幽霊の正体
意識が浮上したとき、最初に感じたのはアスファルトの硬さではなく、湿った土とカビの入り混じった、どこか懐かしい匂いだった。
「……ここは?」
僕は投げ飛ばされて学校の外の道路に落ちたはずだ。なのに、今僕がいるのは再び体育館の裏だった。地面に跳ね返って戻ってきたのか?いや、違う。周囲を見渡して僕は絶句した。体育館の横にはひび割れた懐かしい焼却炉がある。ここは現在通っている青天高校ではない。僕が3年間を過ごした母校である曇天中学校だった。
「やっと意識を取り戻したんっすね。本当によかったっす……」
横を見ると、そこにはミコッチがいた。ミコッチは体に負担がかかるのをいとわず、僕のことを心配して霊眼を発動してくれていた。にもかかわらず
『ミコッチ、ここ、曇天中学だよね? 』
「そうっす、曇天中学っす」
『そうか……。それで僕はこの場所で何をすれば良いのだ?』
僕はミコッチと府領の話を聞いていたので、ある程度は何をするのかは理解している。だが、お互いが話せる状態になってからきちんと説明してほしい。もしかすると、幽霊と関わらないで良い道が模索できるかもしれないからだ。
「実は2年程前から、この曇天中学では幽霊が出るって噂があるっす。場所は体育館の裏側……すなわち、今僕たちがいる、ここっす」
ミコッチの言葉に、僕は背もたれを冷たい風が吹き抜けるような感覚を覚えた。僕は幽霊が苦手だ。そんな僕が今、心霊スポットの渦中いるのだから冷や汗も出る感覚を抱くのも当然だ。今すぐにでもこの場を立ち去れたいが、僕の足は脚なので、動くことは不可能だ。
『ぼ……僕を幽霊が出る場所に連れてきて、何をしろって言うんだ?』
僕はあきらかに動揺していた。でも、椅子なのでミコッチには気付かれないのは良いことだ。
「僕は幽霊と話すことはできても、姿はちゃんとは見えないっす……。ここで成仏できずにとどまっている幽霊とは、何度も対話を試みたっす。でも、その幽霊は頑なに僕と話すことを拒んでいるっす。だから……」
ミコッチはそこで一度言葉を切り、僕を真っ直ぐに見つめた。
「椅子さんに、その幽霊がだれなのかを確認してほしいっす」
僕が部室に留めてもらうには断ることはできない。でも二つ返事に引き受けるほど度胸がない臆病者だった。
『ミ……ミコッチ。ど……うして君は、そこまでその幽霊の正体を知りたいんだ?』
僕は断れる理由を模索する。すると、ミコッチは俯いてしばらく考え込んでいた。2分程考え込んだ彼女は覚悟を決めたように顔を上げた。
「……幽霊が誰なのか、ある程度は分かっているっす。僕の本名は、深冷 巫女っす。……椅子さんなら、深冷の苗字に聞き覚えがあるはずっすね」
心臓が跳ねた。深冷。その珍しい名字を、僕は忘れるはずがない。
「……2年前、鳳たちにいじめられて自ら命を絶った野球部員。深冷 地縛は……僕の兄っす」
静まり返った体育館裏に、その言葉が重く沈んでいった。ミコッチすなわち深冷 巫女は、あの鳳の犠牲になった野球部員の妹だったのだ。
衝撃の事実に、僕は何も言えなかった。かけるべき言葉が見つからない。体感的には10分ほども沈黙していた気がする。だが、実際には1分にも満たない時間だったのだろう。僕が言葉を失っているのを察したミコッチは、無理に作ったような笑顔を浮かべて言った。
「椅子さんは気にすることないっす。椅子さんも、アイツらの犠牲者っすからね。……実は僕、これまで何度もここで幽霊に話しかけてみたっす。でも、幽霊は僕の問いかけに、1度も返事をしてくれなかったっす。……だから、椅子さんに確認してほしいんっす」
ミコッチの震える声が、僕の背もたれに冷たく響く。彼女の言う通りだ。僕もまた、鳳という悪魔が生んだ犠牲者だ。地縛は絶望の果てに自ら命を絶ち、僕は……女の子を救おうとして躓き、暴漢のナイフに自分からダイブするという、なんとも情けない形でこの世を去った。死に方の格好良さは違えど、鳳がいなければ、僕ら2人の運命はもっと別の場所にあったはずだ。何より、実の妹であるミコッチの呼びかけを無視し続ける幽霊(兄)の状態が、普通ではないことを物語っている。
『……わかった。僕が確認しよう』
本当は断りたい。でも、ミコッチの心情を考えると断るなんて出来るはずがなかった。
「ありがとうっす。もうすぐ日が暮れるっすから、お願いするっす」
幽霊とは、光が消えた時にこそ現れるもの。僕たちは、重苦しい静寂の中で夜が来るのを待った。
30分後。
日は完全に沈み、体育館裏は濃密な闇に包まれた。
「ミコッチ、覚悟はできているの?」
府領が不安げな声でミコッチに問いかける。ミコッチは確信しているはずだ。ここに現れるのは、兄である地縛に違いないと。だが、彼女の心の奥底では、それが兄でないことを願っている。幽霊とは、未練や恨み、執念に縛られ、成仏できずに彷徨う魂だ。優しい兄が、そんなおぞましい姿でこの場所に留まっているなんて、妹として認めたくないに決まっている。
「うん……覚悟はできているっす」
ミコッチの声は、今にも消えてしまいそうなほどか細く、震えていた。本当は覚悟なんてできていないのだ。街灯1つない体育館裏は、一寸先も見えない漆黒の闇。その時、僕の感覚に、この世のものとは思えない不気味な音が届き始めた。
『ヒュードロドロ、ヒュードロドロ、ヒュードロドロ……』
ステレオタイプな、けれど背筋を凍らせるようなその音が響く場所を僕は凝視する。闇が1点に集まり、歪み、そこには到底この世の存在とは思えない、おぞましい姿をした幽霊が、ゆらりと姿を現した。




