3-2-12 諜報魔法
ライザは捕まえたネフィリスを腕の中で軽く抱え直し、その鋭い瞳を見下ろしながら、どこか確信めいた微笑を浮かべた。
「やっぱりね。あなた、普通の猫のふりしてたけど……私には通じないわよ」
ネフィリスはしっぽをぴんと立て、身体を強張らせる。逃げ出すほどではないが、明らかな警戒が滲んでいた。
「ニャ?」
わざとらしい鳴き声にも、ライザは眉一つ動かさない。
「こんにちは、魔法の“スパイ猫さん”」
ふっと息を漏らすように笑うと、ネフィリスは瞬きもせず、じっと彼女を睨み返した。
「……何のことだ?」
低く抑えた声が、確かに人の言葉として響いた瞬間──
ヴァシリーが一拍遅れて目を見開いた。
「……は?」
彼は思わず周囲を見回し、それからもう一度、ライザの腕の中の黒猫を見る。
口が、わずかに開いたまま固まっていた。
「おい……今、喋ったよな?」
確かめるような声だった。幻聴を疑う兵士のそれだ。
だが、ライザは肩をすくめただけで、まるで予定調和だと言わんばかりに表情を変えない。
「ええ。だから言ったでしょう。ただの猫じゃないって」
ヴァシリーは額を押さえ、深く息を吐いた。「喋る猫を見て驚くなって方が無理だろ」
ネフィリスは鬱陶しそうにひげを揺らし、視線を逸らす。
「……声を抑えろ。そんなに騒ぎたいなら、箱の中で一人でやれ」
声は低く、落ち着いている。だが、耳の先がわずかに揺れ、その内側の緊張までは隠しきれていなかった。
「人だかりに首を突っ込みたくなる癖、まだ治らないのね」
ライザは楽しげに言い、猫の背を軽く撫でる。「昔からそうだったでしょう?」
ネフィリスの喉が、かすかに鳴った。
「随分前の話よ。帝国が送り込んだ諜報魔法──それが、あんたの正体」
ライザは淡々と続ける。「任務のために放たれて、そのまま帰還せず。計画は打ち切り、失敗扱い……そんなところね」
「……!」
耳がぴくりと動く。それでもネフィリスは顔色を変えず、静かに言い返した。
「僕は今、ただの黒猫だ。それに……」
「それに?」
「帝国との繋がりは、とっくに消えている」
ネフィリスは短く言い切り、続けた。「サーラの両親が処置した。今の僕は、無害だ」
ライザはその言葉を鼻で笑い、腕の中の猫を軽く揺らした。
「ええ、でしょうね。サーラが連れ歩けるくらいだもの」
そして少しだけ目を細める。
「それにしても……まさかスパイ猫と、こんな場所で再会するなんて」
彼女は肩をすくめた。「人生って、本当に面白いわ」
横で黙って聞いていたヴァシリーが、腕を組んだまま首を傾げる。
「つまり、この猫は帝国の脱走兵ってことか?」
「そう。私たちと同類よ」
ライザは自嘲気味にうなずき、薄く笑った。「立場も、行き場もね」
そのまま、ネフィリスに視線を戻す。
「さて、無害なスパイ猫さん。ちょっと協力してもらうわよ」
「協力?」
ネフィリスの声に、明確な警戒が混じる。
「この病の原因、多分ね……抗魔法系のウィルスよ」
ライザは猫を軽く持ち上げながら言った。「魔法使いにだけ作用する。なら、ただの猫なら影響は少ないはず」
「……ずいぶん雑な理屈だな」
ネフィリスは耳を伏せ、不満げに唸る。
「でね」
ライザは楽しそうに続けた。「あの井戸の中を調べてきてほしいの。紐で吊るして下ろすだけ。すぐ戻すわ」
「おい、冗談だろ!」
ネフィリスは一気に暴れ出した。「井戸に下ろすなんて聞いてない!」
ライザは慣れた手つきで押さえ込み、表情一つ変えない。
「協力しないなら……サーラに、正体を教えようかしら?」
「──っ!」
一瞬だけ、ネフィリスの動きが止まった。
「脅しはよせ!」
必死に睨み返す。「サーラに知られたら、僕は……!」
「じゃあ、決まりね」
ライザは満足そうにうなずき、ヴァシリーを振り返った。「紐、用意できる?」
「はいはい」
ヴァシリーは肩をすくめ、近くの店から適当な紐を持ってくる。「本当に下ろす気か?」
「もちろん」
ライザはネフィリスを一度だけ撫でた。「原因がわかれば、助かる人がいるもの」
ネフィリスは短く息を吐き、観念したように力を抜いた。
だが、その瞳には、まだ諦めきれない光が宿っている。
「……後悔するなよ」
「大丈夫、任せて」
ライザは楽しげに笑い、手早く紐を結ぶ。「行ってらっしゃい」
「慎重にな」
ヴァシリーはそう言いながら、ゆっくりと紐を送り出す。
ネフィリスは最後まで抵抗するようにライザを睨みつけていたが、そのまま井戸の闇へと降ろされていった。
「闇の中から、真実を掘り出してきてね。スパイ猫さん」
井戸の縁で紐を操りながら、ヴァシリーは下から聞こえる不機嫌な声に苦笑する。
「とんでもない任務だな」
「ええ。でも、誰かがやらないと」
ライザは井戸の奥を覗き込み、意味ありげに微笑んだ。
その背後で、井戸の底へと消えゆくネフィリスが小さく呟く。
「……覚えてろよ」
ライザの笑みは、ほんのわずかに深まった。
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