第15話 聖域の完成
春の足音が、谷の雪を少しずつ解かし始めていた。
ノイラート郷が「死病の廃村」として放棄されてから三十年。
そして、私がこの谷へ足を踏み入れてから、半年が経過していた。
かつての廃墟は、完全にその姿を変えていた。
外敵の侵入を拒むように、谷の入り口には精巧な石造りの防壁と跳ね橋が築かれ、日夜、規律正しく武装した男たちが見張りに立っている。彼らの装備は、密貿易商から買い取らせた良質な鉄と、マリアたちが仕立て直した頑丈な革鎧で統一されていた。
谷の中央には、オンドルの熱を利用した石造りの長屋が整然と立ち並び、各家庭の煙突からは白い煙が真っ直ぐに青空へと昇っている。
南斜面の段々畑では、冬を越した冬麦が一面のみずみずしい緑の海を作り出し、新しく開墾された薬草園では、可憐な白い花が咲き誇っていた。
採石坑道の一角には、本格的な鍛冶場と製塩所、そして水力で動く石臼が設置され、絶え間なくリズミカルな労働の音が谷に木霊している。
「レティシア様! 本日の出納帳です!」
走ってきたのは、すっかり顔色の良くなった十四歳の少年だった。
私が手帳とペンの使い方を教え、今や立派な監査助手となった見習い記録係だ。
「ありがとう、ルカ。……うん、製塩の歩留まりが先週より二分上がっていますね。素晴らしいわ」
「はい! ゴードン親方が、釜の火力を一定に保つ送風装置を作ってくれたんです!」
少年は誇らしげに胸を張り、次の持ち場へと走っていった。
私は旧領主館の執務室の窓辺に立ち、広がる景色を見渡した。
机の上には、半年間かけて私が書き上げた、三冊の分厚い牛革表紙の台帳が鎮座している。
一冊目は、『自由郷ノイラート住民台帳』。
百二十八名の氏名、年齢、血統、技能、そして健康記録が克明に記されている。
二冊目は、『財産および生産設備目録』。
段々畑三エーカー、製塩炉二基、オンドル長屋八棟、貯蔵小麦十二トン、備蓄塩八百キロ……王都の小都市に匹敵する、完璧な資産の証明。
三冊目は、『水文および地質防衛記録』。
谷の地形を利用した防衛動線、水源の維持管理マニュアル、そして外敵を迎え撃つための地形トラップの配置図。
ここはもはや、逃亡者たちの隠れ処ではない。
王国の法と腐敗の手が届かない、極めて強固で、美しく完成された「不可侵の自治共和国」だった。
カツ、カツと、迷いのない軍靴の音が部屋に響いた。
入ってきたキリアンは、新調された黒革の鎧を身に纏い、腰には研ぎ澄まされた長剣を佩いていた。
かつての荒んだ野犬のような気配は消え失せ、一軍の将としての威厳と、揺るぎない覇気がその全身から放たれている。
彼の手には、谷の物見から届いたばかりの一本の矢文が握られていた。
「……来たぞ、レティシア」
キリアンの声は極めて静かだったが、その銀灰色の瞳には、冷たく研ぎ澄まされた刃のような光が宿っていた。
「白石宿の物見からの報告だ。王都から、正規の査察使の一隊がこちらへ向かっている。騎兵二十、輜重車三両。『行方不明となった監察官の捜索および、ノイラート郷の最終処分』が名目だそうだ」
半年間、沈黙を保っていた王都が、ついに動き出したのだ。
私が死んだものと決めつけ、この土地を完全に掌握するために。
私は机の上の鉄ペンを静かに置き、牛革の台帳の表紙を撫でた。
「半年……予想より二ヶ月遅かったですね。王都の官僚たちの計算速度は、相変わらず鈍重なようです」
「迎撃の準備はできている」
キリアンが私の前に歩み寄り、机に両手をついた。
その距離は近く、彼の発する圧倒的な熱量が肌に伝わってくる。
「一歩たりとも、あの連中をこの谷の敷石に踏み込ませはしない。お前が望むなら、全員の首を刎ねて境界石の前に並べてやる」
「物騒なことは言わないでください」
私は小さくため息をつき、椅子から立ち上がった。
「首を刎ねては、損害賠償を請求できません。彼らには、この半年間の私たちの労働の対価と、不当な監査に対する慰謝料を、最後の一銅貨まで耳を揃えて支払っていただきます」
私の言葉に、キリアンは口元を歪め、獰猛な笑みを浮かべた。
「……承知した。お前の台帳の通りに動こう、わが主」
私は一冊目の住民台帳を胸に抱き、窓の外の青空を見据えた。
死者の谷の墓守は、終わった。
ここから始まるのは、生きている者たちの、王都に対する静かなる反撃の記帳だ。




