第22話 退路の遮断
決戦前夜。
谷の住人たちは、レティシアの指示のもと、整然と防衛準備を進めていた。
石工のゴードンたちは狭路の岩肌に特殊なタガネを打ち込み、鍛冶場では矢じりと油壺が量産され、女子供たちは地下の最も安全なオンドル部屋へと避難を完了させていた。
深夜、物見櫓の最上階。
冷え切った風の中、キリアンが一人、愛剣の刃をオイルを含ませた布で拭っていた。
カツ、カツと階段を登る足音。
「……眠れと言ったはずだが」
キリアンは振り返らずに言った。
「寝ます。最終の資材配分表の確認が終わりましたので」
レティシアは彼の隣に立ち、手すりに手を置いた。
外の闇の向こう、谷の入り口の平原には、敵私兵軍の無数の篝火が赤々と揺れていた。五百の軍勢が放つ重苦しい圧迫感が、夜気を震わせている。
キリアンは剣を鞘に納めると、静かに向き直った。
その銀灰色の瞳は、かつてないほど深く、真摯にレティシアを映していた。
「……レティシア」
「何でしょうか」
「明日の戦い、お前が計算した通りにいくとしても……万が一ということがある。戦場に絶対はない。相手は五百だ」
キリアンは懐から、一通の通行証と小さな革袋を取り出し、彼女の手に握らせた。
「谷の裏手、古い坑道の最奥に、外の山脈へ抜ける隠し通路がある。そこを抜ければ、ヘンドリックの商隊が手配した馬車が待機している。金貨と、身分を偽装するための書類だ。……今なら、誰にも気づかれずに逃げられる」
レティシアは手のひらの革袋を見つめ、それからキリアンの顔を見上げた。
「これは、退却の命令ですか?」
「命令ではない」
キリアンの声が、かすかに震えた。
「頼みだ。……お前はもう、十分にやってくれた。俺たちに生きる尊厳を教えてくれた。これ以上、お前を泥臭い戦いに巻き込みたくない。お前のその綺麗な手は、帳簿をつけるためのものだ。血に汚していい手じゃない」
キリアンの手が伸び、彼女の頬に触れそうになり——そして、自らの煤けた手を見て、躊躇うように空中で止まった。
「もし残るなら……俺はお前を守る盾になる。だが、お前が死ぬようなことがあれば、俺はこの谷ごと敵を皆殺しにして、自分も果てる。……それが耐えられないんだ」
重く、痛切な、男の魂の叫びだった。
レティシアは、空中で止まっていたキリアンの無骨な手を、自らの両手で包み込んだ。
冷え切った彼女の手を、キリアンの手のひらの熱がじんわりと温めていく。
「キリアン様」
レティシアは革袋を彼の胸元へ押し戻した。
「私の台帳の『損失許容範囲』の項目には、こう記されています。——キリアンおよび当共同体住民の損耗、ゼロ名。一人の欠落も、私は損失として計上することを許可しません」
「レティシア……」
「逃げる理由の項目が、私の頭の中では完全に空白です」
レティシアは微かに、だが生まれて初めて、悪戯っぽく唇の端を吊り上げた。
「私は監査官です。自分が投資した資産が最大の利益を生み出す瞬間を、途中で投げ出すような無能な仕事はいたしません。——明日は、完璧な完封勝利を記録します」
キリアンは目を見張り、それから、敗北を認めたように深く息を吐いた。
「……本当に、敵わんな」
キリアンの腕が、彼女の細い肩を抱き寄せた。
硬い鎧の感触と、力強い心臓の鼓動が、レティシアの耳に直接響いた。
「分かった。お前の台帳の通りに、一人の損耗も出さずに勝つ。……俺の命を、すべてお前に預ける」
二人は夜の闇の中、互いの温もりを確かめ合うように、静かに寄り添い続けた。




