18日目
レイスと再会した。姉のエミリアと一緒に、ユイスは部屋に入った。
結果から言えば、いくらでもあった言いたいことなんて、ほんの1割も伝えられなかった。
入って最初に、エミリアが作ったシャツに袖を通したレイスと、目があった。その途端、怯えるように、自分と同じ深緑の瞳が揺れた。ヴァルディースに支えられて、ベッド上で身を強張らせる。そんなレイスを見て、たまらずユイスは叫んでいた。
「僕は、レイが大好きだから!」
ユイスを見て震えるレイスなんて、見たくなかった。それだけ叫ぶと、ユイスはやっぱり泣いた。こんな歳になってまで泣き虫ではいたくない。もっと伝えなきゃいけないことがあるはずだった。でも、涙は止まらない。レイスが大好きだということ以上に、伝えるべき言葉なんて出てこない。
呆然とレイスが見つめ返す。それが次第に涙でぐしゃぐしゃになっていった。
「オ、レ……っ」
声を震わせて、必死で何か訴えかけてこようとして、言葉にできず飲み込んでしまう。そんな風に泣くレイスと、ユイスは初めてまともに向き合った。
ユイスは戸惑った。こんなレイスは見たことなかった。
負い目があるのだろうとは思っていた。でもずっと、レイスは我慢していたのかもしれない。思えば昔から素直じゃなかった。弱いところを曝け出すのが、レイスは苦手だった。お互いなんでも知っていると思っていたけれど、自分の知らないレイスはすぐそこにいた。ユイスの記憶にあるのは、いつも自分を庇ってくれた強気な背中だったのだ。
だから。
「会いた、かった……」
必死に絞り出すような声で、そう告げてくれたレイスに、ユイスは飛びついてきつく抱きしめていた。
「僕も、会いたかった」
これが、レイスの本当の願い。ただ一言、会いたいと願ってくれたことが、何よりユイスには嬉しかった。
「……っ」
でも抱きしめたレイスの身体は異様に熱く、緊張の糸がぷつりと切れたようにふらりと傾いだ。
「レイ!?」
ぐったりと項垂れ、胡乱な目をしたレイスが、ユイスではなく、ヴァルディースに助けを求めるように見つめる。
「ほっとしたんだろう」
狼狽るユイスから、ヴァルディースが引き取るようにレイスを抱き抱えた。その腕の中で吐息を熱くして震えるレイスの身体が、痛々しかった。
「この程度なら心配ない」
大きな手がユイスを慰めるように頭を撫でる。ヴァルディースがそう言うのなら、心配はないのだろう。
「ただ、エミリア、すまんが今日はレイスが限界だ。また今度機会を……」
「いいわよ、私のことは。ちゃんとレイが生きてるってこの目で見れたもの。次は元気になってからでいいわ」
結局エミリアは一言も喋ることができなかった。ユイスですらほんの一瞬。それでも一番伝えなきゃいけない1割は、伝えられただろうか。
「ぅ……」
去り際、レイスが呟いた。
うっすら、かろうじて目が開いて、何か伝えようと唇を震わせた。
「メ、シ……」
呟かれたセリフに、ユイスはキョトンとした。メシ。要するに、ご飯。はて。お腹でも空いたのだろうか。
しかし譫言のようにか細く、続きはユイスたちには聞こえなかった。
ヴァルディースにだけは聞こえたらしく、ヴァルディースが大きく吹き出して笑い始める。一体何なのだろう。
「エミー、あの粥、次はもっと味を濃くしろ、だとさ」
「なっ!? 病人だからむしろ味薄くしてあげたんでしょーが!!」
思わずユイスも吹き出し、声を上げて笑っていた。そういえばエミリアは、レイスの意識がない間も、お粥を届けにきていたという。それのことだったのか。
ヴァルディースが笑う間に、扉が閉まる。
閉ざされる扉の向こうへ、エミリアがわめきちらす。
「あーもう、しょうがないわねっ! また持ってきてやるわよ」
扉が閉まって、苛立ちながら叫んだエミリアは、嬉しそうだ。
久しぶりに再会したにも関わらず、エミリアとレイスらしいやりとりだった。
「僕も次は何か差し入れしようかな」
