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月喰いと契りの巫女  作者: 菊池まりな


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第8話 守る理由

 五日目の朝、朧は番小屋の前で待っていた。


 柊が山道を登ってくるのを見て、朧は立ち上がりもせず、ただそこに座っていた。でも視線は、柊が木々の間から姿を現した瞬間から、ずっとこちらを向いていた。


「おはようございます」


「ああ」


「外で待っていたんですか。寒くなかったですか」


「感じない」


「そうでした」


 柊は竹籠を抱え直した。今朝は少し重い。昨夜、煮物を多めに作ったのと、父が土産に買ってきた饅頭を二つ、こっそり包んできた。


「今日は気配の練習をすると言っていましたね」


「食事の後でいい」


 番小屋の中に入り、いつものように卓を挟んで向かい合う。朧は今日も几帳面に毛布を畳み、着物の乱れもなかった。


「昨夜は?」


「月を見ていた」


「一晩中?」


「そうなる」


 柊は饅頭を取り出した。朧の前に置くと、朧は少し目を向けた。


「今日は違うものがある」


「饅頭です。甘いものは食べたことがありますか」


「わからない」


「食べてみてください」


 朧は饅頭を手に取り、一口かじった。


 止まった。


 咀嚼が、一瞬遅くなった。


「……甘い」


「おいしいですか」


 少し間があった。


「わからない。ただ、もう一口食べたくなる」


 柊は笑った。


「それがおいしいということです」


 朧は黙ってもう一口食べた。その動作が、心なしかいつもより早かった。柊はそれを見て、また笑いそうになるのをこらえた。


 感情がわからないと言いながら、朧の体は正直だった。

    


 食事の後、番小屋の前の開けた場所に出た。


 朧は柊の前に立ち、少し距離を置いた。


「目を閉じろ」


「はい」


「俺がどこから近づくか、気配で判断する。感じたら声を出せ」


「わかりました」


 目を閉じた。


 山の音が広がった。葉擦れの音、遠くの鳥の声、土の匂い。普段は意識しない感覚が、前に出てくる。


 しばらくして、何かが動いた気がした。


 左。


「左」


「正解だ」


 目を開けると、朧が左から近づいていた。


「もう一度」


 また目を閉じる。今度は気配が、読めなかった。全く感知できないまま、急に右から声がした。


「右だ」


「全然わかりませんでした」


「俺が気配を消したからだ。今のは参考でいい。まずは消さない状態で感じることを練習する」


 何度か繰り返した。五回やって、当たったのは三回だった。


「柊」


「はい」


「お前の霊力が低いのは事実だ。だがそれは感知能力の低さとは別の話だ」


「どういうことですか」


「霊力は攻撃や祓いに使う力だ。気配を感じるのは、霊力ではなく、本来人間が持っている感覚に近い。研ぎ澄ませば、霊力に依存しなくても感知できるようになる」


 柊はその言葉を、ゆっくりと咀嚼した。


 力がないから感じられない、と思っていた。ずっとそう思っていた。霊力の低さが、退魔師として致命的な欠陥だと。


「本当ですか」


「確かなことは言えない。ただ、お前は昨夜の怨狐のとき、俺が言う前に右の一体に気づいていた」


「そうでしたっけ」


「顔が向いていた。言葉にする前に、体が反応していた」


 柊は思い出した。確かに、あのとき右に何かいると感じた。霊力で感知したのではなく、もっと本能的に。


「練習する価値はある」


「……ありがとうございます」


「礼を言うことか」


「朧さんが私の可能性を信じてくれているから」


 朧は少し黙った。


「信じるというより、見たものを言っただけだ」


「それでも、嬉しいです」


 朧は答えなかった。でも視線が、柊から少し外れた。照れているのか、と思ったが、朧に照れという感覚があるかどうかは、まだわからなかった。

    


