3-1-25 女王の祝宴
冷え切った城の奥、灯火ひとつない玉座の間に、ゆるやかな愉悦が満ちていた。
石造りの高い天井から垂れ下がる氷柱は永遠の時間を閉じ込めたかのように鈍く光り、床を覆う黒曜石は足音さえも吸い込んで、広間を完全な孤絶へと沈めている。
その静寂の中心に、ただ一人、闇の女王は腰を下ろしていた。
細く白い指が、漆黒の杯を持ち上げる。杯の内側では紫紺の液体がゆるやかに揺れ、まるで深淵そのものを掬い上げたかのように、かすかな燐光を放っていた。
彼女はそれを眺めながら、長い封印の歳月を思い返す。
忌まわしき十二の魔法デバイス。
かつて世界の理を捻じ曲げるために振るった力は、あの十二の器具によって断ち切られ、砕かれ、閉ざされた。
魔力を絡め取られた瞬間の虚脱、暗黒の底へと沈みゆく意識、永遠にも等しい孤独──そのすべては、今なお記憶の奥で鈍く疼いている。
しかし同時に、あの絶望は彼女の存在を完全に消し去るには至らなかったという事実が、なによりも甘美だった。
世界は全力で封じたつもりでいたのだろう。
彼らは“完全なる終わり”に賭け、彼女は“必ず戻る未来”に賭けた。
彼女は静かに杯を掲げ、凍りついた空気へと告げた。
「──世界よ、私の勝ちだ」
女王は静かに微笑む。
そして、ゆるやかに杯を傾けた。
深淵の色をした液体が喉を滑り落ち、冷え切った城の中心で、勝利の乾杯が無言のうちに果たされる。
そのとき、静寂を裂くように鋭い通知音が鳴り響いた。
愉悦の余韻を踏みにじる無粋な響きに、女王の瞳がわずかに細められる。彼女は露骨な苛立ちを見せることなく、しかし明らかな倦怠を滲ませながら、空間へと指先を滑らせた。
玉座の前方に魔法陣が幾重にも展開し、薄い光膜が層を成して広がる。遠隔視の魔法スクリーンが、夜の水面のように揺らめきながら像を結んだ。
映し出されたのは帝国領。鋼鉄の機兵が列をなし、魔導砲が黒き奔流へと火を吐いている。
抗戦の構えは整っており、戦術も決して拙劣ではない。だが、それはあくまで“想定内”に過ぎなかった。
「この程度で、私を煩わせる必要はないでしょう」
独り言は低く、氷よりも冷たい。
帝国が抵抗を試みることなど、初めから計算に織り込まれている。抗う姿は、むしろ幼い獣が牙を剥く様に似て、どこか愛嬌さえ感じられた。
彼女は視界を拡張する。スクリーンは枝分かれするように増殖し、各地の光景を同時に映し出す。山岳国家の城砦、海洋都市の防壁、森に抱かれた国の尖塔──それぞれが、同時に侵食を受けていた。
「他愛もない」
そう呟いた瞬間、ひとつの画面が激しく明滅する。
砂漠の国であった。黄金の都を中心に、幾多の戦場を渡り歩いた傭兵団が駐留する誇り高き土地。その強靭な戦士たちは剣と魔法を磨き上げ、外敵を退ける術を自負していた。
しかし空が裂け、あり得ぬ規模の水塊が降り注ぐとき、技量も勇名も意味を失う。
乾ききった大地に叩きつけられた濁流は、城壁を越え、塔を呑み込み、陣形を組む間もなく兵を押し流した。砂と水と血が混ざり合い、黄金の都はわずかな時間で沈黙へと沈む。
女王は杯を傾けながら、その光景を一瞥する。
数秒。
それだけで、ひとつの国が歴史から削除された。
眠りについていた長い歳月のあいだに、人類は何を得たのかと彼女は思う。
封印に追い込んだ先達たちは確かに強かった。憎悪とともに、否応なく認めざるを得ないだけの光があった。
だが、今この時代に生きる者たちはどうだ。抗う術はあっても決定打はなく、誇りはあっても覚悟が足りない。
「この程度で魔法使いを名乗るなど、片腹痛い」
微笑がゆるやかに形をとる。その笑みは美しく、そして残酷だった。
やはり、世界は一度白紙に戻すべきなのだろう。曖昧な力と半端な知識が氾濫する現状は、彼女にとって耐え難い歪みでしかない。
真に魔法を理解し、自在に操る存在は、この世にただ一人いれば足りる。
玉座から立ち上がった彼女の影が、広間を静かに侵食していく。
「魔法使いは、私だけでいい」
スクリーンの向こうで、またひとつ都市が崩れ落ちる。悲鳴も祈りも、凍りついた城には届かない。
杯の底に残った闇が、最後の光を飲み込んだとき、女王はゆるやかに目を細めた。
祝宴は、まだ終わらない。世界が完全に沈黙するその瞬間まで、彼女の愉悦は尽きることがないのだから。
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