第17話 最初の査察使
灰色の霧が漂うノイラート郷の境界。
かつてレティシアが跨いだ「生者立ち入るべからず」と刻まれた境界石を、馬の蹄が容赦なく踏みにじった。
「フン……こんな陰気な穴倉で、女が生きているはずもなかろう」
銀色に光る甲冑に身を包んだ査察隊長、ヴォルフ大尉が馬上で唾を吐いた。
背後には完全武装の騎兵二十名と、補給用の輜重車が三両。いずれも貴族院の息がかかった、実戦慣れした傭兵崩れの精鋭たちだった。
「隊長、前方に石造りの防壁らしきものが見えます!」
斥候の報告に、ヴォルフは目を凝らした。
三十年前の廃墟群の手前、切り立った谷の狭小部に、いつの間にか巨大な石灰岩の防壁と、跳ね橋が築かれていた。防壁の上には、黒革の鎧を身に纏い、短弓を構えた見張り兵が規則正しく巡回している。
「何だあれは……? 盗賊どもの砦か?」
ヴォルフが剣を抜きかけた、その時だった。
カツ、カツと、石畳を踏み鳴らす静かな足音が、跳ね橋の向こうから響いてきた。
防壁の頑丈な鉄扉が開き、一人の女性が姿を現した。
煤一つない濃紺の監察官服。胸元には王都主計局の銀の記章。手には分厚い牛革の台帳を抱え、真鍮の水準器を腰から下げたその佇まいは、まるで王都の講堂からそのまま歩み出てきたかのように端正だった。
「——王都査察隊の皆様。ようこそ、ノイラート郷へ」
レティシアは深く、寸分の狂いもない完璧な宮廷礼をとった。
ヴォルフは馬上で呆然と目を見張った。
「き、貴様……レティシア・ファレルか!? なぜそんな格好で生きている!」
「なぜ、とは奇妙な問いですね」
レティシアは顔を上げ、冷徹な瞳で二十名の騎兵たちを見回した。
「私は王命に基づき、この地の監査と登記の実務を行っているだけです。……ところで大尉。貴方方のその入隊手続きには、三つの重大な法的手続き違反があります」
「は……? 法的手続き違反だと?」
「第一に、禁足地進入における事前環境保全届の未提出。第二に、武器の無申告持ち込み。そして第三に——」
レティシアが懐から銀の懐中時計を取り出し、パチンと鳴らした。
その音を合図に、周囲の岩壁の上から、突如として無数の影が立ち上がった。
精巧な弩を構えた男たちが、査察隊を完全に包囲していた。中央には、抜き身の長剣を構え、銀灰色の瞳をギラつかせたキリアンが立っている。
「——当自治共同体の境界を無断で侵犯した罪です」
ヴォルフの顔から血の気が引いた。
「な、何者だ貴様ら! 王国の正規査察隊に対して刃を向ける気か!」
「正規の査察隊であれば、まずこちらの手続きに従っていただきます」
レティシアは台帳を開き、鉄ペンを構えた。
「武器をすべて荷車へ下ろし、馬から降りてください。……抵抗される場合、当方の防衛動線に基づき、三十二秒以内に貴方方の馬の腱をすべて射抜く計算となっております」
「ふ、巫山戯るな! 突撃——」
ヴォルフが抜刀しようとした瞬間、背後の岩肌からドスンと地響きが轟いた。
退路となっていた狭い峡谷の出口に、あらかじめ仕掛けられていた落石トラップが正確に作動し、巨大な巨石群が崩れ落ちて退路を完全に塞いだのだ。
一滴の血も流れることなく、査察隊二十名は、完璧な罠の檻の中へ閉じ込められていた。




