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月喰いと契りの巫女  作者: 菊池まりな


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第10話 満月の違和感

 七日目の朝は、空が重かった。


 雲が厚く垂れ込め、山の頂が霞んでいた。雨になるかもしれない、と思いながら、柊は竹籠を抱えて山道を登った。


 昨夜は、ほとんど眠れなかった。


 黒い本の絵が、瞼の裏に焼き付いていた。月を背に立つ人影。銀色の瞳。月光を宿す者。


 まだ確かではない、と自分に言い聞かせた。似ているだけかもしれない。古い絵と、今の朧が同じ存在だとは限らない。


 でも、言い聞かせるほど、胸の冷たさは消えなかった。


 番小屋の前に着くと、朧はいなかった。


 珍しい、と思って戸を開けると、中も空だった。毛布は畳まれている。窓際の木切れの鳥も、そのままある。いなくなったわけではない。


 しばらく待つと、山の奥から朧が戻ってきた。


「どこへ行っていたんですか」


「山の中を歩いていた」


「なぜ」


「落ち着かなかった」


 朧は番小屋に入り、いつもの場所に座った。柊もそれに続く。


「落ち着かない、というのは、どういう感覚でしたか」


「胸の奥がざわついていた。じっとしていられなかった」


 柊は竹籠を開けながら、朧の顔を窺った。昨日より、顔色が白い気がした。正確には、普段から白いのだが、今日はそれが際立っていた。


「体の具合は」


「わからない」


「どこか、おかしい感じはありますか」


「おかしい、という基準がわからない」


 柊は朧の手を見た。いつもより、指先がわずかに青みを帯びている気がした。


「手を見せてください」


 差し出された手を取る。冷たかった。朧はいつも体温が低いが、今日はそれ以上だった。


「冷たいですね」


「そうか」


「昨夜から、何か変わったことはありましたか」


 朧は少し黙った。


「夜半すぎに、力が漏れた」


「力が?」


「意図せず、溢れた。番小屋の外に出たら、少し収まった」


 柊は朧の手を握ったまま、息を整えた。


 力の暴走。意図せず溢れ出る力。


 黒い本の言葉が、頭をよぎった。

 

 ──月が満ちるたびに、力は蓄積される。


 今夜は、何日目の月だろう。


「朧さん、今夜の月を知っていますか」


「十三夜だ」


 あと二日で、満月になる。

    


