3-2-14 人が消えた街
通りに出たヴァシリーは、今の状況を言葉にできなかった。
そこにあったのは、荒廃でも混乱でもない。
ただ、人が少ないという、説明しづらい違和感だった。
最初の数日は、外出を控える者が増えただけだったはずだ。
次に、店の開店時間がまちまちになり、そのうち、閉まったままの扉が目につくようになった。
今では、開いている店の方が少ない。
通りを歩く人影もまばらで、互いに距離を取り、足早に通り過ぎていく。
立ち話をする者はいない。
視線を合わせることすら、避けられているようだった。
石畳の隙間を、黒い影が横切る。
一匹、二匹──数える意味を失うほどのネズミが、昼の通りをためらいなく走っていった。
それを見ても、誰も声を上げない。
乾いた咳が、どこかの家の中から聞こえた。
一度きりではない。
時間を置いて、また別の咳が重なる。
まるで街全体が、静かに息を詰めているかのようだった。
「……随分と、人が減ったな」
ヴァシリーがぽつりと呟いた。
怒りでも焦りでもない、噛みしめるような声だった。
ほんの数日前までは、ここを歩くのが日常だった。
顔見知りに声をかけ、無駄話をして、それでも皆、ちゃんと前を向いて暮らしていた。
それが、少しずつ、少しずつ、削り取られていった。
誰かが倒れ、誰かが外に出なくなり、
気づいたときには、この静けさが当たり前になっていた。
ヴァシリーは通りを見回し、短く息を吐いた。
その表情には、どうしようもなさを飲み込む癖が滲んでいる。
「……戻ろう」
低くそう言って、踵を返した。
この通りで立ち尽くしていても、何も変わらない。
ヴァシリーは無言で歩き出し、静まり返った街路を後にした。
部屋に戻ると、外とはまるで別の時間が流れていた。
机の上には瓶や器具が所狭しと並び、ライザはその中央で、休むことなく手を動かしている。
試薬を混ぜ、色を確かめ、記録を走り書きするその横顔は、街の静けさなど最初から存在しなかったかのように集中していた。
「戻ったわね」
ライザは顔を上げずに言った。
「頼んでた物、あった?」
「ああ」
ヴァシリーは背負っていた袋を下ろす。「全部揃えた。正直、開いてる店を探す方が大変だったがな」
「助かるわ」
短く、それでも確かな調子で返ってくる声。
それだけのやり取りだった。
だがヴァシリーは、その瞬間、胸の奥がふっと緩むのを感じた。
人と、話した。
それだけのことなのに、
通りで感じていた息苦しさが、わずかに薄れた気がした。
誰かに言葉を投げ、それが返ってくる。
その当たり前が、思っていた以上に自分を支えていたのだと、今さらのように気づく。
「……外、静かだったぞ」
「ええ。予想より早いわ」
それ以上の説明はなかった。
だが、ヴァシリーには十分だった。
部屋の隅、棚の影に黒い影がある。
ネフィリスだ。
身を丸めたまま、金色の瞳だけを動かし、
ライザとヴァシリーの両方を慎重に観察している。
「買い物袋より重たいものを抱えて帰ってきたみたいだね。
安心してよ、その溜息は研究資料には使えないから」
ネフィリスの声音は軽く、だが容赦がなかった。
ヴァシリーは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく苦笑する。
「……相変わらずだな」
返した声は、さっきまでよりほんのわずかに軽かった。
その様子を横目で見ながら、机に向かっていたライザが手を止めた。散らばった紙片をまとめ、淡々とした調子で口を開く。
「調査は進んでるわ。結論から言うと──通常の駆除魔法は、やっぱり通じない」
ヴァシリーが顔を上げる。
「術式の干渉か?」
「ええ。魔力を弾いているというより、効いた“結果”だけを無視している感じね。
少なくとも、魔法だけで数を減らすのは現実的じゃない」
ライザはそう言って、視線を資料に戻す。
「だから対処は、どうしても物理的な手段に頼らざるを得ないわ」
その言葉に、部屋の空気がわずかに引き締まった。
「ネズミ算って言葉の通り、あいつらは一度に何十匹も産む」
ヴァシリーは腕を組み、吐き捨てるように言う。
「こいつを街中で増やされたら、どうにもならん。手っ取り早いのはトラップだが……あんなもので全部捕まえるのは無理だろ」
ライザは即座に首を横に振った。
「そもそもトラップを仕掛けるだけでも時間がかかりすぎるわ。その間にも、ネズミは増え続ける。追いつけない」
「じゃあ、毒薬はどうだ? 魔法のはダメだが、普通の毒なら……」
ヴァシリーがそう言いかけた瞬間、ライザが鋭く遮る。
「無理よ。ネズミは一度覚えた危険を避ける習性がある。最初に引っかからなければ、次は絶対に食べないわ」
彼女は言葉を区切り、冷静に続けた。
「それに、感染したネズミは普通の生物とは違う。毒がどこまで効くかも不明だし、下手をすれば被害を広げるだけ」
ヴァシリーは短く息を吐いた。
「……じゃあ冷却魔法はどうだ? 俺がまとめて凍らせてやる」
ライザは一瞬考え込み、すぐにかぶりを振る。
「理屈の上では可能かもしれないけど、一匹一匹狙っていたら間に合わない。かといって、広範囲に使えば街全体を巻き込むことになるわ」
沈黙が落ちる。
刻々と時間だけが過ぎていく感覚が、場の空気を重くした。
「……音とか臭いで誘き寄せるのはどうだ?」
ヴァシリーが、思いついた案を絞り出すように口にする。
「まとめて集められれば、捕まえる手間は減る」
ライザは少しだけ眉を上げた。
「発想は悪くないわ。でも、何が効くかを試している時間がない。それに――」
彼女は言葉を切り、ヴァシリーを見る。
「ネズミ相手に、どんな音や臭いが効果的か……あなた、わかる?」
「ネズミに聞くしかないな」
ヴァシリーは皮肉っぽく笑い、肩をすくめた。
その言葉を受けて、ライザの表情がわずかに変わる。
まるで霧が晴れたかのように、彼女の瞳が静かに光った。
「……ネズミには聞けないけど」
彼女はゆっくりと言葉を選び、視線を横に移す。
「代わりに、別の誰かに聞くことはできるかもしれないわ」
「どういう意味だ?」
ヴァシリーが怪訝そうに尋ねる。
ライザは答えず、静かにネフィリスを見た。
その視線は、獲物を逃がさぬ捕食者のそれだった。
「おい……その顔、やめろ」
ネフィリスは全身の毛を逆立て、じりじりと後ずさる。
「嫌な予感しかしない」
だが、ライザの視線は外れない。
その笑みを見た瞬間、ネフィリスは悟った。
──これは間違いなく、ろくでもない展開になる。
「なあ、頼むからその顔やめてくれないか?」
ネフィリスは引きつった声で言う。
「それ、こっちの寿命を確実に縮めるやつだから」
しかし、ライザの微笑みは、むしろ一層深まるばかりだった。
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