[6]
「それにしてもよく泣いたな…」
げっそりしつつ、護は淹れたてのココアを娘に差し出す。テーブルを挟んで座っている娘は俯きがちで、ココアに手を伸ばす様子はない。
娘はあれからたくさん泣いた。20分近く泣き続けた。泣いて泣いて、あの短時間ですっかり目元が腫れ上がるほど泣いた。ようやく泣き止んだところで、護は彼女をリビングルームへと通し今に至る。
「———で、お前名前は?」
「………」
「どっから来た?」
「………」
娘は沈黙したまま、静かに俯いている。
そこでふと、護はある可能性に気がつく。
「日本語じゃわからんのかあ…?」
なんとなく、きっと娘は日本語を話せると思っていた。否、絶対に彼女は話せるだろうと。
けれど目の前の娘は、確かに顔立ちは日系人に近いかもしれないが、その色は欧米人に近い。肌も黄色みかかっていない白だし、頭髪はアッシュブロンド、片方だけしか見えない瞳も薄ら青い。
「じゃ、Can you speak English? Est-ce que vous pouvez parler français?」
日本語じゃダメならと、英語とフランス語を引き合いに出してみる。どちらかでもヒットしてくれれば助かるというもの。
何年か前に留学していた時よりずいぶん話すことはなくなったけれど、まだまだ話す感覚は残っている。と、思う。思いたい。
けれどどちらの言葉に対しても娘が反応しないところから見ると、どちらも分からないようだ。すなわち、言葉が通じないというわけで———…。
うお——…参った。
マジで参った。
いよいよどうしようかと思った矢先、娘が小さく口を開いた。
「……あの」
「お」
「飲み物、ありがとうございます」
やっぱり日本語は通じるらしい。ただ俯きがちなその態度同様、内向的なようで声も小さい。呟くような声は、少し高かった。
娘が自発的に話したのはこれが初めてで、護は待っていればまだ話すのではないかと期待。口をつぐんで、娘がまた話し始めるのを待つ。彼の思惑通り、彼女はまた口を開いた。
「…家に、帰ろうと思って。昔過ごした家が懐かしくて、それで、思い出したら止まらなくて」
「……」
「どうしても帰りたくて、屋敷を出てきました」
が、どうも雲行きが怪しい。
「———つまり。今まで住んでいたとこから家出してきたってことか」
「……はい」
はいって…。
素直で正直なことはいいが、家出はマズいだろうよ。
思わず大きくため息。
「あのなあ、お前未成年だろ?」
「はい」
「それ飲んだら帰れ」
「………」
「家までには送ってやるから」
「………」
娘の返事をしなかった。
これだけ大人しい娘ならば、それなりのことがあって出て来たことくらい察知出来ないわけじゃない。彼女なりに堪え難いことがあったのだろう。
だからといって彼女に手を伸ばす義理はあるか。覚悟はあるか。その資格が、己にはあるのだろうか。名も何も話してもらえない己には、きっとない。
だから、ならば突き放す。
「だいたいガキが家出とか、つまらんことを抜かすな。未成年のうちは、親元にいるのが一番いいはずなんだ。大人しくスネかじってりゃいい。だからお前を家に帰す」
ちらりと娘を盗み見る。娘は俯きがちだが、その表情はよく分かる。微かに唇を噛み、泣きそうに顔を顰めている。
「———って、思ったんだけどなあ」
今でもそう思っている。思っているのに、納得出来ていない自分がいるのも間違いない。
何度もそんな己を否定した。犯罪になり兼ねないこの現実と将来性と、娘の今後を天秤にかけて、どう考えても前者を取るべきなのに、断固として否と思う自分がいる。もう娘を泣かせるなと、心の奥底から叱咤される。
がりがりと頭を掻く。葛藤渦巻く心が少しでも落ち着けばいいと思いながら、どうすればいいのかも分かっている。認めるしかないのだ、負けを。
「も———…なんでそんな顔するかな。そんなんじゃ帰すに帰せんだろうが」
ぱっと娘が顔を上げる。驚いたような、そんな顔。そしてやっぱり少し、泣きそうな顔をする。あーもうだから、頼むからそんな顔してくれるなよ。
捨てられないのならば、斬り捨てられないのならば、受け入れるしかないのだ。
「ったく、気持ちの整理がつくまでだからな」
いずれ、この選択を後悔する時がくるかもしれない。
ため息はつき飽きたはずなのに、まだのどの奥から這い出てくる。むっとした表情を作ったものの、心はとっくに決まっていた。
「それまでなら、ここに置いてやる」
娘は一瞬戸惑った表情を見せたあと、破顔。
初めて見た娘の笑顔は、驚くほど純粋だった。彼女が育った環境がそうさせたのか、それとも彼女自身故なせる表情なのか分からない。
「…あ、ありがとうございます」
「まずは名前だな」
「ハ、ハナです。よろしくお願いします」
「杜沢 護だ。——ったく、はよ帰れよ、家出娘」
こうして、家出娘と一教師の期間限定の共同生活が始まった。
たとえ、その夢が叶わぬと知っても、彼女は夢見ることを望んだのではないだろうか。
どんな結末になろうとも、儚く散ろうとも。
彼と同じヒトとして、少しでも一緒にいられたらと、望んだのではないだろうか。
夢に夢を見ることは、先に相手を好いた喜びか。
はたまた、苦しみか。
結局、彼女が見た夢は叶うことはなく、彼女とともに消え去った。
温かくて、儚い夢。
あれだけの代価を支払っても、夢は叶わない。
それでもヒトは夢を見る。
わたしも、夢を見てしまった。
教えてください、神様。
わたしの夢を叶えるには、一体どれだけの代価が必要なのでしょうか。
キミカゲソウ ...end