43.究極の二択
放課後。
夕焼け色に染まる生徒会室では、今日も紙をめくる音だけが静かに響いていた。
「これで今日の仕事は終わりかな。」
レオンが最後の書類へ印を押しながら言う。
「お疲れ様でした。」
セラも机の上を片付け、小さく息を吐いた。
「じゃあ私は先に帰ります!」
リリアが元気よく鞄を抱える。
「今日は友達と約束してるので!」
「気を付けてね。」
「はい!」
ぱたぱたと部屋を飛び出していく。
その姿に自然と笑みが零れた。少し離れた場所では、シオンが提出書類をまとめていた。
「職員室に寄ってから帰ります。」
それだけ告げると、書類を抱えて部屋を出ていく。
「お疲れ〜。」
カイは椅子へもたれたまま軽く手を振る。
「俺も今日は用事あるんで帰りまーす。」
「本当に〜?」
レオンが大袈裟に疑う。
「失礼だなぁ。」
笑いながら去っていく。
部屋にはレオン、ノア、セラだけが残った。ノアはいつものように荷物をまとめていた。
「じゃあ僕も帰るね〜。」
「お疲れ様です。」
そう言うと、ノアはちらりとセラを見る。目が合う。
……と思った瞬間、また少しだけ逸らされた。
落とし物整理の日以来、以前より話しかけてくれるようにはなった。けれど相変わらず目だけはあまり合わせてくれない。
「じゃあね〜。」
ノアはそれだけ言うと、生徒会室を後にした。
レオンも書類を抱える。
「私も校長先生へ報告があるから先に行くね。」
「はい。」
気付けば部屋にはセラ一人になっていた。
最後に机を整え、窓を閉める。夕暮れの風が一瞬だけ頬を撫でた。
「私も帰ろう。」
鞄を肩へ掛け、生徒会室を後にする。
♡ ♡ ♡
廊下は放課後特有の静けさに包まれていた。部活動へ向かう生徒たちの声が遠くから聞こえる。
窓の外ではグラウンドを走る運動部の姿も見えた。
(今日はいい天気だったな。)
そんなことを考えながら歩いていると、不意に楽しそうな笑い声が聞こえてきた。角を曲がった先には、一年生が四人ほど集まっていた。
「今日の実技やばくなかった?」
「炎が暴走しかけた!」
「先生めっちゃ怒ってたよね!」
「でも最後は成功したじゃん!」
他愛もない会話。
どこにでもある放課後の光景だった。
その時。
「……あれ?」
一人の男子生徒が立ち止まる。
壁へ手をつき、小さく眉を寄せた。
「どうした?」
「ちょっと……。」
ふらり。
身体が揺れる。
「お、おい?」
呼び掛ける声。
次の瞬間だった。
『どさっ。』
男子生徒がその場へ崩れ落ちた。
「え……?」
「ちょっと!」
「しっかり!」
周囲が一気に騒がしくなる。セラも反射的に駆け出した。
「どうしたの!?」
一年生たちをかき分け、その中心へ膝をつく。
男子生徒の顔色は青白い。呼吸も浅い。額には脂汗が浮かび、苦しそうに胸を押さえている。
(この症状……。)
胸がざわついた。
「先生は?」
「い、今呼びに行ってます!」
「保健室にも!」
一年生たちは完全に混乱している。
泣き出しそうな女子生徒までいた。
セラは落ち着いて男子生徒の手首へ触れる。脈を確認する。
弱い。
呼吸も乱れている。
(間違いない。)
魔力枯渇。セラもこの前発症したが、それよりもだいぶ重い。
魔力を一度に使いすぎた時、ごく稀に起こる症状。
(まだ間に合う。)
心臓が大きく鳴る。
(……光魔法なら。)
応急処置だけなら。
今ここで。
数秒で。
助けられる。
セラの右手がゆっくり持ち上がる。
(私なら。)
その瞬間、頭の中で囁く悪魔がブレーキをかけた。
(……本当にいいの?)
光魔法。
秘密。
婚約。
未来。
全部。
全部崩れる。
今まで守ってきたものが、この一年さえ持たず、一瞬で消える。
(でも。)
目の前では苦しそうに息をする少年。
浅く、途切れそうな呼吸。震える身体。友人たちは必死に名前を呼び続けている。
「お願い、起きてよ!」
「誰か先生まだ!?」
(助けられる。)
セラの指先が小さく震える。
あと少し。
本当にあと少し手を伸ばせば。助けられる。
(使って。)
心のどこかが叫ぶ。
(お願い。)
もう一人の自分が止める。
(ダメ。使っちゃダメ。まだ。まだ知られちゃいけない。せめて攻略対象者たちには……)
手が震える。唇を噛む。
爪が食い込むほど拳を握る。
(お願い……。)
心の中で何度も祈る。
(誰でもいい。誰か。早く……!)
