顎から胸部にかけての鱗は深い紺色をしていて、残りの半身は雪のような白で覆われている。
「氷竜……!」
私の声は興奮でうわずっていた。
インヴィディア王国では滅多にお目にかかれない、氷属性の竜だ。
「これが氷竜なんですか!」
いつの間にか背後にいたシーラが、ひどく驚いた声を上げた。
「ええ。氷竜はルクスリア帝国にしか生息していない、とても珍しい竜よ」
「へぇ〜! え? ということは、彼らは……」
シーラの顔に、さっと緊張が走る。
低く唸り声を上げる氷竜の背中から、漆黒の竜騎士服を纏った男性が降り立った。
濡れた氷のように煌めく銀髪に菫色の瞳をした、十代後半くらいの端正な顔立ちの青年だ。
彼がヘリアス様に向けて敬礼をすると、それに応えるように、ヘリアス様も敬礼をした。
ヘリアス様の隣に並んだ私も、深く一礼した。
「私はルクスリア帝国の竜騎士、オスカー・クリスタロスと申します。突然お伺いして申し訳ありません。ヘリアス卿に頼みがあって参りました」
「帝国の竜騎士……それもクリスタロス侯爵家のご子息が、なぜここに?」
クリスタロス侯爵。帝国の最有力貴族の序列において、第二位に数えられる家のはず。
オスカー様は深くうなずいて、
「あなたの奥方は、腕のいい竜医師だと聞いたので」
ちらりと、その目が私を見た。そう言われると少し緊張する。
「フィルナに用があるということは、竜の治療か」
「その通りです」
「その竜はどこに?」
「はい。私の竜、アイオンです」
彼は、自身の氷竜――アイオンを見上げた。
見たところ、怪我をしている様子はない。それに、怪我だったらここに運ばず、帝国で治療しているはず。
私がじっとアイオンを観察していると、ちょうど首のあたりから、白い靄のようなものが噴き出したように見えた。
(今のは……?)
その時、私の視界をさえぎるように、体格のいい男性が立ちはだかった。
彼は私を見下ろして片眉を跳ね上げ、それからオスカー様に視線を向けた。
「オスカー様、やはり私は反対です。インヴィディア王国の、それも女の竜医師に診察させるなど、不安でしかありません」
「よせ、マクシミリアン!」
オスカー様が鋭く叱責する。
マクシミリアン様は、三十代くらいの目つきの鋭い竜騎士の男性だ。
彼は不満そうな顔で、私をにらんでいる。
ルクスリア帝国では、女性の竜医師はまだまだ少ないとは聞いていたけれど……。
「貴様……わざわざ乗りこんできて、いい度胸だな」
ヘリアス様が鼻で笑った。
冷え切ったその目を見て、オスカー様が慌てて謝罪した。
「フィルナ様、そしてヘリアス卿、不快にさせてしまい申し訳ありません!」
「い、いえ、大丈夫です。私のことよりも、竜の状態が気になります」
正直に言うと、早くアイオンに近づきたいし、一刻も早く症状を和らげてあげたい。
私がうずうずしていることに気づいたのか、ヘリアス様は少し困ったように笑った。
仕方ないというように、ヘリアス様は一度怒りを鎮めて、オスカー様に視線を向けた。
「オスカー殿。本来、帝国の竜は帝国の竜医師が治療することになっているはずだが」
「ご心配ありません。すでに両国の許可は得ております」
「……ならば、せめて連絡くらい入れてくれ。撃墜されたいのか」
「も、申し訳ありません」
ヘリアス様はあきれたようにため息をついてから、私を見た。
「頼めるか、フィルナ」
「もちろんです。オスカー様、気になるのは喉元ですよね」
オスカー様は目を見張り、大きくうなずいた。
「驚きました。すでに気づいておられましたか」
「はい。冷気のようなものが見えましたから」
マクシミリアン様はふんと鼻を鳴らし、「偶然でしょう」とつぶやいた。
だけど、ヘリアス様ににらまれ、慌てて視線をそらした。
私はアイオンにゆっくり近づいた。
アイオンが唸り声を上げるたびに、わずかに開いた口から冷気がこぼれた。
威嚇しているのかと思ったけれど、近づいても暴れることはなく、とても大人しい子だった。
オスカー様たちが、じっと真剣な顔でこちらを見つめている。
私は下からアイオンの身体を覗きこんだ。やはり、首周りに霜がついている。
「これは、氷結化ですね」
「氷結化とは?」
ヘリアス様が訊ねる。
「本来は外に吐き出す氷が、体内に逆流してしまう病気です。今は、氷の通り道である氷管が凍っていますが、やがて全身が凍りつきます。このまま放置すれば、命に関わります」
オスカー様が痛みをこらえるように眉を寄せた。
「帝国で治療は?」
「受けさせましたが、まったく効果がありませんでした」
「そうですか……」
氷竜の治療はさすがに初めてだ。ここで治療できるとは断言できない。
だからといって、見過ごすことはできない。アイオンも、オスカー様のことも。
オスカー様に視線を向けると、彼のにぎり拳がカタカタと震えていた。
ここにたどりつくまでに、何度「治せない」と言われてきたのだろう。
私は覚悟を決めるように深く息を吐いて、それから口を開いた。
「まずは隔離竜舎で、アイオンの状態を確認させていただきます。この子にとってどのような処置が良いのか、一緒に考えていきましょう」
「フィルナ様……!」
オスカー様はっと息を飲み、それから胸に手を当てて微笑んだ。
歓喜と安堵からか、色素の薄い肌がじわじわと赤く染まっていく。
「ありがとうございます! どうか、アイオンをよろしくお願いします!」




