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3-2-11 水飲み場攻撃

ライザとヴァシリーは、不調を訴える患者の家族から事情を聞くため、順に病室を回っていた。

高熱にうなされ、咳き込み続ける患者の傍らで、不安げに付き添う家族たち。その疲れた表情に向き合いながら話を重ねるうち、いくつかの共通点が浮かび上がってくる。


「……どうやら、みんな同じ井戸を使っているらしいな」


ヴァシリーは書きつけたメモを睨みながら低く呟いた。

貧民街の中央にある、古い共同井戸──何十年もその地区を支えてきた水源だ。


「水場を狙った可能性がある、ということ?」


ライザの声がわずかに硬くなる。


「広がり方の説明はつくわ。もし水が汚染されているなら、症状の増え方にも合点がいく」


「手を打つなら今だ。井戸が原因なら、明日にはさらに倍だぞ」


ヴァシリーは面倒そうに背を伸ばしたが、その目は完全に戦場のそれだった。


「行くか、例の井戸へ」


「ええ、今すぐ」


—-


二人は病院を後にし、貧民街へと急いだ。

問題の井戸は、古びた石組みの縁を持つ公共井戸で、周囲には日用品を扱う小さな店が軒を連ね、朝から人の出入りが絶えない。


生活の中心にある場所だ。


「ここで騒ぎになれば、混乱は避けられないわね」


ライザは小さく呟き、バッグから魔法試薬を取り出した。


「目立つなよ」


ヴァシリーが低く警告する。


「派手にやるつもりはないわ」


ライザは自然な所作で水を汲み、周囲に気取られぬよう、試薬を数滴垂らす。

その動きには無駄がない。かつて数えきれぬ調合をこなしてきた者の手つきだった。


次の瞬間、水面がゆらりと濁り、淡い黒煙のようなものが静かに立ち上る。同時に、鼻を突くような腐臭が広がった。

腐った肉と湿った鉄を混ぜ合わせたような匂いが喉の奥にまとわりつき、思わず吐き気が込み上げる。


それは単なる汚水の悪臭ではなく、魔力そのものが腐敗したかのような、説明のつかない不快さだった。


「……こんな反応、見たことがない」


ライザの声が沈む。


成分の崩れではない。

何かが、外側から“歪めている”ような──そんな感触。


「触らない方がいいわ。魔力に反応している可能性がある」


ヴァシリーは口元を抑えながら一歩退き、井戸を見下ろした。


「どうする。放っておけば、いずれ死人が出る」


ライザは短く思案し、決断する。


「病院の名で閉鎖する。検査中ということにしましょう」


「勝手に名乗るのか?」


「臨時職員よ。完全な嘘でもないわ」


わずかに口元を上げるその様子に、ヴァシリーは肩をすくめた。


「昔を思い出すな。成りすましはあんたの十八番だった」


「お互い様でしょう?」


軽口を交わしながらも、動きは迅速だった。

ロープを張り、立ち入り禁止の札を掲げる。


やがて周囲の商人や通行人がざわめき始めた。


「井戸が使えないって本当か?」


「何があったんだ?」


人々の視線が一斉に井戸へと集まり、その中心に立つ二人を値踏みするように揺れた。好奇心と不安と、ほんのわずかな敵意が混ざっている。


ライザは群衆をなだめながらも、鋭い目で周囲を観察していた。


そのとき──


視界の端に、小さな黒い影がよぎる。


「……あれは?」


人混みの奥、路地へと滑り込む影。


「ヴァシリー、少し任せるわ」


言い残し、ライザは群衆の間を縫うように進む。

足音を消し、気配を殺す。その動きは、かつて帝国のスパイとして情報を盗み、闇に紛れていた頃のものだった。


黒い影は細い路地を抜け、壁際を走る。

だが逃げ道は読めている。


数歩で距離を詰め、素早く手を伸ばした。


「捕まえたわよ」


腕の中でじたばたと暴れるのは、一匹の黒猫。


ライザがしっかりと抱え込むと、観念したのか、艶やかな毛並みの身体がぴたりと強張る。爪は引っ込められたまま、逃げる機会を測るように四肢に力を溜めている。


「……あなた、まさか」


その猫は、サーラの飼い猫──ネフィリスだった。


「どうしてこんなところにいるの?」


ライザは猫の瞳を覗き込みながら問いかけた。金色の瞳は細く絞られ、まるで値踏みするかのように彼女を見返す。だが、もちろん返事はない。ただ、沈黙だけが静かに返ってくる。


ネフィリスの視線が一瞬、路地の奥へと滑った。逃走経路を確認するような、計算めいた動きだったが、すぐに何事もなかったかのように視線は戻る。


「ライザ、何を捕まえた?」


少し遅れて駆けつけたヴァシリーが、猫を抱えた彼女を見て眉を上げた。


「まさか、井戸の元凶がその猫ってわけじゃないだろうな?」


「それはないわ」


ライザは首を振るが、視線は猫から離さない。


「でも……良いことを思いついた」


「猫でか?」


ヴァシリーは半信半疑で目を細めた。「あんた、本当に変わってるな」


「この猫、ただの猫じゃないのよ」


その言葉に、ネフィリスの耳がわずかに動いた。ほんの一瞬、獣とは違う理知の光が瞬いた気がしたが、すぐに無関心を装うように顔を背ける。


「とにかく、少し一緒にいてもらうわ」


「まったく、妙なことになってきたな」


ヴァシリーは頭を掻きながらため息をつく。


「俺たちの仕事は、病人の介護のはずだったんだがな」


「でも、面白くなってきたでしょ?」


ライザが冗談めかして言うと、ヴァシリーは渋い顔で肩をすくめた。


「あんたには敵わないな」


ライザは腕の中のネフィリスを見つめたまま、意味ありげに微笑む。


「さて、あなたはここで何をしていたのかしら?」


ネフィリスは低く短い唸り声を漏らした。

その瞳は鋭い。だがそこにあるのは敵意というより、明確な警戒と苛立ちだった。まるで「余計なことをするな」とでも言いたげに。


「ふん、可愛げのない奴だ」


ヴァシリーが呆れたように言うと、ネフィリスは一瞬だけ彼を見た。

その視線は冷ややかで、ほんのわずかに品定めするような色を帯びている。しかしすぐに興味を失ったように視線を外した。


「仲良くしましょうよ」


ライザは意味深に呟き、黒猫との距離を詰める。


ネフィリスは目を細める。挑むでもなく、従うでもなく、ただ慎重に様子を窺っていた。


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