第十九話 夢境①
ぐにゃりと視界が歪んだかと思えば、大量のレモンが水面をぷかぷかと浮かんだ異様な光景が、目の前いっぱいに広がった。
呆気に取られたのも一瞬のこと、燦々と降り注ぐ太陽の下、俺自身も碧海に浮かんでいることに気が付いた。
「わッ、俺、泳げない!」
両手両足、全身で暴れて、溺れまいと必死にもがく。しかし――――。
『ここは夢境。言わば、幻の世界。溺れることはない。海中で、息も出来るぞ』
魔女の声が頭に響いてきた。
耳から入ってくる情報ではないからか、すんなりと受け入れることができ、もがくのをやめた。すると、魔女の言う通り、レモンと同様に俺もぷかぷか浮いた。
「わッ、すげぇ!」
感嘆の声を漏らしながら、試しに顔を海につけてみた。
それでも、やはりそこで呼吸をするのは怖くて、息は止めながら、目をパチパチと開けてみる。
(目、痛くないわ……)
息がもたなくなったところで、ガバッと顔を水面に上げた。
「ぷはッ。夢境、ヤバッ!」
それにしても、ノアの夢の中に入る夢を見るなんて、どれだけ俺はノアのことが好きなのだろうか。いや、それよりも、このファンタジー要素多めの夢を見るなんて、ノアよりも、俺の方が厨二病かもしれない。
「てか、このレモンの数……ノアさんは、海をレモン水にする気じゃろうか……それとも、レモン風呂?」
呆れを通り越して感心するほどだ。
そんな時だった。目の前にある複数のレモンが、ゆらゆらと大きく揺れた。渦を巻くように揺れるレモン、その間から、魚が跳ねた。否――。
「わ、ノアさん!?」
人魚姿のノアが、高く跳ねた。
太陽に煌めく水飛沫が、その神秘さを更に助長させている。
再び海に潜ったノアは、俺の周りをクルリと一周まわってから、目の前に顔を出した。綺麗な艶のある黒髪を後ろに流し、ノアはニコリと笑った。
「涼君。泳げるようになったの?」
「え、あ、うん。そうみたい」
浮いているだけのこれを泳げると言って良いのか疑問だが、溺れていないのは確かだ。
それはさて置き、ノアに現実の方が楽しいと思ってもらえるほどに面白い話をしなければ。そうしないと、ノアは一生目覚めることはない。
「あ、あのさ、ノアさん……」
口を開きかけた時、ノアに手を引かれた。
「行ってみよう」
「え、行くって? どこに?」
「せっかく泳げるようになったんだから、海中散歩」
「海中……」
有無も言わせてもらえず、俺は手を引かれたまま海の中に潜った。
先程同様に、俺は目はパチクリと開けるが、息は止めておく。すぐに海面に顔を出したい衝動に駆られながらも、ノアの引っ張る力には抗えず、俺の意に反して、体はずんずんと下に下りていく。
エメラルドグリーンの珊瑚礁はゆらめき、淡い水色のクラゲがふよぬよと漂う。銀白色のスナメリは、優雅な泳ぎで俺を追い抜いていく。
(綺麗だなぁ……)
ただ、俺の息は限界に達している……。
酸欠気味に顔を真っ赤にさせていると、ノアが心配そうに見てきた。
「涼君、大丈夫?」
「んんッ……ぷはッ」
魔女の言っていたことは本当だったようだ。
息が持たず、思い切り息を吸ってしまったにも関わらず、口の中も鼻の中にも、何故か海水は一ミリも入って来ない。深呼吸をしても、苦しくない。勇気を出して早々と息をしてみれば良かった。無駄に苦しい思いをした気がする。
「しかも、喋れるし。不思議じゃ……」
どうなっているのだろうと考えても、これが夢だからとしか言いようがない。ひとまず俺は、初めての海中散歩を楽しむことにした。
「ノアさん。行こう!」
「うん!」
俺たちは、まるでダイビングでもしているかのように、海底を泳いだ。ノアなんて、尾ひれのある人魚姿だから、より様になっている。
(あ、マダイにメバル……アナゴまでいる。おお、カキもあるわ)
お腹が鳴りそうなくらい美味しそうな海の生き物たち。それを眺めているだけで、ご飯が何杯でも……ではなく、心が癒されていく。
「海の中って、こんな感じなんじゃね。水も澄んで、綺麗じゃわ」
「でしょ」
自慢げに笑って見せるノアとは別に、魔女の声が頭に響いてきた。
『それは、数百年前の海じゃ』
(え……? 数百年前には、海面に大量のレモンが……?)
