第10話「今度は私が」
これは、白瀬くんの知らない私の物語。
朝、目が覚めると、家の中は静まり返っていた。
時計を見ると、まだ五時だった。
私はベッドから起き上がり、制服に着替える。
高校に入った頃から、家族の会話がほとんどなくなった。
何がきっかけだったのかは分からない。
ただ、いつの間にか、お父さんとお母さんは口をきかなくなっていた。
お父さんが起きてくるのは、いつも六時半頃。
同じ食卓にいても、誰も何も話さない。
そんな時間が嫌で、私はお父さんが起きる前に家を出るようになった。
今日も鞄を持ち、静かに玄関へ向かった。
玄関の扉を開けると、ひんやりとした朝の空気が頬に触れた。
外はまだ薄暗く、通りにはほとんど人がいない。
私はいつもの道を歩き、駅へ向かった。
学校に着く頃には、空もすっかり明るくなっていた。
教室の扉を開ける。
まだ誰も来ていない。
私は自分の席に鞄を置き、窓の外を眺めた。
誰もいない教室は静かだった。
家にいるときも静かなのに、ここでは不思議と落ち着く。
しばらくすると、廊下から足音が聞こえ始めた。
私は窓から視線を戻し、教室に入ってくる友達に笑顔を向けた。
「おはよう!」
「花、おはよー!」
教室に入ってきたのは玲奈だった。
「おはよう、玲奈!」
「今日も早いね。何時に来たの?」
「んー、結構前かな!」
「相変わらずだねー」
玲奈はそう言いながら、自分の席に鞄を置いた。
「ねえ、昨日の宿題やった?」
「やったよ!」
「よかった! ちょっと見せて!」
「えー、自分でやりなよ!」
「お願い! 分かんないところだけ!」
「もう、しょうがないなー」
私は笑いながら、鞄からノートを取り出した。
玲奈と話しているうちに、教室には少しずつ人が増えていった。
あちこちから挨拶や笑い声が聞こえてくる。
私も友達の輪に加わり、いつものように話して笑った。
そんなある日の放課後。
廊下を歩いていると、掲示板に貼られた作文が目に入った。
授業で書いた作文の中から、いくつか選ばれて掲示されているらしい。
何気なく眺めていると、一枚の作文の下に書かれた名前が目に留まった。
白瀬透。
「あ、白瀬くんだ」
私は足を止めた。
同じクラスだけど、ほとんど話したことのない人だった。
どんな文章を書くのか少し気になって、私はその作文を読み始めた。
題名は「家族について」。
先日の国語の授業で、私たちが書いた作文だった。
そこには、こんなことが書かれていた。
家族と友達は、何が違うのだろうか。
血がつながっているかどうか。それは確かに大きな違いだと思う。
けれど、僕は人と人との関係という意味では、それほど変わらないと思っている。
どれだけ長い時間を一緒に過ごしていても、相手の考えていることがすべて分かるわけではない。
家族だから分かってくれる。友達だから察してくれる。
そう思っていても、言葉にしなければ伝わらないことはある。
相手が何を考えているのか知りたいなら、聞いてみるしかない。
自分の気持ちを知ってほしいなら、伝えるしかない。
家族も友達も、結局は自分とは違う一人の人間なのだから。
私は最後の一文を読み終えても、しばらくその場を離れられなかった。
家族だから、分かってくれる。
私は、そんなふうに思っていたのだろうか。
お父さんとお母さんが話さなくなってから、私は二人と顔を合わせる時間を減らすようになった。
毎朝早く家を出るのも、そのためだった。
でも、本当にそれだけだったのかな。
私が朝早く家を出ていることに、二人は気づいているんだろうか。
どうしてそんなに早く出るのか、聞いてほしかったのかもしれない。
私は一度だって、二人にどうして話さなくなったのか聞いたことがない。
なのに、いつか元に戻ってくれることを期待していた。
もう一度、作文に目を向ける。
自分の気持ちを知ってほしいなら、伝えるしかない。
「……そっか」
小さくつぶやいた。
今日、帰ったら聞いてみよう。
何があったのか。
どうして、前みたいに話さなくなったのか。
ちゃんと、二人に聞いてみようと思った。
その日の夕方、家に帰ると、お母さんがリビングでテレビを見ていた。
「ただいま」
「おかえり」
私は鞄を自分の部屋に置き、制服から着替えた。
いつもならそのまま部屋で過ごすところだけど、今日はリビングに戻った。
「お母さん」
「なに?」
「今日、お父さん何時に帰ってくる?」
「七時くらいじゃない?」
「そっか。ありがとう」
私はソファに座り、時計を見た。
何から聞こう。