男子生徒の呼吸がさらに苦しそうになる。周囲の空気まで張り詰めていく。
その時だった。
「……どいて〜。」
静かな声が廊下へ響いた。
人混みの向こうから、一人の生徒が走ってくる。制服の裾を揺らし、普段の穏やかな様子からは想像できないほど真剣な表情で。
「ノア先輩!」
一年生たちが道を開ける。ノアは迷いなくセラの隣へ膝をついた。
その横顔を見た瞬間、セラは張り詰めていたものが少しだけほどけるのを感じた。
(……間に合った。)
ノアは何も言わず、倒れている男子生徒の胸元へそっと手を添える。
淡い金色の光が、その手のひらから静かに溢れ始めた。
優しく、包み込むような光だった。
その光景を、セラは息を呑みながら見つめていた。
柔らかな金色の光が、男子生徒の身体を静かに包み込む。
ノアは何も言わない。ただ、目を閉じて魔力の流れを整えるように、ゆっくりと治癒魔法を流し続けていた。
やがて。
「……っ。」
苦しそうだった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。青白かった頬にも、わずかに血色が戻った。
「よかった……!」
周囲の一年生たちが安堵の声を漏らす。
そのタイミングで、保健の教師が駆け込んできた。
「状況は!?」
「魔力枯渇ぽかったですよ〜。」
ノアが答える。
「光魔法は済ませたので〜。」
教師はすぐに男子生徒の容態を確認し、ほっと息をついた。
「助かった……。ありがとう、ノア君。」
「いえ〜。」
いつもの力の抜けた返事。けれど額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
担架が運ばれ、男子生徒は保健室へ運ばれていく。見送る一年生たちは泣きそうな顔をしていた。
「本当にありがとうございました……。」
「大丈夫。」
保健の教師が優しく声を掛ける。
「すぐ処置できたから命に別状はありません。」
その一言で、張り詰めていた空気がようやく緩んだ。
廊下には、安堵のため息が静かに広がっていく。
♡ ♡ ♡
人が少しずつ散っていく。
けれど、セラだけが、その場から動けなかった。
さっきまで男子生徒が倒れていた場所を、ただ見つめる。
(助かった。)
それだけで十分なはずなのに、胸の奥が重い。
(私は……。)
右手を見る。さっき伸ばしかけた手。
震えていた指先。
(治せた。私なら。)
たった数秒。たった一つ魔法を使うだけで。
(なのに。)
何もしなかった。できなかった。
胸の奥が締め付けられる。
「……セラ。」
静かな声で名前を呼ばれる。
顔を上げると、ノアが立っていた。周囲にはもう誰もいない。
夕日だけが長い影を落としていた。
「大丈夫〜?」
いつもの穏やかな声。
「顔色、悪いよ。」
「え……?」
頬へ触れる。そんなつもりはなかった。
「少し、びっくりしちゃって。」
苦笑いを浮かべる。
ノアは何も言わず、じっとセラを見ていた。
いや、正確には見ようとして、少しだけ目を逸らす。最近よく見る仕草だった。
少しだけ沈黙が流れる。
「……さっき。」
ノアがぽつりと口を開く。
「君。」
そこで言葉が止まる。セラの心臓が大きく鳴った。
「……魔法使おうとした?」
「え……?」
精一杯、平静を装う。
「どういうことですか?」
「いや。」
ノアは困ったように笑う。
「僕の気のせいならいいんだけど。セラ。手、伸ばしてたよね。」
セラは思わず自分の右手を見た。
あの瞬間。確かに、光魔法を使おうとしていた。
「助けようとして。」
ノアは静かに続ける。
「でも何か迷ってるように見えた。王都でで少年を助けた時と違って。」
その言葉を聞いて、さらに肩の力が強張る。
「……怖かったんです。」
思わず本音が漏れた。
(あれ?言うつもりはなかったのに…)
「そっか。」
少しだけ笑う。
「でも一度は助けたいと思ったんでしょ?」
「……私は…!」
「なんで頑なに光魔法を隠したいのか分からないけど、事情があるのはなんとなく分かるし。」
ノアは夕焼け空を見上げる。
「助けたいって思えることは、悪いことじゃない。」
静かな声。
それは誰かへ言い聞かせるようでもあり、自分自身へ向けているようでもあった。
「……。」
「セラは、ちゃんと助けようとしてた。」
その一言が胸へ深く刺さる。何もできなかった。そう思っていた。
けれど、助けたいという気持ちだけは、否定されなかった。
「……ありがとうございます。」
小さく頭を下げる。ノアは少し照れたように笑うと、
「じゃあ僕、先生に報告してくるから。」
そう言って歩き出した。
数歩進み、ふと足を止める。
「セラ。」
「はい?」
振り返らないまま、小さく言った。
「無理しないでね。」
それだけ残し、今度こそ去っていった。
♡ ♡ ♡
夕暮れ。
寮へ戻る道を、一人歩く。
風が木々を揺らす、静かな帰り道。
(もし。次も今日みたいなことが起きたら。)
目の前で、誰かが命を落としかけたら。
今日はまだ少しは猶予があった。
(でも、一刻の猶予もない状態だったら?)
光魔法を隠し続けるのだろうか。
それとも。
胸へ手を当てる。鼓動だけが静かに響いていた。
その答えは、まだ見つからない。
けれど今日、確かに一つだけ、変わったことがある。
『死に戻れる自分の命を守ること』と『他者の命を救うこと』。
その二つが、初めてセラの中で天秤にかけられたのだった。
ちょっと小話!
実は小さな魔道具事件でセラが発症したのも魔力枯渇でした!なのでノアが治せたんですけどね!先生呼んじゃいました!




