第3話 死者の気配
境界石を背にして半刻。
谷の奥へ進むにつれ、両側に切り立つ岩壁は高さを増し、空を細い青の一筋に切り取ってしまった。
日光は底まで届かない。肌を刺すような冷気配と、硫黄の混じる湿った風。足元は砕けた頁岩が敷き詰められ、一歩踏み出すごとにジャリ、ジャリと硬い音を立てた。
王都の連中が「怨霊の呻き声」と呼ぶものの正体は、すぐに分かった。
風が切り立った岩肌の割れ目を吹き抜ける際、反響して低く唸るような風切り音を立てているだけだ。音響管の原理と同じで、地形が生み出すただの物理現象に過ぎない。
私は歩みを緩めず、時折立ち止まって手帳に数値を書き留めた。
歩数による距離の概算、道の傾斜、そして風の通り道。
「……不自然ね」
三度目の屈折点を過ぎたあたりで、私は眉を寄せた。
王国の公図によれば、この旧ノイラート郷は三十年前に放棄されたはずだ。ならば、道の中央にはもっと膝丈の雑草が生い茂り、崩落した落石が行く手を完全に塞いでいなければ辻褄が合わない。
しかし、足元を見る限り、大人の頭ほどもある落石は綺麗に道の両脇へ寄せられていた。
道の端に生えた頑丈な野茨の蔓も、ところどころ鋭利な刃物で刈り払われた形跡がある。刃こぼれした鉈で強引に叩き切ったような、荒々しい断面だ。
さらに進むと、枯れた小沢を横切る場所に出た。
乾ききった泥の上に、目を凝らさなければ見落とすほどの微細な窪みがある。
私は膝をつき、泥の表面に顔を近づけた。
「……長靴の爪先。いや、布を巻きつけただけの簡易な履物。深さは五ミリ前後、歩幅から推測して体重は三十キロ程度。——子供の足跡」
子供が、この死の谷を歩いている。
三十年前に全員が死に絶えた土地に、新しい子供の足跡があるはずがない。
死病で滅びた村という公式記録と、現場の物理的痕跡。二つのデータの間にある致命的な乖離が、私の頭の中で冷たく噛み合っていく。
「誰かが生きている。それも、単独の逃亡者ではなく、複数の人間が群れをなして生活している」
私は立ち上がり、トランクを握り直した。
心臓が早鐘を打っているのは、恐怖からではない。隠蔽された事実の輪郭が、霧の向こうから露わになりつつあることに対する、監査官としての知的な興奮からだった。
谷が突然開けた。
目の前に現れたのは、巨大な石造りの廃墟群——旧ノイラート郷の中心集落だった。
かつて石灰石の採掘で栄えた名残だろう、頑丈な二階建ての石造り民家が数十軒、崩れかけたまま沈黙している。屋根の抜けた家々の隙間を、乳白色の濃い霧が這うように流れていた。
中央広場と思われる場所の奥、ひときわ頑丈に組まれた旧領主館の地下へと続く階段がある。
その石段の中央だけが、黒ずんで擦り減っていた。
——ここだ。
私が階段へ向かって最初の一歩を踏み出した、その瞬間だった。
小石が転がる乾いた音が、背後で微かに響いた。




