第6話「差し伸べられた手」
終業のチャイムが鳴り、今日の授業が終わった。
「白瀬くん、体育祭の準備行こ!」
「うん、行こうか」
僕たちは教室を出て、体育倉庫へ向かった。
体育倉庫の前には、すでに何人かの用具係が集まっていた。
僕たちはほかの用具係と協力して、椅子を並べたり、競技エリアの柵を設置したりした。
作業が終わる頃には、空が少し赤く染まり始めていた。
「みんなお疲れさま! 明日は朝早く集合して、テントを立てるからよろしくね!」
「白瀬くん、お疲れ様!」
「うん、朝倉さんもお疲れさま」
「明日、朝早いね〜」
「そうだね。寝坊しないようにしないと」
「あはは! 白瀬くん、前に遅刻してたもんね!」
「あのときは寝坊しただけだよ。明日はちゃんと起きるつもり」
「白瀬くん、今日も一緒に帰ろ!」
「……うん、いいよ」
「あ、私まだ教室に荷物置いてるんだった! 取ってくるから、校門で待っててくれる?」
「うん、分かった。校門で待ってるね」
僕は一人で校門へ向かった。
しばらく待っていると、後ろから声が聞こえた。
「白瀬くーん! お待たせ!」
振り返ると、朝倉さんが小走りで近づいてきた。
「ううん、大丈夫だよ」
僕たちは並んで駅へ向かった。
「そういえば白瀬くん、明日借り人競走だよね!」
「うん。何を借りることになるんだろうね」
「変なお題だったら面白いね!」
「朝倉さん、他人事だと思ってるでしょ」
「あはは! バレた?」
そんな話をしているうちに、駅に着いた。
ちょうど電車がホームに入ってきた。
僕たちは電車に乗り、空いていた席に並んで座った。
「ねえ、白瀬くん」
「ん?」
「明日の朝、一緒に行かない?」
「……一緒に?」
「うん! せっかくだし、朝も一緒に行こうよ!」
僕は少し迷った。
「……うん、いいよ」
「やった! じゃあ、7時に白瀬くんの最寄り駅で待ってるね!」
「……わざわざ?」
「うん! 方向一緒だし!」
「……そっか。ありがとう」
それからも僕たちは、他愛もない話をしながら電車に揺られていた。
やがて、僕の降りる駅に着いた。
「じゃあ、また明日」
「うん! また明日ね!」
僕は電車を降りた。
家に帰り、制服から部屋着に着替えた。
ベッドに腰を下ろしたところで、スマホが震えた。
体育祭実行委員のグループLINEに、用具係のリーダーから連絡が来ていた。
『明日の用具係は7時30分集合です。遅れないようにお願いします!』
そのすぐ後に、朝倉さんから返信が届いた。
『分かりました!』
画面に表示された短い文章を見て、思わず朝倉さんの声が頭に浮かんだ。
気づけば、彼女と話すことが当たり前になっている。
誰かとこんなふうに親しくなるのは、久しぶりだった。
ふと、中学時代の記憶がよみがえった。
***
あの頃、僕には仲のいい友達が4人いた。
優、蓮、悠斗、陸。
僕たちはいつも5人で一緒にいた。
放課後は寄り道をしたり、休みの日には誰かの家に集まってゲームをしたり。くだらないことで笑い合って、気づけば何時間も経っていることもあった。
その中でも、優とは特に仲がよかった。
ほかの3人が帰った後も二人で遊んだり、何でもない話をいつまでも続けたりしていた。
みんなで走っている途中、僕が足をもつれさせて転んでしまったこともあった。
「おい透、何やってんだよ! 早く来いよ!」
優は笑いながら、僕に手を差し出した。
その手を掴むと、優は僕を勢いよく引っ張り起こした。
「お前、ほんと鈍くさいな!」
「うるさいな。たまたまだよ」
「ははっ、ほら、行くぞ!」
僕も笑いながら、みんなの後を追いかけた。
あの頃は、毎日が楽しかった。
でも、そんな日々が続くにつれて、僕の中である感情が大きくなっていった。
4人の血が見たい。
最初は、ほんの小さな欲求だった。
それが、仲良くなればなるほど強くなっていった。
そして、ある日の放課後。
いつものように5人で話していると、突然、頭の中がぼんやりし始めた。
みんなが何かを話している。
笑い声も聞こえる。
なのに、何を話しているのか、まったく頭に入ってこなかった。
目の前にいる4人の姿を見つめる。
血が見たい。
ただ、その考えだけが頭の中を埋め尽くしていた。
「……透?」
優の声が聞こえた。
「おい、透。聞いてる?」
「……え?」
「どうしたんだよ。さっきからぼーっとしてるぞ」
「……ごめん。ちょっと気分悪いから、今日は帰るわ」
「え、大丈夫か?」
「うん。少し休めば治ると思う」
僕はそう言って、4人と別れた。
これ以上、あの場所にいてはいけない。
そう思った。
家に帰ってからも、さっきの感覚が頭から離れなかった。
あのまま一緒にいたら、僕はどうなっていたんだろう。
そんなことを考えていると、インターホンが鳴った。
玄関を開けると、そこには4人が立っていた。
「よっ! 体調どうだ?」
優がいつもの調子で声をかけてきた。
「……みんな? どうしたの?」
「いや、急に帰ったから心配でさ」
蓮が答えた。
「透があんなふうに帰るの、初めてだったしな」
陸が続けた。
「もう大丈夫だよ。わざわざありがとう」
「透、何かあったんじゃないの?」
