第十八話 魔女
声にならない悲鳴を上げたのは、他でもない。幽霊……いや、妖怪? とにかく、そういった類の老婆に遭遇してしまったからだ。
というのは、もちろん偏見で、本当は違うと頭の片隅では思っている。思ってはいるが……。
見た目は、ただの老婆。ローブを被っただけの老婆。しかし、暗い海辺で、顔の下からライトアップされているそれは、恐怖の何者でもない。
だが、どうやってライトアップされているのかは、分からない。先程の警察官のように、懐中電灯を持っているわけでもなく、スマホの灯りとも違う。強いて言うなら、あの杖の柄部分が光っているように見える。
話は逸れたが、老婆から逃げようと、俺は一目散に駆け出……すことができなかった。踵を返した瞬間、老婆が持っている杖の先端で、ビーチサンダルの踵部分を地面に縫い付けるように押さえてきた。
そんなことをされたものだから、案の定、俺は盛大に前に転んだ。しかも、ビーチサンダルの鼻緒まで外れた。
とはいえ、そんなことを気にしている場合ではない。とにかく、この場所から逃げ出さなければ。
「た、た、助けて……ゆ、幽霊、お化け、妖怪」
片方だけビーチサンダルを履いた状態で、四つん這いになって逃げ出そうとすれば、老婆が言った。
「誰が幽霊じゃ」
「ひッ、お、お化けが喋った」
「じゃから、違うと言っておろう」
「でも、違うって……てことは、ようか」
「魔女じゃ」
被せ気味に言われたが、頭が追いつかない。
魔女? 魔女って、あの魔女? 煌びやかなドレスや靴、カボチャの馬車なんかを出す、あの魔女? それとも、毒リンゴをお姫様に食べさせる、あの魔女?
非現実的すぎて、あり得ない。魔女のように長生きをしているとか、そういう比喩的なものだろうか。
しかし、何故だか、一番しっくりきた。人間と言われるよりも、幽霊と言われるよりも。
ーー魔女。
それが、正解な気がした。
そして、この非日常的な単語は、最近聞いた覚えがある。
四つん這いだった俺は、恐る恐る立ち上がり、一歩後退りながら聞いた。
「あ、あの……ノアさんの……お知り合い、ですか?」
そうであってほしいと思う反面、そうでなかったら良いと思う。
固唾を呑んで老婆を見れば、その首は縦に振られた。
「如何にも」
つまり、ノアが言っていた魔女は、この老婆のことで間違いない。ただ、それがノアの祖母にあたる人なのか、はたまた全くの別の何かなのか。そこまで突っ込んで聞いて、失礼にならないだろうか。
ぐるぐると考えていると、先に魔女の方が口を開いた。
「お主には、ちと来てもらおう」
「えっと、何処に……ですか?」
――刹那、視界が一変した。
俺は、夢でも見ているのだろうか。海に来ていたのも全部夢で、俺自身はベッドの上ですやすやと眠っているのかもしれない。それくらい、見たこともないような光景が広がっている。
唖然と立ち尽くす俺がいるのは、純和風な屋敷の廊下。そして、普通なら庭園がありそうなその場所に、巨大な水槽でもあるのか、魚やタコなど、あらゆる海の生き物が泳いでいる。
「こっちじゃ」
魔女が杖を一振りすると、これまた驚き。目の前にあった襖が、自動的にパッと開いた。
ちなみに、下からライトアップされていない魔女は、そこまで怖くない。目つきは鋭く、到底優しそうには見えないが、怒る頻度が多かったのだろうと思わせる皺のつき方をしているだけだ。ただ……。
(あれって、足が……蛇? じゃろうか……)
ローブの下に人間の足はなく、ウミヘビのようなシマシマ柄の尻尾が見える。
恐る恐る魔女に付いて中に入れば、十六畳程の広い部屋の真ん中に、とてつもなく大きな貝殻が、開いた状態で置かれていた。
まさかとは思うが……。
「ノア……さん?」
中には、人魚の姿のノアが、丸くなって眠っていた。
(ああ、やっぱこれ、俺の夢じゃわ)
