3-1-4 闇の覚醒
アーゼラが教団の建物で目を覚ますと、柔らかな布に包まれていた。
薄い木漏れ日が窓から差し込み、埃が静かに舞っている。
そこには、優しげな表情を浮かべた司祭が立っていた。
「目が覚めたかい?ここならもう安心だよ」
穏やかな声だった。
その声音だけで、張りつめていた何かがほどけそうになる。
司祭は微笑みながら、清潔な衣服と温かい食事を差し出した。
「君は疲れているだろう。ゆっくり休むといい。何も心配はいらない」
何も心配はいらない──
その言葉は、これまでの過酷な日々が嘘だったかのように、アーゼラの胸に染み渡った。
逃げ場を失い、裏切られ、売られ、追われた彼女にとって、その優しさは一筋の光だった。
食事を済ませ、着替えを終えた後。
アーゼラは司祭の前で、ぽつりぽつりと語り始める。
「私は……信じていた人に裏切られて、奴隷商人に売られて……どうしても逃げたくて……」
言葉にするたび、胸の奥に押し込めていた記憶がこぼれ落ちる。
声が震え、視界が滲む。
司祭は穏やかにうなずき、彼女の手を優しく包んだ。
「それはつらかっただろう。だが、もう大丈夫だ。ここで君は新しい自分を見つけることができる」
温かな掌。
包み込む声。
その瞬間だけは、本当に救われたように感じた。
司祭はさらに、静かに続ける。
「君がもっと強くなるために、我々は少し儀式を行う必要がある。君の魂を浄化し、魔法を使いこなせるようにするためだ」
魔法──
その言葉に、胸の奥がわずかにざわめく。
だがアーゼラは、司祭の柔らかな微笑を信じることにした。
もう疑うことに、疲れていた。
儀式の夜。
薄暗い礼拝堂。
床には古い魔法陣が描かれ、その中心へと導かれる。
「少し怖いかもしれないが、安心して。これはすべて君のためだ」
またその言葉。
──お前のためだ。
一瞬、胸が軋んだ。
だが、抵抗する力は残っていなかった。
全裸で横たわるよう促される。
冷たい石床が背に触れる。
司祭は神聖な呪文を唱えながら、祈るような手つきで彼女の体に触れた。
だがその指先は、次第に祈りから逸れていく。
「大丈夫だ……これは儀式の一環だ。君が魔法を身につけるために必要なことなのだ」
不快感。
混乱。
けれど、抗う気力が湧かない。
痛みではない。
屈辱でもない。
そう思えば、そうなるはずだと。
これは選ばれた証なのだ。
そう信じようとした瞬間、胸の奥で何かが、静かに音を立てて崩れた。
自分で選んだのだと、思い込もうとする自分が、いちばん嫌だった。
それでも彼女は、抵抗しなかった。
抵抗できなかったのではない。
意味を与えたかったのだ。
この時間に。
この身体に。
この世界に。
そうしなければ、ただ奪われただけになってしまうから。
考えることをやめれば、楽になれる。
そう思いかけた、その時だった。
頭の奥に、声が響いた。
『──お前は操られている』
冷たく、嘲るような声。
アーゼラは目を見開き、周囲を見回す。
だが礼拝堂には司祭しかいない。
「……誰?誰なの?」
『我はこの教団に封じられし魔法のデバイスだ。お前に伝えたいことがある』
声は静かに、しかし明確に響く。
『お前は苦しめられてきた。信じた者に裏切られ、この世の腐敗を見てきたのだろう?』
ジスの顔。
金を受け取り消えた背中。
檻の中の少女。
追手の鞭音。
記憶が、鮮明に蘇る。
『それを正すためには……力が必要だ』
幻聴だ、と否定しようとする。
だが声はあまりにも理にかなっていた。
『この世界は歪んでいる。魔法を持つ者は好き勝手に振る舞い、持たざる者を虐げる。お前はそれを目の当たりにしたはずだ』
司祭の指先が肌をなぞる。
優しさの仮面。
“君のため”。
“浄化”。
すべてが同じ響きを持っていた。
胸の奥に、黒い感情が広がる。
腐っている。
この世界は、腐っている。
『どうする?お前はこのまま無力な人間でいるつもりか?』
「……いや……そんなの、いや……」
かすれた声が漏れる。
もう奪われるのは、嫌だ。
『ならば決めろ。
魔法を根絶やしにするのだ。
この世界を正すためにな』
魔法があるから、選ばれる者と捨てられる者が生まれる。
力があるから、奪う者が現れる。
ならば──。
『力が欲しいか?』
最後の問い。
アーゼラは目を閉じる。
恐怖も、羞恥も、後悔も。
すべてが静まり返る。
そして、震える声で答えた。
「……欲しい」
その瞬間。
胸の奥で何かが、音を立てて組み替わった。
痛みの上に、決意が積み重なる。
涙の跡に、冷たい確信が宿る。
もはや彼女は、救われることを望まない。
奪う側になることを選んだのだ。
薄闇の礼拝堂で──
アーゼラは、静かに目を開いた。
その瞳には、もはや迷いはなかった。
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