3-1-2 理想郷の表裏
目が覚めてから数日後、アーゼラは自らの足で外へ出ることを決意した。
未知の世界であろうと、何も知らぬままでは生き残れない。情報を得なければならない。
その焦燥が、彼女の背を押した。
ぼろ布のような粗末な衣をまといながらも、足取りは意外なほど確かだった。
街の門を抜けた、その瞬間。
彼女は息を呑む。
眼前に広がる街は、まるで魔法の理想郷だった。
通りを歩いていたはずの人々が、次の瞬間には壁を歩き、天井を抜け、そのまま別の広場へと現れる。誰一人としてそれを不思議とも思わない。
店先の品物はひとりでに並び替わり、ときおり宙に弧を描いて別の客の手元へと滑り込む。
それは戯れのようにも見えるが、魔法を解さぬ者には、その背後で完璧に組み上げられた売買の理を知る術はない。
街角の時計塔は一定の刻みを刻んでいるようでいて、商談がまとまる瞬間だけ針がわずかに遅れ、別れの場面ではほんの刹那だけ止まる。
誰も気づかぬほどの揺らぎだが、この街では時間さえ調律されている。
アーゼラの知る常識では、これほど高度な魔法を日常的に扱うことなど不可能だ。
彼女の世界で数世代前に失われた「レガシー魔法」が、ここでは誰もが当然のように使われている。
「こんなことが……」
呟いた声は、驚きよりも戸惑いを帯びていた。
かつて誇った自らの知識が、この世界では無力だと悟る。
魔法技術の差はあまりにも大きい。自分の知る術は、まるで子どもの遊びのように感じられた。
だが、その驚きはすぐに別の感情へと塗り替えられる。
市場を歩いていた彼女の耳に、怒号と鞭の音が響いた。
「さっさと働け、この無能が!」
広場の片隅。
何人もの人々が、奴隷のように酷使されていた。手首には魔法具の枷。淡く光る拘束具が、彼らの自由を奪っている。
誰も助けない。
周囲の人々は視線すら向けず、それぞれの日常を続けている。
「どうして……?」
震える視線で見つめる。
奴隷たちは叫んでも、魔法を使えない。魔力を持たぬ者は、この世界では無力。
否、存在そのものが軽んじられている。
胸の奥に、冷たいものが広がる。
彼女自身もまた、この世界ではまともな魔法を使えない。
つまり──自分も「無力な側」なのだ。
その事実を理解した瞬間、足がすくんだ。
「……戻らなきゃ」
逃げるように街を後にする。
かつて女王だった自分。その威厳が、音もなく崩れ落ちていく感覚があった。
—-
夕暮れ。
アーゼラはジスの家へ戻った。
沈んだ表情のまま扉を開け、音を立てぬよう足を踏み入れる。
「おい。どこに行ってた?」
背後から低い声が飛ぶ。
振り返ると、ジスが険しい顔で立っていた。
「……街へ。少し、様子を見ようと思って」
正直に答えた瞬間、彼の表情が変わる。
「お前、正気か?」
怒りを露わにして詰め寄る。鋭い視線が、逃げ場を与えない。
「そんな無茶するなって言っただろ。何かあったらどうするんだ?」
「でも……何もしないままでは、私は……」
言いかけた言葉を、彼は乱暴に遮った。
「お前にできることなんか、何もないんだよ」
その一言が、鋭く突き刺さる。
声には苛立ちだけでなく、見下すような響きが混じっていた。
「この世界じゃ、魔法が使えない奴はゴミ同然だ。お前も分かってるだろ?街に出たって、誰も助けちゃくれない。
それどころか、ろくでもない連中に目を付けられるだけだ」
反論しようとした。だが、言葉が出ない。
彼の言葉は残酷なほど現実を突いていた。
これがこの世界の正しさなのだ。
「だから、俺が守ってやってるんだよ!」
ジスは深く息を吐き、何かを決めたように手を掲げる。
「これ以上、勝手なことはさせない。
──大人しく家にいろ」
次の瞬間。
彼の掌から放たれた魔法の光が、部屋を包み込んだ。
足元が重くなる。見えない鎖に絡め取られたかのように、身体が動かない。アーゼラはその場に崩れ落ちた。
「……何をするの?」
震える声。
ジスは冷たい目で見下ろす。
「お前のためだ」
優しさの欠片もない声音だった。
立ち上がろうとする。だが魔法が許さない。
まるで鳥籠に閉じ込められた小鳥のように、彼女は無力のまま軟禁された。
──お前のため。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
自由は奪われた。
自ら何かを成すことも、選ぶことも許されない。
何もできない自分。
無力な存在として扱われる現実。
ベッドの端に腰を下ろし、薄暗い部屋を見つめる。心の奥底に、何かが静かに植え付けられていく。
怒りでもない。絶望でもない。
それは、もっと冷たい何か。
音を立てて崩れ落ちる内側の何かを感じながら、アーゼラは暗闇の中でゆっくりと目を閉じた。
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