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3-2-10 忍び寄る影

闇の女王が世界中の魔法使いの根絶を宣言してから、しばらくのあいだ、目に見える大きな動きは起こらなかった。

嵐の前触れのような不気味さを残しながらも、王都には拍子抜けするほど静かな日々が続く。


当初、人々は不安に押し潰されそうになっていたが、北のグリムロス帝国が闇の女王の眷属との戦争に没頭しているという報せが広まるにつれ、街には次第に安堵の空気が戻っていった。

帝国の矛先がこちらへ向かないというだけで、これほどまでに心は軽くなるのかと、誰もが内心で息をついた。


貿易も、軍需利用を禁じた新たな取り決めのもとで再開され、市場には再び色とりどりの布や香辛料が並ぶ。

王国はゆっくりと、しかし確かに、以前の生活を取り戻しつつあるかに見えた。


だがその穏やかさの裏で、目に見えぬ綻びが、静かに広がり始めていた。


—-


かつて帝国のスパイだったライザ・クレーヴは、教団施設に併設された病院で医療に従事している。

孤児や貧困者が絶えず運び込まれるその場所は常に慌ただしく、決して楽な環境ではなかったが、彼女の胸を締めつけていた張り詰めた緊張は、いまはもうない。


罪を償うように、ではなく、誰かを守るために手を動かす。

その事実が、彼女に静かな使命感を与えていた。


──だが、ここ最近、どうにも胸騒ぎが消えない。


「ライザ、ちょっといいか?」


休憩室の扉を押し開けて入ってきたのは、介護士のヴァシリーだった。

白髪混じりの短い髪と、いまだ衰えぬ筋骨隆々の体躯。帝国軍の古参兵である彼は、細やかな医療の仕事に向いているとは言い難いが、不思議と子どもたちには慕われていた。


「どうしたの?」


ライザが顔を上げると、ヴァシリーは頭を掻き、低く息を吐いた。


「最近な、体調が悪いって言う患者が増えてきてる。最初は季節の風邪かと思ったが……様子が違う」


「様子が違う?」


「ああ。薬も魔法も効きが鈍い。治ったように見えても、すぐぶり返す。今日も一人、朝からずっと咳き込んでる子がいてな……あんな小さな体じゃ、長くはもたん」


ライザの眉がわずかに寄る。


「魔法が効かないなんて……どれくらい?」


「正確には数えてないが、十人は超えてる。しかも日に日に増えてる。俺一人じゃ手が回らん」


沈黙が落ちる。


「……ただの風邪じゃないわね」


「だろうな」


ヴァシリーは椅子に腰を落とし、渋い顔で続ける。


「こういう時は、大抵ろくでもないものが潜んでる」


彼は戦場で、目に見えない罠や気配を嗅ぎ分けて生き延びてきた。その勘が、いま同じように警鐘を鳴らしている。


ライザはゆっくりと考えを巡らせた。


彼女はかつて、表に出ない研究記録や禁書の断片に触れてきた身だ。だがその記憶を辿っても、いま目の前で起きている現象に合致する記述は思い当たらない。


「医療魔法で改善しないとなると、通常の病ではない可能性が高いわ。帝国にいた頃、魔法に干渉する病の研究を少しだけ聞いたことがあるけれど……少なくとも、これに似た例は知らない」


「魔法に干渉、か」


ヴァシリーは冷めきった茶を一口すする。


「俺たち二人で抱えられる話か?」


その問いには、弱さよりも現実を見据える重さがあった。


「やらなきゃいけないわ」


ライザは静かに立ち上がる。


「誰も気づかないまま広がれば、取り返しがつかなくなる」


ヴァシリーは苦笑する。


「昔ならともかく、今の俺たちは派手には動けん身だ。あんたも医者じゃない。無茶はするな」


「分かってる。でも、放っておけないの」


短い沈黙のあと、ヴァシリーは肩を回した。


「……しょうがない。体も鈍ってきたところだ。付き合ってやる」


「ありがとう」


ライザはわずかに微笑む。


「まずは症状の出ている者を洗い出して、共通点を探しましょう。住んでいる場所、食事、水源……何かあるはず」


「急げよ」


「ああ、急がなきゃ」


—-


二人が見たのは、単なる風邪と片づけるには重すぎる症状の数々だった。

高熱、息苦しさ、強い倦怠感。


だが何より異様なのは、魔法による治療がほとんど効力を示さないことだった。

癒やしの光が身体を包んでも、病は退かず、むしろ施術の直後に容体が揺らぐ例すらある。


「やっぱり普通じゃない」


ヴァシリーが低く呟く。


「魔法が通らん。まるで拒まれてるみたいだ」


ライザは患者の額に手を当てながら、静かに言った。


「……魔法そのものが、何かに抑え込まれているのかもしれない。

もしかしたら、魔法を使うこと自体が症状を悪化させている可能性もある」


その言葉に、ヴァシリーの顔色が変わる。


「それが、闇の女王の仕業だって言うのか?」


「断定はできない。でも、あの宣言のあとで起きている以上、無関係とは思えないわ」


病室の奥から、咳き込む声が響く。


平穏に見えた王都の裏側で、確実に何かが蝕み始めている。


「泣き言を言っても仕方ないな」


ヴァシリーは腕を組み、覚悟を決めたように言う。


「俺たちにできることをやる。それだけだ」


「ええ」


ライザも深くうなずいた。


魔法が通じない敵。

姿の見えない異変。


それでも、立ち止まるわけにはいかない。


王都の静けさの下で、二人は見えない脅威へと足を踏み出した。


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