第23話 兵站戦の幕開け
夜明けとともに、谷の入り口に陣取った五百の敵軍が一斉に動き出した。
重装歩兵の盾が擦れ合う金属音と、軍馬の嘶き。
先頭に立つのは、ベルンハルト侯爵家の私兵指揮官、バルカス将軍だった。歴戦の傷を誇る巨漢が、抜き身のサーベルを掲げて怒号を飛ばす。
「全軍、突撃! あんな粗末な石垣など、攻城槌の一撃で粉砕してくれるわ! 中の者は皆殺しにせよ!」
地鳴りのような鬨の声とともに、先鋒の百名が狭い峡谷へと雪崩れ込んできた。
防壁の上に立つレティシアは、ストップウォッチを片手に、静かに谷の底を見下ろしていた。
「敵先頭集団、進入速度、時速約六キロメートル。正面密度、過密。……キリアン様、第一工程をお願いします」
「了解だ」
キリアンが手を振り下ろした。
峡谷の両側の岩壁の上に伏せていた男たちが、一斉にタガネを木槌で叩き込んだ。
前夜のうちに、石工のゴードンたちが地層の亀裂に沿って正確に打ち込んでおいた「割り楔」だ。
ズズズ……ドォォォン!!
轟音とともに、何十トンもの頁岩が斜面を滑り落ちた。
しかし、それは敵の頭上に落ちたのではない。敵の先鋒百名と、後続四百名の中間——補給部隊と輜重車が連なる地点の直前へと、ピンポイントで崩落したのだ。
「なっ……前線が分断された!?」
バルカス将軍が狼狽して叫んだ。
「後続を塞いだだけではありません」
レティシアが呟く。
谷の狭小部を満たしたのは、崩落によって舞い上がった、高濃度の石灰岩と頁岩の微粉末だった。
谷底特有の上昇気流に乗った白い粉塵が、突撃してきた先鋒百名の視界を完全に奪い去る。
「ゲホッ! ゴホッ! 前が見えん! 息が……!」
兵士たちが喉を押さえてうずくまり、目を擦って混乱に陥る。
「風下へ煙幕発生器作動。麻酔薬草の粉末を散布してください」
レティシアの冷静な指示のもと、オンドルの排気口から誘導された乾燥オオバコとトチノキの煙が、峡谷の底へと吹き降ろされた。
激しい咳き込みと脱力感。兵士たちは武器を取り落とし、次々と膝をついた。
進むことも、退くこともできない。
戦いすら始まらないまま、五百の軍勢の五分の一が、完璧な科学と地形の罠によって無力化されていた。