悠斗が静かに尋ねた。
僕は答えられなかった。
「……なあ、透。ちょっと話せるか?」
優が僕の顔を覗き込んだ。
「……うん」
僕は4人を部屋に通した。
いつもならゲームを始めたり、くだらない話で盛り上がったりするはずだった。
でも、その日は誰もそんなことを言い出さなかった。
「なあ、透」
優が口を開いた。
「俺たちに何か隠してるだろ?」
「……」
「言いたくないなら無理にとは言わないけどさ。なんかあったなら話してくれよ」
僕は俯いた。
言えるわけがない。
こんなことを話したら、きっとみんな離れていく。
それでも、心のどこかで期待していた。
この4人なら、もしかしたら。
「……僕さ」
声が震えた。
「みんなの血が見たいんだ」
誰も何も言わなかった。
「みんなの体には、どんな血が流れているんだろうって。どんな色をしていて、傷ができたら、どんなふうに流れるんだろうって……」
僕は俯いた。
「そんなことばっかり考えて、頭がいっぱいになるんだ」
4人は黙ったまま、僕の言葉を聞いていた。
「……俺たちの血が?」
悠斗が静かに尋ねた。
「……うん」
「それって、俺たちを傷つけたいってこと?」
「違う。傷つけたいわけじゃないんだ。ただ、血が見たい。それだけなんだ」
僕は必死に説明した。
「……そっか」
蓮は小さく頷いた。
「透が俺らを傷つけたいわけじゃないのは、分かるよ」
そう言いながらも、その表情はどこか強張っていた。
悠斗も何か言おうと口を開いたが、言葉が出てこないようだった。
「……ごめん」
陸が俯いた。
「透が悪いやつじゃないのは分かってる。でも、正直ちょっと怖い」
陸はそう言うと、申し訳なさそうに目を伏せた。
その言葉を聞いて、蓮も悠斗も黙り込んだ。
誰も陸の言葉を否定しなかった。
優も何かを言おうとして、結局口を閉じた。
しばらくして、蓮が立ち上がった。
「……ごめん。今日は帰るわ」
悠斗と陸も、ゆっくりと立ち上がった。
優はしばらく座ったままだったが、やがて立ち上がった。
何かを言いかけたが、結局何も言わなかった。
4人が部屋を出ていった。
僕は一人、何も言わずに座っていた。
言わなければよかった。
ただ、それだけを考えていた。
あんな顔をさせたかったわけじゃない。
怖がらせたかったわけでもない。
ただ、みんなと今までどおり仲良くしていたかった。
それなのに。
僕は自分から、すべてを壊してしまった。
***
優は、蓮たち3人と無言で帰り道を歩いていた。
いつもなら、くだらない話で笑い合っている帰り道。
今日は、足音だけが響いていた。
さっきの透の言葉が、頭から離れなかった。
なんだよ、それ。
友達の血が見たいって……そんなの、怖いに決まってるだろ。
でも、透のあの表情を思い出すと、胸が苦しくなった。
あいつだって、自分がおかしいって分かってるんだよな。
だから、あんなに苦しそうだったのか。
優は隣を歩く3人を見た。
誰も話そうとしない。
透のことは好きなのに、怖い。
そんな自分が、嫌になる。
あいつ、どんな気持ちで話してくれたんだろう。
ずっと一人で抱えてきたんじゃないのか。
それなのに、俺は何も言えなかった。
今だって、透と顔を合わせるのは怖い。
それでも、このままあいつを一人にしていいのか。
「……悪い、俺ちょっと戻るわ」
蓮たちが振り返った。
「え? どこに?」
「透んとこ」
「……大丈夫なのか?」
蓮が心配そうに尋ねた。
「……分かんねえ」
優は少し俯いた。
「でも、このまま帰りたくないんだ」
優はそう言うと、来た道を引き返した。
***
どれくらい時間が経っただろう。
再び、インターホンが鳴った。
玄関を開けると、そこには優が立っていた。
「……優?」
「悪い、もう一回話したくてさ」
「……うん」
僕は優をもう一度部屋に通した。
「さっきは、ごめんな」
「……え?」
「お前、勇気出して話してくれたのに、俺、何も言えなかった」
「……謝らないでよ。怖いと思うのが普通だよ」
「……それでもさ」
優は僕の目をまっすぐ見た。
「俺ら、これからも友達だろ?」
「……うん」
優は少し笑った。
そして、一度握りしめた拳をゆっくりと開くと、僕の前に腕を差し出した。
「……え?」
差し出された腕を見つめる僕に、優は何も言わなかった。
ただ、その手は小さく震えていた。
***
……もう、あんなことは繰り返したくない。
だから、誰とも深く関わらずに生きていこうと決めた。
それでいいと思っていた。
でも、朝倉さんと出会って、気づいてしまった。
僕も本当は、みんなと笑い合ったり、何でもない話をしたり。
そんな普通の高校生活を送りたかったんだ。
思えば、あのとき、こんな自分を受け入れてもらおうと思ってしまったのが間違いだった。
だから、もう誰かに受け入れてもらおうとは思わない。
そうすれば、こんな僕でも普通の高校生活を送れるはずだ。
体育祭が終われば、朝倉さんとも関わらなくなると思っていた。
でも今は、そうなってほしくないと思っている自分がいた。
そんなことを考えながら、僕は画面に映る朝倉さんの返信を、ただ眺めていた。




