第二十二話 小さくなった人魚
朝目覚めると、俺は、いつの間にかベッドの上にいた。
長い長い夢を見ていた気がする。見ていた気はするが、妙にリアルで、そして、全然寝た気がしない。
大きな欠伸をしながら、麦茶を飲みに行こうと自室の扉を開いた時、隣の部屋の扉も同時に開いた。
「あ、翔。おはよ」
「ん、おはよ」
既に十一時を回っているのに、同じく、翔も起きたばかりのようだ。寝ぐせがすごい。
「兄ちゃん、昨日いつ帰って来たん?」
「昨日? 二十時くらいじゃなかった? あんま覚えとらんけど……晩ご飯も食べて帰ったじゃろ?」
尾道から帰ってきたのも、遠い昔のようだ。記憶が曖昧になっている。
しかし、それに対し、翔は首を横に振る。
「そうじゃなくて、はっさく大福持ってったじゃろ? 会えた?」
「はっさく大福……」
結局、俺の分の大福は、魔女に食べられてしまった。けれど、あれは、俺の夢。夢……だよね?
「まぁ、夜遅かったけんね。普通はおらんよね」
それだけ言って、そのまま下におりようとする翔を呼び止める。
「あのさ、翔」
「ん?」
「その時ってさ……俺、下に服……取りに行っとった?」
変な汗が背中を伝う。一階から響く掃除機の音が、妙に近くに感じる。不気味な間が数十秒にも、数分にも感じられ、耐えられなくなった頃、訝しげに首を傾げる翔の口が小さく開いた。
「行きよったけど、なに?」
「…………ガチ?」
乾いた笑みが漏れる。
唖然と立ち尽くす俺を怪訝な顔で見る翔は、フィッと視線を逸らして、階段を下りて行ったーー。
残された俺は、廊下の突き当たりにある小窓に目を向けた。そこから漏れる光に、一瞬鳥の影が映る。
「はは……まさか、あれ、ワンチャン現実じゃったとか? いや、ないって」
今、俺が知らぬ間に家に帰っているのは、以前、溺れた記憶を最後に、目を覚ました時と同様、『人魚と魔女の仕業』。そう考えるのが、一番自然なこと。けれど、一番不自然なこと。
俺は、翔が下りた階段を駆け下りた。
それを信じたくなくて、しかし、信じたくて……この胸の高鳴りを誰かと共感したくて、しかし、誰にも分け与えたくなくて……。
矛盾な気持ちを抱きつつ、冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注ぐ。キンキンに冷えたそれを一気飲みした俺の心臓が、やけに早く鳴っているのを実感する。
掃除機のスイッチを切った母は、それを充電する為、定位置のテレビの横のスタンドに立てかける。その前のソファに座って、翔は菓子パン片手に、テレビのリモコンを操作する。
そんないつもの日常をぶち壊す一言を俺は堂々と言った。
「俺、広大受けるわ」
「「は?」」
案の定、母と翔は「何アホなこと言いよるん」というような、白けた目で見てくる。それでも、俺の決意は変わらない。
「広大の生物生産学部。そこを受けることにしたけん。俺、決めたわ」
「そう」
母はペン立てから体温計を取り出し、ケースから抜き取って中身を渡してきた。
「志は凄いとは思うけど、なんでまた広大なんて」
「母さん、俺、熱なんてないけん」
体温計を突き返せば、翔もまた、テレビに映るアイドルグループを見ながら、失礼発言をしてくる。
「まぁ、アイドル目指すとか言われるよりは、現実的じゃろうて」
「はは、確かにそうかも」
「確かにって、母さん。俺、アイドルもイケると思うんじゃけど。ほら」
前髪をかきあげて、ワイルドに決めてみる。
「…………」
「…………」
母は体温計をしまい、翔は菓子パンを頬張った。
ノーコメントほど辛いものはない。
「って、今のは冗談じゃけぇ。ドン引かんでもえぇじゃろ! そこ、ツッコむとこじゃけん」
