第28話 王都からの帰還要請
査察と事後処理が一段落した夕刻。
旧領主館の執務室で、ユリアン特使はレティシアと二人きりで向かい合っていた。
机の上には、特使が携えてきた最高位の辞令書が置かれていた。
「レティシア・ファレル監察官。いや……次席主計局長」
ユリアン特使は微笑みながら、その辞令書を彼女の前へ押し出した。
「バルツァーの失脚に伴い、主計局は根本からの刷新を余儀なくされています。陛下も、第三王子殿下も、貴方の比類なき監査能力と実務手腕を極めて高く評価しておられる。王都へ帰還し、新体制の主計局の中枢に座っていただきたい」
破格の栄転だった。
平民出の若い女性が、国家の財政を牛耳る主計局の次席に上り詰めるなど、王国の歴史上かつてない快挙だった。
執務室の扉の外で、キリアンが息を殺して立っているのを、レティシアは気配で感じ取っていた。
住民たちも、固唾を呑んで建物の外で見守っている。
レティシアは辞令書に視線を落とし、それから指先でそれを静かに特使の前へ押し戻した。
「光栄なご提案ですが、お受けすることはできません」
ユリアン特使が目を丸くした。
「……なぜです? 貴方を陥れた者たちはすべて失脚したのですよ。王都には、貴方の才能を存分に発揮できる最高峰の舞台が待っているというのに」
「私の才能を発揮する場所は、すでにここにあります」
レティシアは窓の外を指差した。
夕暮れの光の中、湯気を上げる共同浴場、青々と広がる段々畑、そして子供たちの笑い声。
「王都の主計局で行われる仕事の大半は、他人が作った数字の後始末と、権力者の顔色を窺う帳尻合わせです。しかし、この谷で私が記録している数字は、今日生きるためのパンであり、明日を温める薪であり、ここに生きる人々の命そのものです」
レティシアの瞳には、迷いの一片もなかった。
「誰かの都合で書き換えられる数字を弄ぶのは、もうたくさんです。私は、私が引いた境界線の内側で、確かな現実だけを記帳し続けたいのです」
扉の外で、誰かが深く息を吐く気配がした。
ユリアン特使はしばらくの間、彼女の顔を見つめていたが、やがて負けを認めたように苦笑した。
「……参りましたね。王都のいかなる権力も、貴方のその鉄ペン一本には敵わないようだ」