以前世話になったお屋敷で、ユイスはお菓子作りを教わった。小さい頃は、祭日にしか食べられない、小さな揚げパンに砂糖をかけたお菓子を、二人で分け合って食べた。母が作ってくれたその菓子を、レイスが今も好きかはわからないけれど、それでも懐かしさを差し入れるくらいはいいだろう。
「ちゃんと会えたみたいだな?」
王宮の中庭で待っていたメイスが、ユイスたちに気付いて笑いを堪えるように言った。エミリアの声はここまで聞こえたらしい。
「なんなのよあいつ。全然変わんないじゃない。心配して、損した……っ」
メイスと会って、ぼろぼろと、途端にエミリアの目から涙が溢れ出した。
いつも元気なエミリアも、気を張っていたのは同じだったのだ。
「姉さん……」
そっとユイスはハンカチを差し出した。涙を拭いてもらおうと思ったのに、その途端、ちーんと、盛大にエミリアはハンカチで鼻をかんだ。
「ほんとやんなる! 何年も生き別れてた実の姉に対して、もっと言うことあるでしょうが! 何が、『次はもっと味を濃くしろ』よ! こっちはどんだけ心配したと思ってんのよ!!」
泣きながら怒りながら、もう一度忙しなく鼻をかむ姉に、また笑う。
ハンカチは姉に進呈するか、捨てるかしよう。そう、ユイスは思った。
「しかし味を濃くしろ、か。あの時みたいだな」
「あの時?」
「ああ、ユイスは覚えてないか? 珍しく冬営地でも大雪になった年、レイがソリで崖下に落っこちて、おれが助けに行ってきたこと、あっただろう? そのとき、あいつおんなじこと、エミーに言ったんだ」
「凍えて帰ってきたから、あったかいスープせっかく作ってあげたのに、言うに事欠いて、レイったら味が薄い、って文句つけてきたのよ。そのあと、あいつのスープにだけ塩10倍くらい入れてやったわ!」
「そんなことあったっけ? レイが谷に落っこちちゃったのは覚えてるけど、全然覚えてないや」
レイスが崖に落っこちたのは覚えている。むしろ忘れられない思い出の一つだ。だって、レイスが崖に落っこちたのは、ソリに二人で乗っていて、ユイスがバランスを崩したのを、レイスが庇ってくれたからだ。
運悪く雪庇で崖が見えなくなっていて、レイスはユイスの代わりに谷間の崖下へ真っ逆さま。雪もあって高さ自体はさほどでもなかったけれど、岩壁は凍って登ることもできず、迂回路もなく、身動きが取れなくなってしまった。
ユイスは泣きながら、助けを求めてメイスのもとへ走ったのだ。あまりに焦りすぎて、馬に乗ることも忘れてしまった。
幸い打撲と軽い凍傷だけで済んだけれど、もし間に合わなければ危険だった。ユイスにとっては忘れられない、痛い思い出だ。
そういえばその夜、母の膝の上で疲れて眠ってしまったユイスの耳元に、エミリアとレイスの言い合いが聞こえていた気もする。
「戻ってきてから全然雰囲気変っちゃってて、なんか暗いし。昔の、ギャンギャン喚いてた印象しかないから、不安だったけど、やっぱりレイなんだな、って思ったわよね。そういうとこ。生意気で素直じゃなくって、文句しか言わないし、むかつくのよ」
「確かに、レイらしいね」
「そう言うと、きっとあいつ怒るぞ?」
「怒らせときゃいいのよ。しょぼくれてるレイなんて似合わないんだから!」
「そしてまた喧嘩するのか、お前たち。エミーとレイは似たもの同士だったからなぁ。おれも母さんも困らされたもんだよ」
「早く昔みたいに元気に、笑って怒ってくれるといいなぁ」
子供の頃、大したことでもないのに、よくエミリアとレイスは喧嘩していた。ユイスはいつも二人を止めようとオロオロとするだけで、最終的にメイスが呆れたように叱り、それを母が困ったように笑っていた。
懐かしい、子供の頃の当たり前の光景。
もう元に戻ることはないのかもしれないけれど、せめて少しでも、昔みたいに近づいてくれたらいいのに。
その日、そう思いながらユイスは寝床に入った。