「はいはい。まぁ、母親としては、私立に行かれるより断然助かるけぇ、頑張ってー」
「まぁ、広大目指して勉強すれば、運良く滑り止めに受かるかもじゃしね。兄ちゃん、ファイトー」
心にもない応援をされた俺は、テレビ台の下に置いておいた筆記用具とプリントの束を取り出し、机の上に広げた。
「まずは、夏休みの宿題終わらすわ」
「兄ちゃん。それ終わる頃には、絶対考え変わっとるじゃろ」
「変わらんし」
「変わるし」
「変わらん!」
ここまで意地を張るのには、理由がある。何故なら、俺はノアと同じ大学に通いたいから。
昨日の出来事が夢でないとするなら、ノアに言われた言葉。あれも本当だということだ。告白の返事かと思ったそれの続きは、見当違いな答えだったーー。
『私ね、大学に通うの』
『だ、大学……?』
『うん、言ったでしょ? 人間になったら、研究がしたいって。だから……』
御伽話なら、確実に俺は王子様的立ち位置で、その俺と一緒になりたくて人間になる。そういう結末でハッピーエンドのはずなのに、なんというオチだと、ちゃぶ台をひっくり返したい衝動に駆られた。しかし、それでも、ノアといられる時間が残り数日ではなくなったのが、唯一の救い。
ちなみに、俺と一ヶ月しか会えないと言っていたアレは、魔女がその魔法を一ヶ月しかかけてくれないかららしい。少々ケチなところがあると、ノアがぼやいていた。
話は逸れたが、仮に、あれが夢だとしても、俺は数百年前の瀬戸内海を知った。そして、今の瀬戸内海も知っている。ノアのことを無しにしても、俺も海を助ける手助けがしたい。ゴミをコツコツ拾うのも勿論大切だが、知識を付け、同じ志を持つもの同士で、俺たちの住む街の海を救いたい。切にそう思う。だから――。
「何年かかっても入るけん!」
◇◇◇◇◇◇◇◇
そして、その日の夕刻。
将来目指すところも決まって、俺はサボっていた日課の海辺の掃除を再開した。というのは口実で、結局のところ、昨日のことが夢なのか夢でないのか、それが気がかりでしょうがない。
ゴミ拾い用のトングで、カップアイスのゴミを挟んでビニール袋に入れながら、一人呟く。
「じゃけど、なんて聞けば良いんじゃろ。まぁ、会えるかも分からんのんじゃけどさ」
運良くノアと会えた設定の練習をしてみる。
「えっと……俺、昨日変な夢見てさ。魔女のお婆さんの知り合い、おる? それとも、率直に……実はノアさんって、人魚なん? んー、どう聞くのが自然じゃろうか」
好きな人に、自分がイタイ人だと思われるのも気が進まないし、かといって、遠回しに聞きすぎて曖昧になるのも微妙だ。
「やっぱ、ここは恥を忍んで、率直に聞くのが一番じゃろうて。うん」
タバコの吸い殻をゴミ袋に入れ、新たなゴミを探して歩いていると、砂浜にキランと夕日に反射して輝く物があった。ガラス片だと早々に拾っておかないと危ないと思って、そちらに足を向けた。
近くまで行ってよくよく見れば、それは貝殻だった。それも、見覚えのあるホタテの貝殻。
「これって……どうして、こんなところに」
俺は、ゴミ袋とトングを地面に置き、軍手を外した。そして、その薄っすらとピンクがかった貝殻を手に取った。
「ノアさんのじゃ……」
角度を変えてみたり、天に翳してみたりするが、どこから見ても、それはノアがいつも漆黒の綺麗な髪に付けていた髪飾りそのものだった。
百パーセントノアのかと問われれば、一パーセントくらいは違うかもしれないが、およそ二十日、そして夢境での三ヶ月、俺は毎日、ノアの目よりも、これを見て会話をしていた。だから、分かる。これは、ノアの髪飾りで間違いない。
