対話
幽霊を見たのは、人間だった頃を含めてもこれが初めての経験だった。僕が漠然とイメージしていた幽霊像といえば、古典的な怪談に出てくるようなものだ。白装束をまとい、長い黒髪を乱し、血の気のない青白い顔をして、足がなく宙に浮いている……そんなステレオタイプな姿を想像していた。だが、今、闇の中に浮かび上がり、僕の視界にはっきりと映し出されている存在は、そんな生温かいイメージとは完全にかけ離れていた。それは、あまりにも残酷な結果そのものだった。
闇の中に佇んでいたのは、泥と赤黒いシミで汚れきった、曇天中学の野球部ユニフォームを着た人影だった。だが、その人影は、およそ生きた人間が取りうる形をしていなかった。4階建ての校舎の屋上から、コンクリートの地面へ生身で叩きつけられた肉体。それが、どのような末路を辿るのか。目の前の存在は、それをまざまざと見せつけていた。
顔の原型は、もはや判別できなかった。頭部はトマトのように無残に砕け散り、頭蓋の中身であったはずのものが、鼻や耳の穴からドロリと溢れ出している。辛うじて顔だと認識できたのは、半分だけ残った顎と、砕けずに残っていた片方の目玉が、眼窩から飛び出してダラリと頬に垂れ下がっていたからに過ぎない。視線を下に下ろしても、地獄は続いていた。汚れたユニフォームのあちこちから、折れた骨の鋭利な断面が、肉と布を突き破って白く突き出している。両腕と両足は、人体の関節構造を完全に無視した、あり得ない角度にねじ曲がっていた。右腕は肩から後ろ向きに垂れ下がり、左足の膝は逆に曲がって脛の骨が太ももに突き刺さっている。それは、人間というよりも、高い場所から乱雑に投げ捨てられて壊れた、肉と骨でできた人形の残骸だった。
『う、ぐ、あ……っ』
もし僕に胃袋があったなら、その場で内容物をすべて吐き出していただろう。人間だった頃の本能的な恐怖と嫌悪感が、椅子の身体を激しく震わせる。これが、幽霊?いや、これは死そのものだ。深冷 地縛という少年が味わった、絶望と苦痛の終着点だ。
「……椅子さん? 椅子さんには、幽霊の姿がちゃんと見えてるんすっか」
ミコッチには黒い人影のモヤのような姿に写っているらしい。だから、この悍ましい姿を認識できていない。しかし、僕にはしっかりと幽霊となった惨たらしい姿がはっきりと見える。
『ミコッチ、あの幽霊は……君のお兄さんで、間違いないと思う』
目の前の顔は、もはや原型を留めていない人間とは思えない異形の姿だ。僕がミコッチの兄だと確信を持てたのは、ユニフォームに名前が書かれていたからだった。そうでなければ誰だか判別するのは不可能だった。
幽霊はミコッチではなく僕の方へ、折れた両足をありえない角度に動かしなが向かってくる。まるでマリオネットのように何者かに糸で操られているように、奇怪な動きで一歩一歩近づいて来た。そして、ミコッチには聞こえないように座面に顔を近づけて、口と思われるグチャグチャに潰れた空間から、湿り気を帯びた掠れ声が届いた。
「喋る椅子なんて珍しいな。君と2人で話をしたい」
そう、僕に告げると、ゆっくりと僕たちから離れていく。僕はあまりの恐怖でおしっこをちびりそうになる。しかし、僕は椅子なので表情の変化もなく、おしっこを漏らすこともないので粗相をすることはなかった。
『ミコッチ、僕が君のお兄さんと2人で話をしてみるよ。だから、霊眼を解いて少し離れてくれないか』
「わかったっす」
幽霊は僕との対話を求めて来た。すなわちそれは、ミコッチに聞かれたくない内容なのだとすぐに理解した。だから僕はミコッチに霊眼を解くことを望んだのである。すると、ミコッチは少し寂しげな顔をして、霊眼を解いて、府領と一緒に僕から少し距離をとった。府領は終始何も言わずにミコッチの手を握りして、ミコッチの不安を少しでも癒そうと努めていた。僕は2人の絆の強さを感じた。
静まり返った闇の中、僕と地縛の2人きりになる。僕は眼窩から飛び出した目玉をぎょろりと動かしている彼に問いかけた。
『君は、ミコッチのお兄さんの地縛君だよね』
一瞬、時が止まった。砕け散った顎がガクガクと震え、信じられないものを見たというふうに、垂れ下がった目玉が僕を凝視する。
「……」
しかし、幽霊は何も答えない。ただ、その異様な視線が僕を射抜いている。僕は沈黙に耐えかね、言葉を継いだ。
『僕はミコッチに頼まれて、幽霊の正体が彼女のお兄さんかどうかを確認しに来たんだ』
すると、口と思われるグチャグチャに潰れた空間から、湿り気を帯びた掠れ声が届いた。
「なぜ椅子が喋っているのだ。君は椅子に取り憑いた悪霊なのか……?」
その問いは、あまりに正論だった。幽霊という超常的な存在から見ても、椅子が意思を持って喋り出すのは理解を超えた現象なのだろう。僕を悪霊だと断定する彼の判断は、むしろ至極真っ当だといえる。
『信じられないかもしれないけど、僕は椅子に転生した元人間なんだ』
僕が放った衝撃の告白に、幽霊は一瞬硬直した。
「人間が……椅子に、転生……?」
彼は僕の脚から背もたれまでを、品定めするように舐めるように見つめると――。
「人間が椅子に転生だと! 俺をバカにしているのか!!」
突如、幽霊の垂れ下がった目玉が真っ赤に充血し、周囲の空気が凍りつくような怒りを放った。彼からすれば、自分が無残な姿で苦しんでいるときに、自分は椅子になった人間だなどという話は、ふざけた冗談にしか聞こえなかったのだろう。
『信じてくれ。僕は……』
僕は必死に、自分が死ぬことになったいきさつを話した。鳳たちにいじめられたこと、そしてあまりにも間抜けにナイフに突っ込んでしまった最期。語るうちに、幽霊の刺すような殺気は徐々に消え、代わりに深い溜息のような冷気が漏れ出した。
「……そうか。お前もアイツの犠牲者だったんだな。……あまりに無念すぎて、死んで椅子に取り憑いちまったってことか」
幽霊は僕に同情するようにポツリと呟いた。どうやら彼は、あくまで僕を椅子に憑りついた悪霊として解釈した。




