3-2-13 小さな脅威
井戸の縁に立つと、下から立ち上る空気がわずかに冷たく感じられた。
湿り気を含んだ風が足元を撫で、石組みに染み込んだ古い水の匂いが鼻を突く。
ヴァシリーは無意識に耳を澄ませたが、聞こえるのは時折、縄が擦れる乾いた音だけだった。
ライザは黙ったまま井戸の闇を見下ろしている。
底の見えない黒が、こちらの視線を飲み込むようで、時間の感覚が曖昧になっていく。
──まだか。
ヴァシリーがそう口に出しかけた瞬間、井戸の奥から、引き上げの合図が返ってきた
井戸の中から無事に戻ってきたネフィリスは、体についた埃を心底不快そうに払い落とした。
ひげを震わせ、わずかに顔をしかめてから言う。
「井戸の中にはネズミの死骸が浮いていた。それ以外は、特に変わったものはなかったぞ」
ヴァシリーは肩をすくめ、軽く鼻で笑った。
「ネズミなんざ、どこにでもいるもんだ。井戸に一匹くらいいたからって、大したことじゃないだろ」
だが、その言葉を聞いたライザは、すぐに眉をひそめた。
表情は硬く、どこか嫌な予感を押し殺しているようにも見える。
「……ただのネズミじゃない可能性があるわ」
「どういうことだ?」
ヴァシリーが、さすがに軽口を引っ込めて不安げに尋ねる。
「もし、そのネズミが抗魔法ウィルスを保菌していたとしたら……」
ライザは声を落とし、慎重に言葉を選びながら続けた。
「それが媒介になって、ウィルスが街中に広がる危険があるの」
彼女は一度息を整え、さらに踏み込む。
「ネズミは繁殖が早い。もし魔法使いに効果のあるウィルスが広がれば、駆除が追いつかなくなるわ。
最悪の場合、感染は爆発的に拡大する」
「……そう言えば最近、街中でネズミを見ることが多い気がするな」
ネフィリスは耳をぴくりと動かし、井戸の方へ視線をやった。
「嫌な予感しかしない」
ライザは無言で試薬の瓶を取り出しながら言った。
「あのネズミの死骸を、検査する必要があるわ」
その言葉を聞いた瞬間、ネフィリスは反射的に井戸の方を見た。
さっきまでと同じはずの石組みが、なぜか違って見える。
湿った空気が、先ほどよりも重く感じられる。
尻尾の先が闇に消えていく光景を想像しただけで、胸の奥がざわついた。
「ちょっと待て」
ネフィリスは即座に口を挟み、露骨に嫌そうな顔をする。
「また僕に取りに行かせるつもりか?」
だが、ライザの視線は一切揺らがなかった。
「……分かったよ、行くよ」
ネフィリスは肩を落とし、諦めたようにため息をつく。
「全魔法使いの危機、ってやつだろ」
数分後。
ネフィリスは口にネズミの死骸をくわえたまま、井戸から這い上がってきた。
「まったく、僕も出世したもんだな」
死骸を放り出し、皮肉っぽく言う。
「これで王国の英雄にでもなれるかい?」
ライザは返事をせず、黙々と作業に取りかかった。
切り取ったネズミの一部を試薬に浸し、慎重に魔法を重ねて分析を進める。
試薬は最初、淡く青く輝いた。
だが次の瞬間、まるで毒が滲み出すように、禍々しい紫色へと変わった。
同時に、ぷつりと泡が弾け、細い煙が立ち上った。鼻を刺す刺激臭が広がり、ヴァシリーは思わず一歩退く。
喉の奥に残る苦味が、直感的に「触れてはいけないもの」だと告げていた。
「……間違いないわ」
ライザは冷ややかに告げ、ヴァシリーへと向き直る。
「抗魔法ウィルスよ。それも、かなり厄介なタイプ」
「厄介、というと?」
ヴァシリーは腕を組み、表情を引き締める。
「宿主であるネズミに対しても、駆除魔法が効かない」
ライザの声には、はっきりとした危機感が滲んでいた。
「これが広がったら、手がつけられなくなるわ。
最初は井戸水だけでも、ネズミを媒介にすれば一気に拡散する」
彼女は一歩踏み出し、言い切る。
「街の魔法使いは無力化され、敵の思うがままになる」
ネフィリスも、いつになく真剣な表情で口を開いた。
「早く手を打たないと、サーラたちにも危険が及ぶ」
「そのために、あんたにも協力してもらう必要があるわ」
ライザは冷たく、しかし確信に満ちた微笑みを浮かべる。
「……もちろん、協力を拒むつもりはないわよね?」
ネフィリスは苦笑し、軽く首を振った。
「仕方ないな。サーラが、こういう時に黙って見ているはずがないって分かってる」
一拍置いて、静かに続ける。
「だから僕も、最後まで付き合うよ」
それを聞いたヴァシリーは、ようやく少し肩の力を抜いた。
腰に手を当て、短く頷く。
「よし、話はまとまったな。急ごう。手遅れになるかもしれん」
「その通り。猶予はないわ」
ライザは決然と立ち上がった。
「ここからが正念場よ」
こうして、ライザ、ヴァシリー、そしてネフィリス──
異色の三人組は、抗魔法ウィルスという未知の脅威に立ち向かうため、次なる一手を探り始めるのだった。
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