『この、たわけが。それは、お主が妙な食べ物を姫様に教えてしまったからじゃ。そうではなく、その海中の話じゃ』
魔女の声に耳を傾けつつ、ノアに指さされた方を見やれば、カニが海藻の陰に隠れているのが見えた。
『今の瀬戸内の海は、もっとずっと濁っておる。生き物も随分と減った』
(そう……なんじゃ)
『人間の出すゴミや、大気中のガスなどによって、綺麗だった海が汚染されたのじゃ』
それに加え、地球温暖化の影響で、海水温の上昇、海面上昇、海洋酸性化が急速に進行しており、サンゴの白化や魚の生息域の変化など深刻な生態系の危機に瀕している。それもこれも、人間の身勝手な行動のせいで――。
海の上に出たノアは、振り向き様に満面の笑みを向けてきた。
「涼君、楽しいね!」
その笑顔は、今までで一番良い顔をしていた。きっと、ノアはこの世界が心から好きなのだろう。そう思える程の笑顔だった。
俺が、どうこう言うべきではないような気がした。ノアが幸せなら、それで良いのではないだろうか。
そんな俺の心情を悟ったように、脳内で魔女が語りかけてきた。
『ちなみに、姫様が目を覚まさぬようなら、お主も道連れじゃからな』
(道連れって……?)
『もちろん、この世界から出られぬということじゃ』
(そんな……)
ありがちな設定が出てきた。
形だけショックを受けた顔をしておくが、そもそもこの世界はノアではなく、俺が作り出したファンタジーな夢の世界。俺が目覚めたら終了だ。
故に、このミッション自体は、どうでも良いと言えばどうでも良いのだが……俺の厨二病心にも火は着く。
(何がなんでも、ノアさんを夢の世界から抜け出させてみせる!)
『その息じゃぞ。姫様を頼む』
というわけで、ここからが勝負だ!
◇◇◇◇◇◇◇◇
――それから、かれこれ二時間近くノアとお喋りした。
夢の中よりも、現実世界の方が楽しいということをノアに伝えたい。そう思って意気込んだのは良いものの、さすが夢の中と言うべきか、俺もこの世界が良いような気がしてきた。現実世界なんて、楽しいことよりも辛いことの方が多い気がする……。
今も、ノアと海岸で朝焼けを見ながら、慰めてもらっている。
「涼君も苦労してるんだね。テスト? って、そんなに難しいの?」
「それはもう。六十点以下は追試で、もう一回同じ試験受けんといけんし、それがダメなら補習。かろうじて今回は追試だけで済んだけどさ、それが数か月置きに来るんよ。地獄じゃわ」
「そっかぁ、海の中は、テストなんてないから自由だよ。涼君もさ、ここで暮らしたら良いのに。一緒に暮らそう?」
切実にそう思ってしまうのは、俺の勉強が足りぬせい。翔なら、そんなことで現実逃避的思考には至らないはず。
「まぁ、でも、楽しいこともあるんよ。日本って、食文化は長けとるけぇ、食べ物は大抵美味しいしさ」
「そうだね。私も、涼君に教わって、レモンのおやつが好きになったよ」
そう言って、ノアは手のひらを上に向けた。
――ポンッ。
俺が以前あげたレモンのチョコレートが、その上に突如として現れた。
「涼君も、どうぞ」
「あ、ありがとう……」
パクリと口の中に放り込めば、現実世界のレモンのチョコレートと全く同じ味がした。
さすが夢境。一度食べたものなら、なんでも出せるようだ。さっき、「お腹空いたね」と言ったら、チーズがトッピングされたお好み焼きが出てきた。ノアの箸の使い方も、バッチリだった。
「レモンも良いけど、他にも食に関しては優れとって……それこそ、お寿司とか……」
「お寿司食べたいの? お寿司は無理だけど……」
ノアが、海に向かって祈るようにお願いした。
「かけがえのない命、私たちに分けて」
すると、海面がピカピカと輝き、そこからマグロにハマチ、タイ、エビ、タコが、次から次へと跳ねるように出てきた。
呆気に取られながら見ていると、どこからともなく、体は人間だが顔が魚、手脚に鱗がびっしりとついた半魚人が現れた。それは、ねじり鉢巻をして、つい『大将!』と呼びたくなるような凛々しい顔つきをしている。
そんな半魚人が、巨大な包丁を片手に、タイを上空に放り投げた。
「さ、涼君、召し上がれ」
「え……?」
何が起こったのか、タイの刺身が綺麗に盛られた板をノアに手渡された。
口をぽかんと開けたまま、半魚人と目の前のタイの刺身、ノアを順番に見る。見ている間に、いつの間にやらマグロやタコ、エビの刺身も板の上に乗った。
「食べないの?」
「…………」
開いたままの口に、放心状態の俺は、タイの刺身を詰め込んだ。
「んまッ!」
「でしょ。他にも食べたいものがあったら、彼に頼めば作ってくれるよ。この瀬戸内海のものに限るけど」
まさかの極上ネタの刺身食べ放題。しかも、今の口ぶりでは、海鮮を使ったものであれば、焼き魚や煮魚、汁に至るまで、何でも食べることが出来そうだ。
「俺、ここに住むわ。住みたい!」
「やった」
ミイラ取りがミイラになるとは、正にこのことだ。
肉などは食べられないかもしれないが、それでも十分だと思えた。俺は、目の前の欲に、あっさりと負けたのだった――。




