第15話「追憶」
かかとに、わずかに血がにじんでいた。
……血だ。
「うわぁ、結構擦れちゃってるね……」
朝倉さんは自分のかかとを見ながら言った。
「朝倉さん、タオル持ってる?」
「うん、持ってるよ!」
「じゃあ、一度水で洗ってこようか。絆創膏なら持ってるから」
「ほんと? ありがとう!」
僕たちは近くの水道へ向かい、傷口を洗った。
ベンチに戻ってから、朝倉さんはタオルでかかとの水気を優しく拭き取った。
僕は鞄から絆創膏を取り出し、朝倉さんに渡した。
「ちょっと安静にしておいた方がいいみたいだね」
「……そっか」
朝倉さんは少し残念そうに俯いた。
「……じゃあ、観覧車はいい?」
「観覧車?」
「うん! あれなら歩かなくて済むし……」
朝倉さんは期待するように僕を見つめた。
その表情を見ていると、断ることはできなかった。
「……うん、行こうか」
「ほんと!? ありがとう、白瀬くん!」
僕たちはベンチを立ち、ゆっくりと観覧車の方へ向かった。
「白瀬くん、観覧車って好き?」
「うーん、あんまり乗ったことないかな」
「私も! だからちょっと楽しみ!」
朝倉さんは嬉しそうに観覧車を見上げた。
乗り場に着くと、ちょうど僕たちの順番が回ってきた。
係員さんに案内され、僕たちは向かい合ってゴンドラに乗り込んだ。
扉が閉まると、ゴンドラはゆっくりと上昇し始めた。
「わあ! もう結構高いね!」
朝倉さんは窓の外を眺めながら、楽しそうに声を上げた。
「さっき乗ったジェットコースターも見えるよ!」
「ほんとだ。上から見ると小さいね」
「あはは! あんなに怖かったのに!」
僕も窓の外に目を向けた。
遊園地全体が少しずつ小さくなっていく。
ゴンドラが高くなるにつれて、朝倉さんは窓の外に夢中になっていた。
「ねえ白瀬くん! あそこ、さっきお昼食べたところじゃない?」
「……あ、本当だね」
朝倉さんが窓を指さした。
そのとき、ふと先ほどの光景が頭をよぎった。
かかとににじんでいた、わずかな血。
……どうして、今になって思い出したんだろう。
忘れようとして、窓の外に目を向けた。
けれど、あの記憶が頭から離れなかった。
もう少しだけ見てみたい。
……いや。
僕は小さく首を振った。
「白瀬くん?」
気づくと、朝倉さんが不思議そうに僕を見つめていた。
「……どうしたの?」
「ううん、何でもないよ」
そう答えて、朝倉さんに目を向けた。
朝倉さんの体には、どんな血が流れているんだろう。
どんな色をしていて、どんなふうに流れるんだろう。
そんな疑問が、自然と頭に浮かんできた。
気づけば、朝倉さんの血のことばかり考えていた。
「……白瀬くん?」
さっきまであんなに楽しかったのに。
「ねえ、白瀬くん。大丈夫?」
朝倉さんの口が動いている。
何かを話しかけられているのはわかる。
けれど、その言葉が頭に入ってこなかった。
ただ、朝倉さんの体を流れる血のことだけが、頭の中を埋め尽くしていた。
……ダメだ。
こんなこと、考えたくない。
必死に頭から追い出そうとする。
けれど、考えないようにすればするほど、朝倉さんの血のことが頭に浮かんでくる。
……やめてくれ。
胸が苦しくなり、呼吸が浅くなっていく。
どうして。
今まで、朝倉さんにはこんな感情を抱いたことなんてなかったのに。
「白瀬くん! 聞こえてる!?」
いつの間にか、朝倉さんが僕の隣に座っていた。
心配そうに僕の顔を覗き込みながら、そっと僕の手を握った。
その温かさを感じた瞬間、僕は無意識にその手を強く握り返していた。
「……痛っ」
その声で、はっと我に返った。
慌てて手を離すと、朝倉さんの手の甲には爪の跡が残り、その一つからわずかに血がにじんでいた。
「……ごめん」
「ううん、大丈夫だよ」
朝倉さんは傷ついた手を気にする様子もなく、もう片方の手で僕の背中をさすってくれた。
その手の温かさを感じているうちに、少しずつ呼吸が落ち着いてきた。
それでも、胸の奥に残る不安は消えなかった。
やがて、観覧車は一周を終えた。
ゴンドラを降りると、僕は朝倉さんに頭を下げた。
「……さっきは本当にごめん。痛かったよね」
「え? ああ、あれ? 全然大丈夫だよ!」
朝倉さんはいつものように笑った。
「それより白瀬くん、高いところ苦手だった?」
「……ううん、違うよ」
「そっか。じゃあ、どうしたの?」
朝倉さんは心配そうに僕を見つめた。
その問いかけに、昔のことを思い出した。
自分の本性を打ち明けた、あの日のこと。
そして、朝倉さんと親しくなり始めた頃に決めたこと。
受け入れてもらおうと思わないと決めたんだ。
同じことを繰り返したくなかった。
「……ごめん。話せない」
「……そっか」
朝倉さんはそれ以上、何も聞かなかった。
「……ごめん。今日はもう帰ってもいいかな」
「……そっか。まだ具合悪い?」
「ううん。もう大丈夫だよ」
「でも、白瀬くん……」
「……心配かけてごめん」
「ううん! それは全然いいんだけど……」
朝倉さんは少し迷ったあと、優しく微笑んだ。
「……わかった。じゃあ、帰ろっか」
「……うん。本当にごめん」
「謝らなくていいよ。また一緒に来ようね!」
「……うん」
僕たちは遊園地の出口へ向かった。
朝倉さんはいつもと変わらない様子で話しかけてくれたけれど、僕は短く返事をすることしかできなかった。
そのたびに申し訳なさが募っていく。
それでも、今の僕には朝倉さんと目を合わせることさえ難しかった。
遊園地を出る頃には、空が少しずつ夕焼けに染まり始めていた。
「白瀬くん、今日はありがとう」
朝倉さんが隣で言った。
「……こちらこそ。途中で帰ることになってごめんね」
「もう! また謝ってる!」
朝倉さんは困ったように笑った。
「私、今日すっごく楽しかったよ。だから、そんな顔しないで?」
「……うん」
僕は俯いたまま答えた。
朝倉さんが優しくしてくれるほど、自分が嫌になった。
家に帰ると、僕は鞄を置き、ベッドに腰を下ろした。
しばらくすると、スマホが震えた。
朝倉さんからだった。
『白瀬くん、今日はありがとう! 体調はもう大丈夫?』
『うん。もう大丈夫だよ。今日は本当にごめんね』
『よかった! 謝らなくていいってば!笑』
画面を見つめながら、僕は考えた。
もう、これ以上朝倉さんと仲良くなるのはやめよう。
今日のようなことが、また起きるかもしれない。
それだけは避けたかった。
再びスマホが震えた。
『そういえば、夏休みっていつ空いてる?』
少しの間、画面を見つめた。
そして、返信を打った。
『ごめん。夏休みは全部予定が入ってるんだ』
『そっか! 忙しいんだね!』
『うん。ごめんね』
送信すると、僕はスマホを伏せた。
本当は、何の予定もなかった。
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