第12話 禁足地の特産品
谷の北側の境界、険しい断崖に挟まれた狭い岩棚。
そこが、密貿易商との秘密の取引現場だった。
霧の向こうから、二頭立ての頑丈な荷馬車が軋んだ音を立てて現れた。
護衛の傭兵を四人連れた肥満体の男——密貿易商のボリスが、毛皮の外套に身を包み、下卑た笑みを浮かべて馬車から降りてくる。
「よう、キリアン頭目。今月も無事に生きていたようだな。……おいおい、今日は女連れか? ずいぶん上等な拾い物をしたじゃねえか」
ボリスのねめまわすような視線が私を舐めたが、私は表情一つ変えずに手帳を開いていた。
気色ばんだキリアンが一歩前に出ようとするのを、私は手で制した。
「ボリス様ですね。本日の取引の決済を担当いたします、レティシアです」
「ああん? 女が仕切るのか? まあいいさ、誰が相手だろうと相場は変わらん」
ボリスは馬車の荷台を叩いた。
「今月も持ってきてやったぜ。王都直送の最高級大麦三袋と、極上の塩が一袋だ。その代わり、黒い石(石炭)は先月の倍、一トン積んでもらう。……文句はあるめえ? こちとら命がけで禁足地まで運んできてやってるんだ」
傭兵たちがニヤニヤと笑いながら剣の柄に手をかける。明らかな脅迫と買い叩きだった。
私は一歩前へ進み出た。
「提示された条件を精査いたしました。結論から申し上げますと、その取引はお受けできません」
「あ?」
ボリスの顔から笑みが消えた。
「おいおい、干からびて死にたいのか?」
「死ぬのはあなた方の商売の方です」
私は足元に置いていた二つの木箱を開け、中身を露わにした。
一つ目の木箱には、朝日に照らされて雪のように眩しく輝く、サラサラとした純白の粉末。
二つ目の木箱には、深い漆黒の鉱石の塊。しかし、これまで彼らが運ばせていた石炭とは違い、表面が油を引いたように滑らかで、青い金属光沢を帯びている。
「な……なんだ、その白い粉は。まさか、粉砂糖か?」
ボリスが目を丸くした。
「純度九十八パーセントの精製塩です」
私は指先で塩を一掴み掬い、ボリスの前に差し出した。
「舐めてごらんなさい。苦味も砂利の混入も一切ない、王宮の晩餐会で供される一級品と同等以上の純白塩です。日量二十キロの安定供給が可能です」
ボリスはおそるおそる指を伸ばし、塩を口に含んだ。
その瞬間、男の目が剥き出しになるほど見開かれた。
「な……っ!? 甘い……いや、まろやかだ……! 岩塩特有の臭みが全くねえ! どこからこんなものを手に入れた!?」
「場所は企業秘密です」
私は冷ややかに木箱の蓋を閉めた。
「さらに、こちらの黒い石をご覧ください。これは単なる石炭ではありません。『黒鉛』と高品質の耐火泥です。王都の造幣局や高位の錬金術ギルドが、高熱に耐える溶解ルツボの原料として喉から手が出るほど欲しがっている特殊鉱物です。——あなたが今まで二材一等のゴミ屑として買い叩いていた鉱脈の、真の価値ですよ」
ボリスの顔から血の気が引き、それから脂汗が吹き出した。
「お前……何者だ……!?」
「帳簿の数字を読む者です」
私は手帳を掲げ、立て板に水のように数字を突きつけた。
「あなたが持参した大麦は昨年の古米で、倉庫の底に溜まっていた虫食い品。市場価格は銀貨二枚以下。対して、こちらの純白塩五キロと黒鉛原石十キロの王都末端価格は、金貨最低でも十五枚に達します。——差額金貨十四枚と銀貨八枚。誰が誰の足元を見ているとおっしゃいましたか?」
「ひっ……!」
ボリスが後ずさりした。
護衛の傭兵たちも、私と、その後ろで静かに長剣に手をかけたキリアンの圧倒的な威圧感に気圧され、誰一人剣を抜こうとはしなかった。
「取引を打ち切っても構いませんよ」
私は淡々と告げた。
「私たちはすでに自給自足の基盤を整えつつあります。この塩と黒鉛を携え、国境警備隊の正規補給部隊と直接交渉することも可能です。『禁足地からの密輸品』ではなく、『正当な鉱山試掘物資』としてね」
「ま、待て! 待ってくれ!」
ボリスは慌てて両手を広げ、醜い顔を歪めて懇願した。
「悪かった! 今までの非礼は詫びる! だから、その塩と黒鉛を俺に卸してくれ! 頼む! 麦は今年の新麦を十袋、いや二十袋運んでくる! 油も、鉄の道具も、布も、望むものは何でも仕入れてやる!」
「よろしい」
私は懐から、あらかじめ作成しておいた一枚の契約書を取り出した。
「では、こちらの契約書に署名を。品目ごとの交換レート、検品基準、そして納期の遅延に対する違約金条項を厳密に定めてあります。一文字でも違反があれば、取引は即座に停止、あなたの商売の帳簿の不正を王都税務局へ匿名で告発いたします」
ボリスは震える手で羽根ペンを受け取り、震える筆致で署名した。
馬車に積まれていた上質な小麦粉と干し肉が、次々と谷の入り口へ運び降ろされていく。
走り去る荷馬車を見送りながら、キリアンが私の隣で低く唸った。
「……剣を一度も抜かずに、あの強欲商人を丸裸にしたな」
「商人は数字で脅すのが一番効きます」
私は契約書を丁寧に折り畳み、胸元に収めた。
「これで、冬を越すための基礎食糧と道具の確保は完了しました。——次は、畑です」




