3-2-5 二分木探索
冷たい空気が湖面を覆い、ルナの張ったバリアがなければ、凍てつく寒さに誰もが身を震わせていただろう。
テントの中で、エヴァは《天秤の鎖》の束を両手に抱え、じっと氷の穴を見つめている。氷の下に何かが潜んでいるのは確かだが、ただ水中に鎖を垂らすだけでは、狙った魔力反応を捉えきれない。広すぎる水の底は、感覚を容易く拡散させてしまう。
「無造作に垂らすだけじゃダメね。帝国領に潜った時は音が手がかりだったから、適当に伸ばしても平気だったけど──」
その瞬間、彼女の脳裏には、別の記憶がよぎっていた。
石造りの回廊。
閉ざされた扉の向こうから、低く抑えた声が断続的に響いていた。
鎖の先に触れた振動は、硬いものを打つ乾いた音、椅子が引きずられる軋み、乱れた呼吸。
同じ問いが繰り返される。
短い否定。
間。
息を呑む気配。
やがて、かすれた声が何かを告げる。
その一つひとつが、冷たい金属を伝って、はっきりと届いた。
エヴァは一瞬だけ目を伏せる。
小さく息を吐き、その記憶を意識の奥へ押しやった。
「今回は誰かの秘密を暴くためじゃない。
魔力反応を一点で探さなきゃいけない。鎖のどこに反応があるのか、この長さじゃ識別できないわ……」
顔をしかめ、わずかに苛立ちを滲ませる。
反応は拾えても、“位置”がわからなければ意味がない。
「それは厄介ね。一つの流れで全体を探るには、範囲が広すぎるわ」
レイラは鎖の束を見つめながら思案し、やがてサーラへ連絡を取る決断をする。
「サーラ、こちらレイラ。今、エヴァの鎖で水中の魔力反応を探しているんだけど、範囲が広すぎて特定できないの。効率よく絞り込む方法、何かない?」
エーテルサインを通じて声が届く。
『うーん……』
通話越しに小さく息をつく気配があり、その後、思考が整っていくような沈黙が流れた。
『まず鎖を二股に分けてみて。さらにその先も一定間隔で二股に分ければ、網じゃなくて“根”みたいに広がるでしょ。どこかで反応が強まったら、その枝をさらに追えばいい。強い方向へ辿っていけば、最短で源に近づけるはず』
無駄のない説明だった。
「なるほど……分岐して絞るのね。論理魔法の発想?」
『探索木っていうのよ。可能性を半分ずつ削るの。全部を一度に探そうとしないこと』
レイラは小さく笑みを浮かべ、提案をエヴァに伝える。
「分岐して広げるか……。植物みたいに根を張って、当たりを引いた枝だけを辿るのね」
エヴァは鎖を丁寧に解き、氷の穴へと慎重に送り出していく。一本を二股に、さらにその先も二股へと分けながら、均等に広げていく動きは迷いがない。時間はかかるが、闇雲に探るよりははるかに効率的だ。鎖は水中で静かに枝分かれし、見えない底へと規則正しく伸びていく。
やがて全体が展開し終わると、エヴァはゆっくりと息を吐いた。
「これで準備は整ったわ。あとは、どこが強く反応するかを見るだけ」
鎖の一本一本に意識を分配しながら、微細な変化を待つ。
冷たい水の底で、わずかな魔力の揺らぎがあれば、それは枝のどこかに現れるはずだ。
湖は静まり返っている。
だが、鎖の先端では、いつ何が触れてもおかしくない。
「うまくいきそう?」
レイラの問いに、エヴァは視線を外さぬまま答える。
「……拾えてる」
小さく呟く。
湖底の岩に残った微かな魔力の痕跡。
凍りついた水草に宿る、ほんのわずかな残留光。
生き物ではない、ごく小さな反応が、枝の一つに触れては消えていく。
「すごいわね、本当に位置がわかるの?」
レイラが覗き込むと、エヴァは頷く。
「ええ。今のは左枝を十一段辿った先。小さな残滓だけど、ちゃんと区別できる」
一本の鎖で探っていたときには、ただ“ある”としか感じられなかった揺らぎが、今はどの枝に触れたのかまで明確だ。
反応は弱く、目的のものではないが、仕組みは確実に機能している。
「これなら、本命が来ても見逃さない」
鎖の張力が、頼もしく感じられた。
「あとは我慢比べね。じっと待つのは得意じゃないけど、今から釣り人になった気持ちでやるわ」
エヴァは鎖を操る手を固定し、意識だけを水中へ漂わせる。
待つ、という行為は退屈とは少し違う。
何も起きていない時間に、起きるかもしれない一瞬を重ね続ける感覚だ。
釣り人が水面を見つめるとき、魚影を見ているわけではない。
浮きが沈む“かもしれない”未来を、ずっと想像している。
今のエヴァも同じだった。
鎖のどこかが、ふっと重くなるかもしれない。
枝の一本が、わずかに引かれるかもしれない。
その瞬間を逃さないために、感覚を緩めず、しかし力みすぎずに保つ。
強く意識すれば雑音まで拾ってしまう。
気を抜けば、本命を逃す。
だから彼女は、半歩だけ集中を浮かせる。
湖と同じ呼吸で、静かに構える。
「準備は整った。いつでも来なさい」
誰にともなく呟く声は、落ち着いていた。
待つ時間さえ、今は悪くない。
この鎖が、いずれ正しい場所へ導いてくれると、信じられるのだから。
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