しかし、こう見ると、この髪飾りもただの貝殻で、ヘアピンなどが接着剤でつけられた形跡もない。どうやって髪の毛に付いていたのだろうか。
様々な疑問が湧きながらも、それをポケットにしまった。そんな時だった。波が押し寄せては返すそこに、膝丈まである真っ白いワンピースを着た黒髪の少女が、カワウソのぬいぐるみを抱えて歩いていた。
「え……ノア、さん? な、わけないか」
ノアは童顔ではあるが、ここにいる少女は、どこからどう見ても七〜八歳だ。しかし、まるでノアをそのまま小さくしたかのような顔かたちをしている。
他人のそら似だろうと思って見ていると、石段の上の方で声がした。
「ノアちゃん! そっちに行ったら危ないから、早く上がってきなさい!」
その名前に、反射せずにはいられない。
キョロキョロと周囲を見渡すと、先程のワンピースの少女が石段の上にいる母親だろうか、二十〜三十代くらいの女性に手を振った。
「大丈夫、大丈夫……キャッ」
転びかけた少女を助けようと、俺は咄嗟にその腕を引っ張るようにして掴んだ。
「わッ!」
――パシャン。
少女は、かろうじて転ばずに済んだが、俺は打ち寄せる波の上に尻もちをついた。
「わ、だ、大丈夫ですか!?」
女性が、急いでこちらに駆け寄ってきた。俺は立ち上がって、びしょ濡れになったハーフパンツを絞りながら、愛想笑いを浮かべる。
「はは、なんか、すみません。娘さん、濡れてませんか?」
「この子は大丈夫ですけど、着替え……ありますか?」
「そのうち、乾きますから。それより、そのぬいぐるみ、宮島のですか? 俺も同じの持ってます」
と言ったものの、本当は失くしてしまった。今日もノアに会わせてあげようと持って来ようとしたのだが、どこを探しても見つからなかったのだ。
女性は、苦笑しながら胸ポケットから小さなケースを取り出し、そこから丁寧に名刺を出した。俺は濡れているのでそれを受け取らず、書かれている文字だけを目で追った。
「児童……相談所?」
「はい。ノアちゃん……この子は、先程保護したばかりなんです」
「え……それは、孤児?」
「まだ分かりません。名前は言えるのですが、他の記憶がないようでして。ただ、この海のことをふいに話しましたので、もしかしたら、ご家族の方がコチラにと思いまして」
「そう……ですか」
複雑そうに返事をすれば、少女はカワウソのぬいぐるみに話しかけた。
「そろそろお腹空いたね。ゴンザレス」
「え?」
それは、翔が我が家のカワウソのぬいぐるみにテキトーに付けた名前だ。そして、そのままノアもそう呼ぶようになった。
「まさかとは思うけど、ノア……さん?」
恐る恐る聞けば、少女は元気いっぱいに応えた。
「うん。ノアだよ! 私のこと、知ってるの?」
「あなた、この子のこと知ってるんですか!?」
児相の女性にも詰め寄られ、一歩後ずさる。
「あー、いや、俺の知ってるノアさんは、これくらい大きくて」
俺と同じくらいの背丈であることをジェスチャーで伝えれば、女性は落胆の色を見せた。
「もしも、親御さんらしき人物を見かけたら、ご連絡頂けますか?」
「あ、は、はい」
濡れた手を服で拭いて、名刺の端の方をつまむようにして受け取った。そのやり取りを見ていたノアは、口角を上げて笑った。
「じゃあね、お兄ちゃん」
「う、うん」
またねと言おうとして、一旦言葉を飲み込んだ。
「ちょっと待って。これ、どうぞ」
俺は、先程拾ったホタテの貝殻をポケットから取り出し、少女の小さな手に持たせた。
「可愛い……もらっても良いの?」
「うん。多分それ、君のじゃけぇ」
「私の……?」
キョトンと見上げる少女の顔は、ノアと瓜二つだった。




