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月喰いと契りの巫女  作者: 菊池まりな


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第9話 揺れる想い

 六日目の夜、柊は眠れなかった。


 布団の中で天井を見つめながら、昨日の朧の言葉を何度も反芻していた。


  ──消えてほしくないと思う。お前が。


 感情の名前を知らない男が、自分で選んだ言葉。飾りもなく、照れもなく、ただまっすぐに言った。だからこそ、重かった。柊の胸の奥に、静かに沈んでいった。


 これは何だろう、と柊は思った。


 胸が温かい。でも同時に、少し苦しい。誰かを大切に思うとき、人はこんな気持ちになるのだろうか。


 答えが出ないまま、夜が深くなった。

    



 翌朝、山道を登りながら、柊は自分の足元を見ていた。


 いつもは朧の顔を見るのが楽しみで、自然と足が速くなる。でも今朝は、少し緊張していた。昨日のことを、どんな顔で会えばいいかわからなくて。


 番小屋の前に着くと、朧はいつものように外に出ていた。


「おはようございます」


「ああ」


 朧はいつもと変わらなかった。昨日のことなど何もなかったように、無表情でそこに立っている。


 それが、妙に柊を安心させた。


「今日も練習をしますか」


「食事の後で」


「はい」


 番小屋に入り、竹籠を開ける。今朝は卵焼きを作ってきた。少し甘めに味付けしたものを。


「これは何だ」


「卵焼きです。甘いですよ」


 朧は一切れ口に入れて、止まった。


「……饅頭に似ている」


「甘さが?」


「口の中が、穏やかになる」


 柊は笑った。


「それ、すごくいい表現ですね」


「おかしいか」


「おかしくないです。素直で、きれいな言い方だと思います」


 朧は黙ってもう一切れ食べた。柊はその横顔を見ながら、昨夜からの胸のざわめきが、今朝は少し静まっていることに気づいた。


 こうして一緒に朝ごはんを食べているだけで、十分な気がした。

    



 気配の練習を終えた頃、山の下から人の気配がした。


 今度は柊が先に気づいた。


「誰か来ます」


「ああ。ひとりだ」


「蒼真さんじゃないですね。気配が違う」


「お前の家の者か」


 柊は少し考えて、思い当たった。


「父かもしれない」


 朧に番小屋の中で待つよう言い、柊は山道を下りた。


 果たして、途中で父と鉢合わせた。柊家の当主、柊宗一郎(ひいらぎそういちろう)。五十がらみの、目の鋭い男だった。退魔師としての腕は確かで、この地域の要職も担っている。


「こんな朝から何をしている」


「修行の場所を探していました」


「番小屋の周りか」


「はい」


 父は柊を一瞥した。その目が、少し奥の方を見た気がした。


「あの番小屋、最近扉の立て付けが悪いらしい。見に来たついでだ」


「私が確認しておきます」


「いい。俺が行く」


 柊の心臓が、跳ねた。


「父上、私に任せてください。修行の一環として、管理の仕方も覚えたいので」


「修行と管理は別物だ」


「それでも」


 父は立ち止まり、柊を見た。


 退魔師として長年培った勘が、何かを感じ取っているかもしれない。父の霊力は高い。朧の気配を、蒼真と同じように察知している可能性があった。


「……最近、お前の顔つきが変わった」


 唐突に、父が言った。


「そうですか」


「目に、力が出てきた。何かあったか」


 柊は少し驚いた。怪しんでいるのではなく、純粋に観察していた。


「練習しているからじゃないですか」


「そうかもしれん」


 父は少し間を置いた。


「番小屋は、お前に任せる。扉の蝶番が緩んでいるはずだ。直しておけ」


「わかりました」


 父は山を下りていった。


 柊は深呼吸をひとつ、して、番小屋に戻った。


「聞こえていましたか」


「聞こえた」


「父が来たのは初めてです。しばらく注意が必要かもしれません」


「俺がここにいることで、お前が父親に嘘をつくことになる」


「仕方ないです」


「仕方なくない」


 朧の声が、少し低くなった。


「お前は家族に嘘をつき、幼なじみに嘘をつき、俺のためにそれを続けている」


「朧さんのためだけじゃないです。私が判断したことです」


「同じことだ」


「違います」


 柊は朧を見た。


「私がここにあなたを置きたいのは、私がそうしたいからです。誰かに強いられているわけじゃない」


「なぜそうしたい」


「それは……」


 言いかけて、止まった。


 なぜそうしたいのか。昨夜から考えていたこと。胸の温かさと苦しさが混ざり合うあの感覚。


「うまく言えないです」


「言えないことは、無理に言わなくていい」


 朧は窓の外を見た。


「ただ、俺はお前に負担をかけたくない」


「負担じゃないです」


「そう感じていないだけかもしれない」


 柊は少し黙った。


「朧さんは、私にここを出ていけと言いたいんですか」


 間があった。


「……言いたくない」


 静かな声だった。


「出ていくべきかもしれないと思う。でも、言いたくない」


 柊の胸が、また温かくなった。さっきとは少し違う、もっと切ない温かさ。


「じゃあ、いてください」


「……それでいいのか」


「よくないことは何もないです」


 朧は答えなかった。でも、その沈黙は否定ではなかった。

    



