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灰谷の墓守 〜王都を追われた監査官、呪われた禁足地で「死者の村」を登記する〜  作者: しの


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第1話 合わない帳尻

羊皮紙をめくる音だけが、天井の高い執務室に響いていた。


王都主計局長室。

窓の外からは、石畳を叩く馬車の蹄の音と、秋の冷え始めた風が硝子を揺らす微かな軋みが届いている。室内に漂うのは、乾燥した古紙とインク、そして蜜蝋の匂いだった。


私の手元にある台帳の三十二頁目には、赤インクで細い引き取り線が引かれている。


「……局長。三度計算し直しましたが、やはり数が合いません」


豪奢なマホガニーの机を挟んだ向こう側で、仕立てのいい上着を着た肥満気味の男——主計局長のバルツァー男爵が、淹れたての茶に角砂糖を二つ落としたところだった。銀の匙が陶器の縁に触れ、硬質な音を立てる。


「レティシア・ファレル監察官。君のその神経質さには、時折辟易させられるよ。端数の四捨五入か、輸送中の損耗だろう。軍馬の飼料や長靴の革など、湿気一つで重量が変わるものだ」


「いいえ、四捨五入で片付く数字ではありません」


私は感情を交えず、淡々と数字を読み上げた。


「西部国境警備隊へ配備されたとされる防寒外套、三千着。支給記録には確かに受領印がありますが、その製造元である織物ギルドの羊毛仕入れ帳簿には、該当する時期に千五百着分の原反しか動いた形跡がありません。残り千五百着分の金貨四百五十枚は、ギルドを経由せず、貴族院補給監査委員長の私設口座へ直接振り込まれています」


部屋の空気が、わずかに冷えた。

バルツァー局長は匙を置き、目を細めて私を見た。その脂ぎった額に、隠しきれない不快の色が浮かんでいる。


「……監察官。物事には、帳簿の数字よりも優先される『運用の知恵』というものがあるのだよ。現場が円滑に回るための潤滑油だ。それをいちいち暴き立てて、軍と貴族院の顔に泥を塗るのが君の仕事かね?」


「私の仕事は、帳尻を合わせることです」


私は卓上の台帳を指先でトントンと叩いた。


「出納が合わない記録は、虚偽です。虚偽を放置した帳簿は、もはや公文書ではなくただの落書きに過ぎません。四百五十枚の金貨がどこへ消えたのか、明日の定例監査会議で報告書を提出いたします」


局長は深いため息をついた。

苛立ちを隠そうともせず、彼は立ち上がると、私の手元にあった監査報告書の控えを無造作に取り上げた。


そして、振り返りざま、パチパチと音を立てて燃える暖炉の火の中へ、それを放り込んだ。


乾いた羊皮紙は、瞬く間に炎に巻かれた。

赤インクで丁寧に記した横領の証拠が、黒く縮み、灰となって煙突へ吸い込まれていく。


「……何をするのですか」


「君は優秀だがね、レティシア。足し算と引き算しかできん」


局長は机の引き出しを開け、あらかじめ用意されていたと思しき一枚の辞令書を取り出し、私の前に放り出した。そこには、まだ乾ききっていない紫の公印が押されていた。


「君の頑なな正義感には、少し頭を冷やす時間が必要だ。ちょうど、長年放置されていた案件があってね。誰も引き受けたがらなかった重要任務だ」


私は机の上の辞令書に視線を落とした。


『特命監察官レティシア・ファレル。ノイラート郷における最終境界確定および廃村登記を命ず』


ノイラート郷。

その名を目にした瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。


三十年前、原因不明の死病が流行し、一夜にして全住民が死亡したとされる谷。

王国の版図でありながら、現在は「禁足地」に指定され、地図の上では白い空白として塗り潰されている、いわく付きの土地だ。怨霊が彷徨い、足を踏み入れた者は生きて戻らないと噂される、王都の人間なら誰もが知る死の地。


「……ノイラート郷の廃村登記は、三十年前に完了しているはずです」


「形式上の処理が杜撰だったのだよ。隣接する領地との境界も曖昧なままだ。現地へ赴き、生存者が一人もいないことを確認し、完全なる『無価値の荒地』として台帳を閉じろ。それが君の新しい仕事だ」


「事実上の、追放ですね」


私の問いに、局長は下卑た笑みを浮かべた。


「滅相もない。適材適所だよ。誰もいない谷なら、君の大好きな『完璧に計算の合う世界』が広がっているはずだ。……ああ、馬車は明朝出る。護衛はつけられんよ。何しろ、死人の村に予算は下りないからね」


部屋を出ろと促すように、局長は手をひらひらと振った。


抗議の言葉も、怒りの叫びも、私の喉からは出なかった。

ただ、暖炉の中で完全に燃え尽きた羊皮紙の残骸を見つめながら、私は胸の内で冷徹に理解していた。


この組織は、すでに腐り落ちている。

数字を見ず、事実を見ず、自分たちの腹を満たすためだけに帳簿を書き換える者たち。そんな場所でどれほどペンを走らせたところで、すべては暖炉の灰に消えるだけだ。


「承知いたしました」


私は深々と一礼した。


「引き継ぎ書は本日中に机の上に残しておきます。……失礼いたします、局長」


踵を返し、執務室の重い扉を開ける。

背後で局長が安堵したように鼻を鳴らす音が聞こえたが、私は二度と振り返らなかった。


自室に戻った私は、私物を革のトランクへ詰め始めた。

華美なドレスも、装飾品もない。

手元に残したのは、使い慣れた鉄ペンが三本、真鍮製の頑丈な携帯用インク壺、折りたたみ式の測量水準器、そして——主計局の倉庫から私費で買い取った、頑丈な牛革表紙の真っ白な台帳が五冊。


誰もいない死者の谷。

地図から消された空白の土地。


「……ふふ」


一人きりの部屋で、思わず小さく乾いた笑みが零れた。


嘘と誤魔化しで塗り固められた王都の帳簿より、最初から何もない白紙の台帳の方が、よほど書き甲斐があるというものだ。


私は荷物のベルトをきつく締め上げ、冷え切った夜の窓を静かに閉ざした。

第1話をお読みいただきありがとうございます!


本作は【全30話完結済み】となっており、毎日7時に更新していきます。途中で止まることなく最後までお楽しみいただけますので、続きが気になった方はぜひ画面下の【ブックマークに追加】をポチッと押していただけると励みになります!


次回は明日7時に更新予定です。

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