 昼前に、蒼真が来た。


 山道を上ってくる気配に、柊が気づいたのは朧よりわずかに遅れてだった。でも気づいた。練習の成果かもしれないと、柊は思った。


「隠れてください」


「隠れる必要があるか」


「蒼真さんに見つかると、ややこしくなります」


「お前が判断するなら従う」


 朧は番小屋の中に入り、戸を閉めた。


 柊は山道の入口に向かった。蒼真はすぐに姿を現した。


「こんなところで何をしている」


「散歩です」


「嘘をつくな。ここは父上の管理地だろう。何かあるのか」


 さすがに鋭い。柊は内心で舌を巻きながら、蒼真の前に立った。


「修行の場所を探していただけです」


「一人でか」


「はい」


 蒼真は柊を見た。それから、番小屋を見た。


「あの小屋に誰かいるか」


「いません」


「気配がある」


「獣かもしれないです」


「獣の気配じゃない」


 蒼真が番小屋に向かって歩き出した。柊は咄嗟に前に出た。


「蒼真さん」


「退け」


「退きません」


 蒼真が止まった。柊を見る。その目に驚きがあった。柊がこんなに強く言うのは、珍しかった。


「柊」


「私のことを心配してくれているのはわかります。でも、私には私の判断があります」


「その判断が心配なんだ」


「そうかもしれない。でも私は、間違っていないと思っています」


 二人の間に、沈黙が落ちた。


 蒼真は長い間、柊を見ていた。何かを測るように。何かを確かめるように。


「……その人間がお前を傷つけたら」


「傷つけません」


「どうしてそう言い切れる」


「五日間、一緒にいました。それだけです」


 たった五日間、と言われればそれまでだ。柊にもわかっていた。論理的な根拠はない。朧が何者かも、まだわかっていない。


 それでも。


「信じています」


 蒼真は目を閉じた。


 深く息をついて、また開いた。


「……お前は昔から、そうだった」


 低く、言った。


「一度信じると決めたら、曲げない。小さい頃から」


「蒼真さん」


「俺はお前を守りたい。それだけだ」 


 声に、滲むものがあった。柊は胸が痛くなった。蒼真はいつも、こうだ。怒っているようで、心配している。拒絶しているようで、傍にいようとしている。


「……ありがとうございます」


「礼を言うな。俺が勝手にしていることだ」


 蒼真は踵を返した。山道を下りながら、一度だけ振り返った。


「何かあれば、すぐ連絡しろ。今度は問答無用で来る」


「はい」


 背中が木々の間に消えた。


 柊は深く息をついた。


 番小屋の戸が、静かに開いた。


「聞こえていましたか」


「聞こえた」


 朧が外に出た。


 柊の隣に立ち、蒼真が去った方向を見た。


「あの男は、お前のために引いた」


「そうですね」


「それがどれほどのことか、わかるか」


「……蒼真さんは、正しいと思ったことは曲げない人です。私を信じるために、自分の判断を抑えた」


「お前への気持ちが、それだけ強い」


 柊は返事をしなかった。


 朧は続けた。


「俺は問う資格がないかもしれない。だが、なぜあの男ではなく俺を選んだ」


 柊は少し驚いた。朧がそういう問いをするとは、思っていなかった。


「選んだというより」


「俺を信じると言った。あの男に対して」


「……はい」


「なぜだ」


 柊は朧を見た。


 朧は柊を見ていた。感情の読めない銀色の目。でも今は、その奥に何か問いかけるものがあった。


「朧さんが最初に私を救ったとき、あなたは何も見返りを求めませんでした」


「契りがあったからだ」


「契りを知ったのは、後からでしょう。あのとき、私を抱き止めたのは、契りとは関係ない」


 朧は黙った。


「打算でも、義務でもなく、あなたは私を受け止めた。それだけで十分でした」


 風が吹いた。山の空気が、二人の間を抜けていった。


 朧はしばらく黙っていた。


「俺には、なぜそうしたのかわからない」


「わからなくていいです」


「なぜ」


「わからなくても、あなたがしてくれたことは変わらないから」


 朧は柊から目を離し、山の奥を見た。


 長い沈黙が続いた。


 やがて、朧は言った。


「俺はお前を、守りたいと思っている」


 静かな声だった。


 感情の名前を覚えたばかりの男が、自分で選んだ言葉。


「それが何から来るのかわからない。契りのせいかもしれない。ただ、消えてほしくないと思う。お前が」


 柊は返事ができなかった。


 胸の奥が、じわりと熱くなった。さっきまでとは違う、もっと深いところが。


「朧さん」


「なんだ」


「私も同じです」


 朧が柊を見た。


「あなたに、消えてほしくない」


 風がまた吹いた。山の木々が揺れた。


 朧は何も言わなかった。でも視線が、どこか遠くへ行かなかった。柊のところに、留まっていた。


 守る理由なんて、最初はなかった。命が繋がっているから、打算だから、そう言い続けた。


 でも今この瞬間、柊にはっきりとわかっていた。


 それはもう、打算ではなかった。


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