3-1-1 見知らぬ鏡像
第三部は闇の女王の過去から始まります。
第一部、第二部を未読の方はそちらを先にどうぞ。
柔らかな光が瞼を照らし、アーゼラはぼんやりと目を開けた。
目の前に広がるのは、木材の温もりを感じる簡素な天井。外からは鳥のさえずりが聞こえ、窓からは穏やかな風が静かに吹き込んでくる。
全身が鉛のように重く、呼吸さえも苦しい。それでも、どこか夢の中にいるような浮遊感が、彼女の意識をやわらかく包み込んでいた。
「やっと起きたか。死んだのかと思ったぞ」
不意に耳元で、投げやりな声が響く。
ゆっくりと視線を向けると、窓際に寄りかかる若い男の姿があった。
年齢は十八歳ほどだろうか。無造作に短く切られた黒髪。鋭く光る灰色の瞳。
何より、その態度は妙にぞんざいで、怪我人に向ける労りのかけらも感じない。
「……誰……ここはどこ?」
かすれた声で問いかけると、男は肩をすくめた。
「俺はジス。ここは村の外れの小屋だ。お前、森でぶっ倒れてたんだよ」
その言葉に、アーゼラの胸の奥が不意にざわめく。
記憶を辿ろうとするが、断片的な映像が浮かんでは霧のように消えていく。倒れていた理由も、どうしてここに来たのかも分からない。
ただ確かに、自分は異世界に迷い込んだ──そんな感覚だけが、頭の奥で渦を巻いていた。
「助けてくれたのか?」
「そうだよ。こんな面倒事、二度とごめんだ」
ジスは鼻を鳴らし、壁に背を預けたまま続ける。
「まあ……お前が若い娘じゃなかったら、放っておいたけどな」
冗談のつもりなのかもしれないが、その物言いにはどこか小馬鹿にするような響きがあり、アーゼラは感謝よりも先に不快感を覚えた。
対等どころか、年下にこれほど無礼な態度を取られることなど、かつての自分にはあり得なかった。
「……私が誰か分かって言っているのか?」
威厳を保とうとするが、身体の痛みと疲労に声は震え、説得力を欠いている。
ジスはそれを見透かしたように鼻を鳴らし、にやりと笑った。
「お前、どこかの女王様か何かだったか?残念ながら、今のお前は森で倒れてた“か弱いお姫様”だ」
軽口に、アーゼラは眉を顰める。
自分は確かに王位を持つ者──女王だったはずだ。
だが、その言葉を口にするのが怖かった。
何が起きたのかも、なぜこの状況なのかも分からないまま、心の奥底で不安だけが膨らんでいく。
それから数日が過ぎた──
ジスの手厚い介抱と、何よりも不可解な魔法によって、アーゼラはようやく起き上がれるほどに回復した。
「やっぱり若い体は回復も早いな」
悪びれもせず笑うジス。その言葉の端々に、どこか奇妙な違和感が混じっている。
ふと、部屋の隅に置かれていた鏡に目が留まった。
埃をかぶった縁を指でなぞり、静かに自分の顔を映し出す。
だが──そこに映った姿は、彼女の知る自分ではなかった。
「……これ、何……?」
鏡の中にいたのは、十五歳ほどの少女。
肩まで伸びる柔らかな金色の髪。透き通る青い瞳。
しかし、女王としての威厳を宿したはずの姿とは、あまりにも違っている。
記憶の中の自分――成人した女王の姿を思い描く。
だが、そのイメージと鏡像の乖離に、思考が追いつかない。
「どうした?鏡が割れそうな顔してるな」
不意の声にも、アーゼラは答えられなかった。
鏡の中の少女は、確かに若い体そのものだった。頬には血色が戻り、まるで何事もなかったかのように健康的に見える。
「これは……本当に私なのか……?」
声が震え、無意識に鏡を落としかける。
ジスが軽く舌打ちし、彼女の手から鏡を取り上げた。
「そんな大袈裟なこと言うなよ。起き上がれるようになったんだ。もう十分だろ」
飄々とした態度は崩れない。
その無神経さに苛立ちが滲む。だがそれ以上に、アーゼラの心を乱していたのは──自分が何者なのか分からなくなっていく感覚だった。
朧げながら、女王としての記憶は確かにある。
それでも、この若者にとっての自分は、ただ森で倒れていた少女に過ぎない。
「私は……誰なの……?」
問いが、ひとりでにこぼれ落ちる。
ジスは一瞬眉を上げ、やがて肩をすくめた。
「そんなの、俺が知るわけないだろ。けどな、今のお前はここで生き延びた一人の小娘だ。それで十分だろ」
冷めた声だった。
反論したい。だが、それができない自分が悔しい。
鏡の中の少女は、まるで新しい現実を突きつけるように、静かに、冷たく輝いていた。
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