第2話 禁足地の境界石
車輪が泥濘に足を取られるたび、古びた辻馬車の車体が骨を軋ませるような悲鳴を上げる。
王都を出て五日。
街道の終点に位置する最後の宿場町「白石宿」は、その名の通り、石灰岩の白い粉塵が風に舞う寒々とした村だった。軒を連ねる粗末な宿屋の壁はどれも灰色にくすみ、行き交う人々は一様に浅黒く、眉間に深い皺を刻んでいる。
宿の酒場兼食堂の片隅で、私は湯気の立つ木椀を前にしていた。
中に入っているのは、塩抜きが不十分な塩漬け豚と、固い根菜を煮込んだだけの泥色のスープだ。
「……お客さん、本当にあそこへ行く気かい?」
配膳をしてくれた宿の主人が、布巾で手を拭きながら、気味の悪そうな目で私の足元に置かれた革トランクを見つめていた。
「ええ。ノイラート郷の境界まで」
私がスプーンを止めずに答えると、隣の卓で安酒をあおっていた鉱夫風の男たちが、露骨に鼻を鳴らした。
「やめときな、姉ちゃん。あそこは人間が行く場所じゃねえ。『灰の谷』の境界石を越えた奴はな、全員、怨霊に首をへし折られて谷底の骨洗い場に晒されるんだよ。三十年前、死病で村が全滅した時だってそうだ。王都から派遣された調査隊の半分が発狂して逃げ戻ってきたんだぜ」
男たちの粗野な言葉に、酒場全体が薄暗い沈黙に包まれる。
誰もがノイラートの名を口にすることすら忌み嫌っているようだった。
私はスープを飲み干し、油の浮いた木椀の底を見つめながら言った。
「三十年前の記録を調べました。派遣された調査隊の医師二名、兵卒四名が体調不良を訴えて帰還しています。症状は激しい頭痛、嘔吐、そして視覚の異常」
「ほら見ろ! 呪いじゃねえか!」
「いいえ。この宿場町の井戸水と、土壌の質を見て確信しました」
私は懐から小さな手帳を取り出し、ペン先で紙面を軽く叩いた。
「白石宿の地層は石灰岩ですが、ノイラート郷へと続く渓谷の入り口からは、脆い泥岩と黄鉄鉱の混じる黒色頁岩へ変化しています。頁岩に含まれる硫黄分が地下水に溶け出している上、閉鎖された谷底には硫化水素などのガスが滞留しやすい。頭痛や嘔吐は、単なる軽度のガス中毒。視覚の異常は、高濃度のガスに眼球の粘膜が晒されたことによる炎症です」
「……は?」
男たちはぽかんと口を開けた。何を言われたのか理解できないという顔だ。
「つまり、呪いではなく、換気不足と地質の問題です。風向きを計算し、水場の位置を選べば、人間が立ち入れない理由にはなりません」
「あ、あんた……何を言って……」
「御主人。勘定をお願いします。干し肉十本と、堅パンを二袋、それから清潔な布を三ヤードほど分けていただけますか。代金はこちらに」
私は銀貨を二枚、木目のはげたカウンターの上に滑らせた。
主人は恐る恐る銀貨を拾い上げ、眉をひそめて私を凝視した。
「……役人かい。王都から来る役人はみんな威張り散らすか、怯えて逃げ出すかのどっちかだが、あんたみたいなのは初めてだ」
「ただの監査官です。事実を確認しに来ただけですから」
荷物を受け取り、宿の外へ出る。
見送る者など誰もいない。御者たちにどれほど金を積んでも、「境界石の手前までしか行かない」と頑なに拒絶されたため、ここからは徒歩だった。
背負い袋には、干し肉とパン、水筒、そして三ヤードの麻布。
麻布は細かく裂き、木炭の粉を包んで即席の粉塵マスクを作るためのものだ。
左手に持ったトランクには、私の全財産である白紙の台帳と測量道具が入っている。ずしりと重いその質量が、不思議と私の心を落ち着かせた。
白石宿を抜け、切り立った岩山の間を縫うように伸びる細い獣道を進む。
草木は次第にまばらになり、生えている木々も幹がねじれ、葉が枯れ落ちていた。空気の中に、微かに卵の腐ったような刺激臭が混じり始める。
歩くこと二刻。
行く手を塞ぐようにそびえ立つ二本の巨大な岩柱の間に、苔むした一本の石柱が立っていた。
風化が進み、刻まれた文字の大半は削り取られていたが、指先でなぞると微かに凹凸が読めた。
『——これより先、ノイラート。生者立ち入るべからず』
三十年前に打ち立てられた、王国の境界石だ。
この石の向こう側は、法が及ばず、税も届かず、地図からも消された「無」の領域。
私は石柱の前に立ち、水筒の水を一口含んで喉を潤した。
谷底から吹き上げてくる冷たい風が、私の髪を乱暴に揺らす。
「生者立ち入るべからず、ですか」
私は境界石の根元に視線を落とした。
風化した石の表面。だが、その足元にある敷石の苔には、真新しい「削れ跡」があった。
誰かが最近、重い靴底でここを踏み越えた跡だ。
「死人は靴を履きませんし、靴底をすり減らしたりもしませんね」
私は境界石に背を向けず、まっすぐに前を見据えた。
霧の立ち込める灰色の谷の底へ、私はしっかりと右足を踏み出した。




