3-4-5 長い旅の果てに
アーゼラは目を開け、ゆっくりと上体を起こした。視界に広がった光景を認識した瞬間、胸の奥で何かが鈍く軋む。
冷たいコンクリートの床。無機質な柱。視線の先へと延びる線路と、その上に静止する巨大な鉄の塊。
見覚えがある──いや、それ以上に、身体の奥に染みついた記憶そのものだった。
ここは、自分がかつて生きていた世界。
転生の力を得る以前、すべてが始まる前の「現実」だ。
「……戻ってきたというの?」
呟きは、わずかに掠れていた。
背筋を冷たいものが這い上がる。転生は成功したはずだった。あの世界での敗北が、そのまま終わりを意味するはずはないと、どこかで信じていた。それでもなお、自分が送り返された先が、異世界ではなくこの場所であることが、理解の遅れを伴って現実として押し寄せてくる。
周囲を見回すと、人々が行き交っている。だがその視線に、恐怖も畏怖もない。ただ、奇妙な挙動をする者に向けられる、浅い好奇の色だけがあった。
魔力の気配はどこにもない。空気は平板で、ただ流れている。
「サーラゼル……!」
奥歯を噛み締める。怒りが遅れて立ち上がる。
第五の方法が最後だと言った──だが違う。あの少女は、確かにその先を用意していた。
魔法コンテナは封印ではなかった。わずかな時間のずれを仕込む器だったのだ。
一秒につき一万分の一秒という、無視できるはずの誤差。それが長大な遡行の中で積み重なり、転生の到達点を静かに狂わせる。
十年遡る間に、内部時計だけがわずかに先行した。
その結果、転生能力を得る以前の時間へと、余分に踏み込んでしまったのだ。
「よくも……」
言葉は喉元で止まる。周囲の視線がさらに集まるのを感じ、辛うじて飲み込んだ。
人々は何事もなかったかのように電車へと乗り込み、日常へと戻っていく。
かつて闇の女王と呼ばれた名も、その力も、この場所では何の意味も持たない。
ただの一人の人間として、そこに立たされている。
呼吸を整えようとするが、この世界に魔法はないという事実が、思考のたびに突き刺さる。かつて掌中に収めていた力の気配はどこにもなく、世界そのものが自分を拒絶しているかのようだった。
それでも。
アーゼラの瞳には、消えない光があった。
怒りか、執念か、それとも別の何か──まだ判別のつかない、鈍い輝きが。
彼女は歩き出した。
—-
腹の底に沈殿する苛立ちを抱えたまま、アーゼラは自分の生家へと向かっていた。
転生能力を奪われたという事実は、なおも現実味を欠いている。それでも、見慣れた街並みは否応なく過去を呼び起こし、足取りをわずかに鈍らせた。
角を曲がるごとに、記憶が形を持って現れる。
何気ない風景の一つひとつが、微かなずれもなく一致する。
やがて、自宅の前に立つ。
変わらない佇まいだった。時間の経過を知らぬかのように、そこに在り続けている。
アーゼラはしばらく動かずにいたが、やがて無意識のうちに手を伸ばし、扉を開ける。
中へ足を踏み入れた瞬間、生活の気配が肌に触れた。
そして、玄関の奥から、母親が顔を覗かせる。
「あら、今日は早いのね」
その一言は、あまりにも軽く、何の前触れもなく、彼女の内側に入り込んできた。
変わらない声。変わらない表情。
時間の断絶など、まるで存在しなかったかのような自然さ。
「あ……」
言葉にならない音が漏れる。
積み重ねてきた歳月が、一挙に押し寄せる。
魔法の探究。無数の死と再生。終わりの見えない転生の連なり。
そのすべてが、この瞬間、行き場を失って溢れ出した。
喉が締まり、視界が滲む。
ようやく辿り着いた場所が、ここなのだと──理解してしまった。
「どうしたの?何かあったの?」
母の声が、すぐ近くで響く。だがアーゼラは答えられない。ただ、溢れるものを抑えることができなかった。
母にとっては、ほんの数時間の外出からの帰宅に過ぎない。
だがアーゼラにとっては、果ての見えない時間の果てからの帰還だった。
母は何も問わず、ただ静かに近づき、その肩を抱く。
その温もりに触れた瞬間、張り詰めていたものが崩れた。
アーゼラは力なく身を預け、母の胸に顔を埋める。
今この瞬間、彼女はただの娘だった。
それ以上でも、それ以下でもない、名も力も持たない、一人の人間として。
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