翔とのくだりからやけにリアルではあったが、目の前の不可思議な光景が、夢でしか説明が付かない。
「お主をここへ連れてきたのは、他でもない。姫様を助けてやって欲しいのじゃ」
「姫様……」
この状況で姫とは、ノアのことを指しているのだろう。そして、姫を助けるのは、王子様と相場は決まっている。しかも、眠っている姫を助けるには、これまた『キス』と決まっている。
「まさか、俺がノアさんに……」
ごくりと唾を飲み込んだ。
普段の俺なら、ひよってキスなんて到底出来ないだろうが、これが夢だと思うと話は別だ。夢で恥じらう必要など全くもってない。夢の中なら、なんだって出来る。
俺は、ノアに一歩近付いた。そして、その綺麗な寝顔に顔を近付けた。
「何をやっておる?」
「……ふぇ?」
口を尖らせたままの、何とも不恰好な顔で魔女を見た。眉間に深く皺を寄せ、怪訝な顔で見てくる魔女。俺は、この行為が違うのだと悟った。
自分の夢の中なのに、至極恥ずかしい気持ちになった。穴があったら入りたい。
一歩後ろに下がれば、今度は、魔女が一歩近付いてノアの顔を見た。その顔は、無表情だったけれど、ノアを想っているのが良く分かった。
「あ、あの……助けるとは、どういう……? ノアさんは、起きないんでしょうか?」
説明を求めれば、魔女は溜め息混じりに応えた。
「姫様は、禁忌を犯してしまったのじゃ」
「禁忌……?」
「我々は、この瀬戸内の海から出てはならんのじゃ」
その時、ノアの言葉を思い出した。
『私、ここから離れられないの』
てっきり、デートを断るための口実や、俺とは海以外で会う価値がないと言われているのかと思ったが、あの意味が、まさか夢の中で繋がるなんて……。
「じゃけど、ノアさん、なんでそれを破ったんじゃろ……」
ポツリと呟けば、魔女にキッと睨まれた。
「お主じゃ」
「お、俺……?」
「先日、溺れたのを忘れたか? あの時、お主を助けて、姫様はこうなったのじゃ。このまま、死ぬまで永久に眠り続けるハメになってしもうたのじゃ」
「死ぬまで、永久に……」
話が大事になってきた。
夢の中とはいえ、見過ごすことの出来ないワードばかり。しかも、俺のせいときた。
それにしても、俺が溺れて、それをノアが助けた?
もしかして、この間海に落ちたのは、夢ではなく現実?
いやいやいや、あれが現実だとするなら、不可解な点が多すぎる。
まず、このサンダル。あの時もこれを履いていたが、海に落ちたら流されているはずだ。何故、ここにある?
次に、朝起きた時、俺は少しも濡れた様子が無かった。どうやって家に帰ったのか。それは一番の疑問だが、二十一時にはベッドで寝ていたという母の証言もある。溺れていた人間をそう簡単に全身乾かせるだろうか。それこそ、魔法でもない限りーー。
俺は、魔女をチラリと見た。
(いやいやいや、あり得んって……あり得んし……)
溺れたのは夢。今は、その続きの夢を見ている。そうに違いない。そういうことにしておこう。そうでもしないと、俺の頭が追いつかない。
さて、これらが全部夢だとしても、永久に眠りから醒めないノアを放っておくことなどできようか。いや、できない。
「あの、俺は、どうしたら……」
「お主には、夢から覚める程の面白い話をしてもらう」
「面白い話……ですか?」
「うむ。夢から覚めぬのは、夢の中で心が満たされておるから……夢の中で、事足りておるからなのじゃ」
「つまり、現実の方が楽しいと思える程の話をしたら、ノアさんは、目覚める……と?」
魔女は、「そういうことじゃ」と簡単そうに言うが、俺はお笑い芸人でもなんでもない。人を話術で楽しませる自信は毛頭ない。
「では、ゆくぞ」
「え、行くって? どこに?」
「姫様の夢境じゃ」
「夢境って……夢の中!?」
刹那、視界がぐにゃりと歪んだーー。