いざ話そうと思うと、少し緊張してきた。
七時を少し過ぎた頃、玄関の扉が開く音がした。
お父さんが帰ってきた。
「おかえり」
「ああ、ただいま」
お父さんは上着を脱ぎ、リビングに入ってきた。
お母さんはテレビを見たまま、何も言わなかった。
いつもと同じ光景。
私は一度息を吸って、二人に声をかけた。
「ねえ、お父さん、お母さん」
二人がこちらを向いた。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
「どうした?」
お父さんが尋ねた。
「二人ってさ……なんで最近、全然話さないの?」
お父さんとお母さんは、一瞬だけ顔を見合わせた。
「前は普通に話してたよね。何かあったの?」
しばらく沈黙が続いた。
「……そんなに話してないか?」
お父さんが気まずそうに口を開いた。
「話してないよ。もうずっと」
私がそう言うと、お母さんは小さくため息をついた。
「だって、お父さんが謝らないんだもの」
「まだその話をするのか?」
「まだって何よ。そっちが悪いんでしょ」
「だから、あれは知らなかったんだって」
久しぶりに二人が会話している。
でも、何の話をしているのか全然分からなかった。
「……何があったの?」
お母さんは少し迷ってから答えた。
「冷蔵庫に入れてたプリン、覚えてる?」
「……プリン?」
「私が楽しみに取っておいたのに、お父さんが勝手に食べちゃったのよ」
「名前も書いてなかっただろ」
「そういう問題じゃないでしょ!」
私は二人の顔を交互に見た。
「……え、それだけ?」
「それだけって、花!」
「いや、だって……」
思わず言葉に詰まった。
「そんなことで、ずっと話してなかったの?」
二人は黙り込んだ。
「私、二人が離婚するんじゃないかって思ってたんだよ」
口にして初めて、自分がそんなことまで考えていたのだと気づいた。
「朝も家にいるのが嫌で、ずっと早く学校に行ってたのに……」
お母さんが驚いたように私を見た。
「花、そんなふうに思ってたの?」
「……うん」
お父さんも、困ったように頭をかいた。
「それは……悪かったな」
「私も、花にそんな思いさせてたなんて……」
お母さんはお父さんの方を向いた。
「……プリンのことは、もういいわ」
「いや、今度買ってくるよ」
「同じやつ、もう売ってないのよ」
「じゃあ、似たやつ探す」
私は思わず笑ってしまった。
「もう、ほんとに何やってるの、二人とも」
お父さんとお母さんも、少し照れくさそうに笑った。
久しぶりに見る、二人の笑顔だった。
その日の夕食は、久しぶりに三人で食べた。
お父さんとお母さんは、まだ少しぎこちなかったけれど、ぽつぽつと言葉を交わしていた。
それだけで、いつもの食卓とはずいぶん違って感じられた。
翌朝、目が覚めると、時計は五時を指していた。
いつものように制服に着替え、出かける準備をする。
階段を下りると、お母さんがキッチンにいた。
「花、おはよう」
「おはよう!」
「今日もこんなに早く行くの?」
「うん! 朝の空気、好きなんだよね」
「そう。気をつけてね」
「行ってきます!」
玄関を出ると、いつものひんやりした空気が頬に触れた。
家にいるのが嫌で始めた早起きだったけれど、いつの間にか、この静かな朝の時間が好きになっていた。
駅へ向かいながら、昨日読んだ作文を思い出す。
白瀬くんには、いつかお礼を言いたいな。
そう思った。
それから数日後、ホームルームで体育祭実行委員を決めることになった。
立候補する人がいなかったので、じゃんけんで決めることになった。
結果、私と白瀬くんが負けて、実行委員になった。
私は白瀬くんの方を向いた。
「白瀬くん、よろしくね!」
「うん、よろしく」
こうして、白瀬くんと初めて話すことができた。
でも、作文のお礼はまだ言えていなかった。
体育祭の準備を通して、私たちは少しずつ仲良くなった。
白瀬くんは思っていたより話しやすくて、一緒にいると楽しかった。
でも、ときどき気になることがあった。
楽しく話している途中で、ふと何かを考え込むような表情をする。
最初は気のせいかと思ったけれど、そんな姿を何度も見ているうちに、私は確信した。
白瀬くんは、何か悩みを抱えている。
何に悩んでいるのかは分からない。
本人が話してくれない以上、無理に聞くつもりはない。
でも、もし私にできることがあるなら、力になりたい。
あの日、白瀬くんの作文が私の背中を押してくれたように。
今度は、私が白瀬くんの力になれたらいいな。
そう思っていた。