 食事の後、気配の練習はしなかった。


 朧の状態が、柊には気になった。本人は「問題ない」と言ったが、顔色と指先の青さが、言葉を信じさせてくれなかった。


「横になっていてください」


「眠れないと言った」


「眠らなくていいです。ただ、横に」


 朧は少し間を置いてから、毛布の上に横になった。柊は隣に座り、膝を抱えた。


 しばらく、沈黙が続いた。


「柊」


「はい」


「昨日から、顔が違う」


 柊は膝から顔を上げた。


「そうですか」


「何かを考えている。それは見ればわかる」


 朧に言われると、誤魔化す気になれなかった。この人は目に映ったものを、そのまま言う。感情を読むのではなく、事実を見る。だから柊のわずかな変化も、見逃さない。


「少し、調べていることがあって」


「俺のことか」


 静かな問いだった。責めていない。ただ確かめている。


「……はい」


「何がわかった」


「まだはっきりしたことは」


「わかったことを言え」


 柊は朧を見た。


 横になったまま、朧は天井を見ていた。銀色の目が、板張りの天井を静かに映している。


「月喰い、という存在を知っていますか」


 朧は動かなかった。


「知らない」


「月光を操るあやかしです。かつて人里に現れ、多くを滅ぼしたという記録がある。討伐できず、ある一族によって封印されたと」


「……それが俺だと思っているのか」


「思っているというより、可能性として」


 沈黙が落ちた。


 朧は天井を見たままだった。何を考えているのか、表情からは読めない。でも柊には、その沈黙が重いことが、わかった。


「昨夜、力が漏れたのも、それと関係があるかもしれない。満月が近づくにつれて、力が増している」


「そうかもしれない」


「怖くないですか」


 問いかけてから、失敗したと思った。朧には恐怖という感覚がないかもしれない。


 でも朧は、少し間を置いてから答えた。


「わからない、という感覚はある」


「わからない?」


「自分が何者か、わからない。それが、落ち着かない。胸がざわつく原因は、それかもしれない」


 柊は朧の横顔を見た。


 わからないことが落ち着かない。それは、人間が感じる不安に近い。感情の名前を知らない朧が、それでも確かに感じている何か。


「私も怖いです」


 柊は言った。


「月喰いが何をするのか、まだわかっていない。朧さんが力を制御できなくなったとき、何が起きるのか」


「お前を傷つけるかもしれない」


「そうかもしれない」


「なぜそれを、平然と言える」


「平然じゃないです」


 柊は膝を抱え直した。


「怖いけど、あなたのそばにいたい。その気持ちの方が、今は大きい」


 朧は天井から目を離し、柊を見た。


 銀色の目が、静かに柊を映していた。


「なぜだ」


「わかりません」


「わからないのか」


「わからないです。でも、確かにそう感じています」


 朧はしばらく柊を見ていた。それから、また天井に目を戻した。


「……俺も、わからないことがある」


「何がですか」


「お前がそばにいると、力が静まる。昨夜溢れかけた力が、今は静かだ」


 柊は少し驚いた。


「私がいるから?」


「そうかもしれない。理由はわからない。ただ、事実としてそうだ」


 柊はそれを、ゆっくりと飲み込んだ。


 自分の存在が、朧の力を静める。それが契りのせいなのか、それとも別の何かなのか。わからない。でも朧の言葉は、嘘をつかない。


「なら、私がそばにいます。満月になるまで、ずっと」


「それは」


「心配しないでください。番小屋に泊まるとは言いません。夜になったら帰ります。でも昼間は、できるだけここにいます」


 朧は答えなかった。


 でも否定もしなかった。

    


 昼過ぎ、雨が降り始めた。


 細い雨が番小屋の屋根を叩き、山全体が白く霞んだ。柊は帰るに帰れなくなって、朧と向かい合ったまま、雨の音を聞いていた。


 朧は窓の外を見ていた。雨粒が窓を伝う様子を、静かに目で追っている。


「雨は好きですか」


「好きという感覚はまだわからない。ただ、見ていられる」


「月と同じですね」


「そうかもしれない」


 柊も窓の外を見た。


 雨の山は静かだった。木々が濡れ、土の匂いが漂ってくる。


「朧さん」


「なんだ」


「記憶が戻ったら、どうしたいですか」


 唐突な問いだった。自分でも、なぜ今これを聞いたのかわからなかった。


 朧は少し間を置いた。


「考えたことがなかった」


「一度も?」


「記憶が戻ることを、望んでいいのかわからなかった」


「なぜ」


「戻った記憶に、望ましくないものがあるかもしれない」


 月喰いの記憶。人を滅ぼした記憶。そういうことを、朧は言っているのかもしれない。


「怖いんですね」


「……そうかもしれない」


 今日二度目の、その言葉。朧の中に、恐怖に近い何かが芽生えていた。


「でも」


 朧が続けた。


「記憶がなくても、今ここにいる。それは確かだ」


「そうですね」


「お前と話している。朝ごはんを食べる。梅の花を見る。雨の音を聞く。それは、記憶がなくてもある」


 柊は朧を見た。


 無表情のまま、でもその言葉の中に、柊は確かに温度を感じた。記憶がなくても今があると、この人は言っている。


「朧さん」


「なんだ」


「今が、好きですか」


 雨の音が、しばらく続いた。


 朧は窓の外を見たまま、静かに言った。


「好きという感覚が、少しわかってきた気がする」


 柊の胸に、じわりと温かいものが広がった。


「どんな感覚ですか」


「手放したくない、という感じだ」


 手放したくない。


 柊はその言葉を、胸の中でそっと包んだ。


 窓を伝う雨粒を、二人で黙って見ていた。番小屋の外では、山が静かに雨を受けていた。


 夕方、雨が小降りになったとき、柊は帰り支度をした。


「明日も来ます」


「ああ」


「明後日は満月です。その日は、もう少し遅くまでいてもいいですか」


 朧は少し間を置いた。


「来なくていい」


「来ます」


「危険かもしれない」


「それでも来ます」


 朧は柊を見た。


 何かを言いかけて、やめた。


 柊は戸口で立ち止まり、振り返った。


「朧さんが力を暴走させるとしたら、ひとりのときだと思う。だから私がいる」


「俺がお前を傷つけるかもしれないと言ったろう」


「傷つけないと思っています」


「根拠がない」


「あります」


 柊は朧の目を見た。


「あなたは私を、消えてほしくないと言った。それが根拠です」


 朧は何も言わなかった。


 柊は山道を下り始めた。雨上がりの土の匂いが、鼻をくすぐった。


 振り返ると、朧が戸口に立っていた。雨に濡れた山を背に、こちらを見ていた。


 その姿が、昨夜見た古い絵と重なった。


 月を背に立つ人影。


 柊は目を逸らさなかった。


 たとえそうだとしても、今の朧は今の朧だ。記憶がなく、感情の名前を覚えている途中で、甘いものが好きで、木切れの鳥を窓際に飾る、この人だ。


 それだけは、変わらない。


 変わらないでいてほしい、と思いながら、柊は山を下りた。


 空の雲が切れ、夕陽が一筋、差し込んできた。


 明後日は、満月だった。


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