 夕方、柊が山を下りる前に、蒼真がやってきた。


 今度は山道の途中で、偶然に近い形で鉢合わせた。蒼真は別の任務の帰りらしく、装束のまま山道を歩いていた。


「柊。また山か」


「はい」


「毎日のように来ているな」


「修行です」


「その修行の成果は出ているか」


 意地悪な聞き方ではなかった。蒼真は本当に知りたがっていた。


「少し、気配が読めるようになってきました」


「ほう」


「霊力に頼らなくても、感じられるものがあると気づきました」


 蒼真は少し目を細めた。


「誰かに言われたのか」


「自分で気づきました」


「嘘をつくな。お前はそういうことを自分で気づくタイプじゃない」


 正確だった。柊は苦笑した。


「……助言をもらいました」


「あの男か」


 蒼真の声が、低くなった。責めているのではない。でも何かを抑えているのがわかった。


「蒼真さん」


「俺はお前の敵じゃない」


「わかっています」


「ならなぜ、俺に頼らない」


 柊は蒼真を見た。


 夕陽が山の端に近づき、二人を橙色に染めていた。蒼真の顔に、影が落ちている。その表情に、いつもより柔らかいものがあった。


「頼ることができない、んじゃなくて」


「じゃあ何だ」


「蒼真さんに頼ると、甘えすぎてしまいそうで」


 蒼真が動きを止めた。


「甘えて何が悪い」


「私が弱くなります」


「強くなるためだけに人と関わるわけじゃないだろう」


「そうですけど」


 柊は視線を落とした。


「蒼真さんのそばにいると、安心しすぎてしまう。それが怖いんです。自分で立てなくなりそうで」


 蒼真は少し黙った。


「……俺がお前を、そんなふうに見ていると思っているのか」


「思っていません。蒼真さんがそういう人じゃないのはわかっています」


「なら」


「私の問題です」


 夕陽が、沈んでいく。山の輪郭が、黒く浮かび上がる。


「柊」


 蒼真が、名前を呼んだ。


 いつもと違う声だった。柊は顔を上げた。


「俺は、お前のことが」


 そこで蒼真は止まった。


 何かを言いかけて、飲み込んだ。その目が、柊をまっすぐに見ていた。


 柊はその目の中に、今まで見たことのないものを見た気がした。いつもの心配でも、幼なじみへの気遣いでもない、もっと深いところにあるもの。


「……今は、言わない」


 蒼真は静かに言った。


「タイミングじゃない。ただ、覚えておいてくれ。俺はいつでも、お前の味方だ」


「蒼真さん」


「帰れ。暗くなる前に」


 踵を返した背中が、夕陽の中に遠ざかっていく。


 柊はしばらく、その場に立ち尽くしていた。


 胸が、複雑だった。温かいのに、切ない。嬉しいのに、苦しい。


 蒼真の気持ちが、伝わってきた。言葉にはしなかったけれど、確かに届いた。


 そして柊は、自分がその気持ちに同じように応えられないことも、わかっていた。


 なぜかは、まだうまく言えなかった。


 ただ、朧の顔が頭に浮かんだ。感情の名前を知らない男が、消えてほしくないと言った夜が。

    



 家に帰り、部屋に戻った柊は、行燈の前に座った。


 今日一日で、ありすぎた。父の訪問、朧の言葉、蒼真の目。


 黒い本を取り出して、開いた。


 月喰いの記述を、続きから読む。


  ──その封印は満月の夜に施され、術者の血筋が絶えぬ限り、解けることはないという。しかし封印は完全なる消滅にあらず。月が満ちるたびに、力は蓄積される。いつか器が溢れるとき、月喰いは再び目覚める。


 柊は頁をめくった。


 次のページに、古い絵が描いてあった。


 月を背に立つ人影。白い着流し。乱れた黒髪。


 柊の手が、止まった。


 絵の下に、文字があった。崩し字を辿ると、こう読めた。

 

 ──月喰いは人の形をとる。その瞳は銀色にして、月光を宿す。


 銀色の瞳。


 柊の胸が、冷たくなった。


 本を閉じた。


 手が、震えていた。


 まだわからない。まだ確かではない。でも、点と点が線になっていく感覚が、止められなかった。


 朧の銀色の目が、頭の中に浮かんだ。


 消えてほしくないと言った、あの声が。


 柊は膝を抱えた。


 胸の温かさと冷たさが、今夜初めて、同時に存在していた。


 行燈の灯りが、揺れた。


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