第8話 白紙の台帳を開く
新しい水を引いた翌朝、地下洞窟の空気は明らかに変わっていた。
広場の中央、かつてカビの生えた麦を供えていた祭壇は綺麗に片付けられ、代わりに頑丈な石積みの作業台が設えられていた。
私はその台の上に、牛革表紙の台帳を一冊開いた。
真っ白な見開きの中央に、定規でまっすぐな縦線を引く。
「……何をする気だ」
背後から低く硬い声が落ちてきた。
振り返ると、水路工事の泥を落としたキリアンが腕を組んで立っていた。擦り切れた革鎧の右肩は、昨夜私が指摘した通り、太い麻糸で頑丈に縫い直されている。重心の狂いは、もう見当たらない。
「名簿の作成です」
私は鉄ペンにインクを浸しながら、手元の紙面を見つめたまま答えた。
「名前、実年齢、出身、そして『前職で持っていた技能』。全員分を記録します」
「……言ったはずだ。俺たちは名を捨てた亡霊だと。罪人、脱走兵、密猟者、王都の政争で敗れた家の生き残り……過去を暴いてどうする。告発状でも書く気か」
キリアンの声に、微かな刺が戻る。
私は顔を上げ、彼の銀灰色の瞳をまっすぐに見据えた。
「キリアン様。私が作りたいのは、王都へ差し出す犯罪者名簿ではありません。この谷を一つの経済体として成立させるための、労働力と生産基盤の資産目録です」
「資産目録だと?」
「ええ。木工ができる者が何人いるのか。農作業の経験者はいるのか。文字の読み書きができる者は何人か。それらを正確に数値化しなければ、冬を越すための食糧備蓄計画も、住居の修繕計画も立てられません。『百二十人の飢えた口』として扱うから絶望するのです。『百二十人分の手と知恵』として帳簿に計上し直せば、自給の計算は必ず立ちます」
キリアンは息を呑み、言葉を失った。
私が最初の一行目に目を落とすと、広場の隅から、昨夜泥水から救われた少年を抱いた若い母親が、おそるおそる進み出てきた。
「……あの、役人様」
「レティシアとお呼びください。あなたの名前を教えていただけますか」
母親は怯えたように視線を泳がせ、それから小さく呟いた。
「……マリア、です。王都の西街で、仕立て屋の針子をしていました。親方が貴族の借金を背負わされて夜逃げして……行く当てがなくなって、ここに逃げてきて」
「マリアさん」
私は台帳にその名を記した。
「年齢は?」
「二十二です。この子はトマ、四歳になります」
「針子の経験年数は」
「……七年、です。布の断ち落としから、刺繍の始末まで一通り……でも、こんな穴倉じゃ何の役にも」
「いいえ。極めて高い価値があります」
私は手元の記録に『服飾・繊維加工/上級技能者』と書き加えた。
「この谷の男たちの防寒着はどれも継ぎ接ぎが粗く、縫い目から体温が逃げています。あなたには全員の防寒着の解体と再仕立て、そして麻布の強度補強を一任します。冬の凍傷発生率を下げるための、最重要部門です」
マリアの目が見開かれた。
「わ、私が……一番大事な仕事を……?」
「道具を揃えます。次の補給計画で、針と頑丈な糸を最優先で調達しましょう。ご協力に感謝します」
私の言葉に、マリアは口元を押さえ、何度も頭を下げながら下がっていった。
その様子を遠巻きに見ていた住人たちが、ざわめき始めた。
裁かれるのではない。罪を糾弾されるのでもない。自分たちがかつて持っていた、世間から捨てられたはずの「手業」を、この冷徹な監査官はただの数字として、しかし何よりも尊い機能として拾い上げている。
「お、俺は……! 石切りの親方をやってた! 岩の目にタガネを入れるのなら、誰にも負けねえ!」
「私、山で山菜や薬草の見分けがつきます……!」
「鍛冶屋の鞴番を五年間……!」
一人、また一人と、亡霊たちが列を作り始めた。
白紙だった台帳が、黒いインクの文字で次々と埋まっていく。
名前を書き込まれるたび、泥と煤にまみれた人々の背筋が、わずかに伸びていくのを私は肌で感じていた。
列の最後尾を見つめていたキリアンが、低く呟いた。
「……驚いたな。死人の墓標を刻んでいるのかと思えば、お前はこいつらをもう一度、生き返らせている」
「生き返らせてなどいません」
私は次の頁へ定規を当てながら答えた。
「彼らは最初から死んでいなかった。ただ、誰も正しい頁を開いてやらなかっただけです」




