3-4-4 若き日の過ち
もはやアーゼラは、何一つ魔法を使えない状態にまで追い詰められていた。
エーテルネットワークによって魔力の集中は断たれ、術式は暗号化の層に阻まれて逐一解除を強いられ、発動の速度そのものが削ぎ落とされている。さらに、自己最適化エージェントが周囲を覆い、起動した魔法はことごとく打ち消されていた。
重ねられた制約は、もはや偶然ではない。構造そのものが、彼女を閉じ込めている。
絶望と怒りが入り混じるアーゼラの表情が、ふいに歪む。
その視線が、わずかな逡巡ののち、すがるように毒蛇の仮面へと落ちた。
「お前の力が必要だ、テネブローヴァ。ここから脱出させて!」
呼びかけは、短く、切迫していた。
仮面は応じなかった。
否、応じる理由を、すでに失っていた。
その彫り込まれた瞳が、鈍く、内側から滲む光を帯びる。
それは救おうとする光ではない。見限った者に向ける、冷えた視線だった。かすかな嘲りが、その奥に宿っている。
アーゼラが言葉を重ねようとした、その瞬間だった。
光がふっと途切れる。
仮面は、まるで彼女の手を振りほどくように、静かに滑り落ちた。
床に触れるよりも早く、その輪郭は影の中へと溶け込み、音もなく姿を失う。
主人を乗り換えることに、何の躊躇もないと示すかのように。
「そんな……なぜ見捨てる……?」
掠れた声が零れる。
だが、すぐにその表情は沈み、視線が落ちた。
力の象徴であった仮面も失い、周囲には女王候補たちが隙間なく布陣している。
逃げ場はない。抗う手段も、すでに尽きていた。
──そう、見えた。
サーラは慎重に間合いを保ちながら、アーゼラへと歩み寄る。
張り詰めていた空気がわずかに緩み、幾人かが小さく息を吐いた。勝利の輪郭が、ようやく現実のものとして感じられ始めている。
「どうやらこれで終わりみたいね、アーゼラ。
この世界の未来を賭けた戦いは、私たちの勝ちよ」
その声音は静かで、昂りはない。
ただ、積み重ねた帰結を告げるようだった。
しかし、アーゼラは応じない。
深く、ゆっくりと息を吸い、吐き、そして静かにサーラを見上げた。
その瞳に、敗北の色はなかった。
むしろ、どこか整いすぎた静けさがある。
均衡を取り戻したかのような、異様な落ち着き。
ふいに、喉の奥で音が鳴る。
「……く、ふ……」
押し殺したような笑いが、わずかに漏れた。
「ふ、ふふ……あは……」
途切れ途切れに、噛み合わない笑いが続く。
乾いているはずなのに、どこか熱を帯びている。
その響きは、壊れた者のそれに近い。
理を外れ、何かを見失った者の笑い──そう見えた。
だが。
アーゼラは、はっきりとサーラを見据えていた。
その視線だけが、奇妙なほどに澄んでいる。
サーラの胸に、わずかな違和感が走る。
次の瞬間、アーゼラは唇をわずかに歪め、低く言った。
「あなたのおかげで、ようやくわかったのよ」
アーゼラは、乾いた唇をゆっくりと舐めた。
その仕草は妙に落ち着いていて、それでいて抑えきれない昂りがわずかに滲んでいる。
「──“デッドロック”の解除方法が!!」
その言葉が届いた刹那、サーラの表情が凍りつく。
だが、理解が形を取るより早く、アーゼラは右手を静かに掲げ、口元に冷たい笑みを浮かべた。
「この転生の力……若き日の過ちで封じられていた禁忌の術式、今なら……」
「しまった!」
サーラが叫び、踏み込む。
だが、その距離は、わずかに遠い。
アーゼラの身体が淡い光に包まれ、周囲の空気がざわめきを帯びる。
それは崩壊ではない。再構成の兆し──封じられていた機構が、再び動き出す音だった。
デッドロックにより“ビジー状態”に閉じ込められていた転生術式が、いま、解放される。
「あなたのおかげよ。ありがとう、サーラ……」
その声には、もはや隠す気のない嘲りが滲んでいた。
光は次第に強まり、アーゼラの輪郭を呑み込んでいく。
やがてその姿は、白く揺らぐ光の中へと溶け込み──完全に掻き消えた。
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