第4話 抜き身の刃
殺気というものを、私は初めて肌で理解した。
空気が針のように尖り、首筋の産毛が一斉に逆立つ。
振り返る暇などなかった。
崩れた石壁の影、屋根の抜けた梁の上、そして背後の岩陰から、音もなく複数の人影が滑り出ていた。
四人——いや、五人。
身に纏っているのは、継ぎ接ぎだらけの毛皮や擦り切れた麻布。顔は煤と泥で汚れ、伸び放題の髭の奥から覗く眼光は、飢えた野犬のように鋭く濁っていた。それぞれの手には、錆びた山刀や、削り出された粗末な槍が握られている。
足音一つ立てずに私を完全な包囲網の中に捉えたその身のこなしは、単なる浮浪民のそれではない。統制された、兵の動きだ。
「……動くな」
低く、嗄れた男の声が頭上から降ってきた。
地下階段の脇にある石垣の上から、一人の男が音もなく飛び降りてきた。
他の男たちより頭一つ分背が高い。黒髪を無造作に後ろで束ね、左目から頬にかけて斜めに走る醜い古傷。身につけているのは、仕立てこそ頑丈だが油と血で黒ずんだ、王都近衛兵のものと同型の古い革鎧だった。
男の手には、手入れの行き届いた一本の長剣が握られていた。
錆びた刃物を持つ周囲の男たちとは違い、その切っ先だけは曇りなく研ぎ澄まされ、薄暗い霧の中で青白い光を返している。
男は無駄のない足運びで間合いを詰めると、躊躇なくその切っ先を私の喉元へ突きつけた。
皮膚のすぐ手前でピタリと静止した刃。
冷たい鉄の感触が、喉仏に伝わってくる。
「王都の犬か」
男の銀灰色の瞳には、一片の慈悲もなかった。感情を削ぎ落とした、処刑人の目だ。
「女一人とは舐められたものだな。……おい、首を刎ねて外の谷底へ放り込め。荷物は検分して使えそうなものだけ残せ」
周囲の男たちが無言で頷き、間合いを詰めてくる。
死の宣告だった。ここには慈悲も、法律も、弁明の余地もない。
しかし、私の視線は男の刃ではなく、その構えの細部に注がれていた。
「……構えが低すぎます」
乾いた声が、自分の喉から出た。
男の眉が、わずかにピクリと動いた。
「何だと?」
「左足の踏み込みに対して、腰の位置が低すぎます。右肩の革帯が千切れかかって結び直されているせいで、重心が左に偏っている。その体勢では、私の首を落とした後、返しの刃を振るう前に右半身が大きく崩れます。もし私が懐に短剣を隠し持っていた場合、相討ちになりますよ」
沈黙が、廃墟の広場を支配した。
周囲を取り囲んでいた男たちが、信じられないものを見る目で顔を見合わせている。
喉元に刃を突きつけられた女が、命乞いではなく構えの欠陥を指摘するなど、彼らの常識の範疇を完全に超えていた。
男——頭目の銀灰色の瞳が、驚愕と、より深い警戒の色を帯びて細められた。
「……貴様、何者だ。近衛の剣術を知っているな。どこの手の者だ」
「王都主計局、特命監察官レティシア・ファレルです」
私は動かず、男の目をまっすぐに見返した。
「武器は持っていません。持っているのは筆記具と、この谷の廃村登記書だけです」
男は鼻で嘲笑した。
「監察官だと? 紙切れを弄ぶ役人が、何の用でこの墓場に来た」
「帳尻を合わせに来ました」
私は足元に置いたトランクを顎で示した。
「公文書の上では、この谷には三十年間、ただの一人も生きた人間が存在しないことになっています。ですが、あなたのその刃は間違いなく手入れされ、足元には子供の足跡があり、こうして私を包囲する兵がいる。——私の目の前で、巨大な計算違いが起きています」
男は刃を引かなかったが、その切っ先に込められた殺気が、わずかに困惑によって揺らいだのを私は見逃さなかった。
「……戯言を。殺せば、お前がここへ来た記録ごと消えるだけだ」
「私を殺せば、王都は予定通りここを『完全な更地』として台帳を閉じます。そうなれば、境界線の外から採石権が民間に売却され、大規模な発破が始まる。あなた方の隠れ処は、半年と持たずに瓦礫の下ですよ」
男の喉仏が、ごくりと小さく動いた。
「……連れて行け」
男は静かに剣を引いた。
「殺すのは、この女の腹の中をすべてぶちまけさせてからだ」
無骨な男たちの手が、私の両腕を乱暴に掴んだ。
私は抵抗せず、ただ泥に汚れたトランクを胸に抱き直した。




