第十六話 尾道②
腹も十分に満たされた俺たちは、次は予定通り千光寺に向かった。
千光寺は山の中腹にあり、歩いても登れるのだが、これまた急勾配。しかも、この暑さ。熱中症になりかねないので、俺たちはロープウェイを使って、山頂まで一気に上がった。
「おおー! やっぱ、眺め良いわぁ!」
「じゃけぇ、お母さんが言ったじゃろ」
ドヤ顔の母は無視しつつ、尾道の街と瀬戸内海を一望した。
(ノアさんにも、見せてあげたいわぁ)
普段見ている瀬戸内海も綺麗は綺麗なのだが、角度を変えて見るだけで、随分と見え方が違う。それを共感したい。喜びを分かち合いたい。
未練タラタラすぎる自分に呆れる俺は、瀬戸内海から目を離そうとした。しかし、その時、目を疑うような出来事が起こった。
「ん、なんじゃあれ……」
瀬戸内の海が、荒れた。けれど、雨風で荒れている海とは大分違う。肉眼では見えないが、魚が飛び跳ねているのか、そこだけが一斉に波立っている。そして、海に文字が浮かんだ。『S・O・S』の文字が。
「翔、あれ、なんじゃと思う?」
「どれ?」
「あれ。海の方」
「待って、メガネするわ」
翔がカバンからメガネを取り出す間に、『S・O・S』の文字は消えてしまった。
「どれ?」
「翔がもたもたしよるけん、消えたわ。母さん、見た? SOSって書いてあったじゃろ?」
「ごめん、見てないわ。お父さん、見た?」
「見た」
「え!? ほんま!? 父さんも、SOSに見えたじゃろ?」
興奮気味に言えば、父は顎に手を当てて首を傾げ、どっちつかずな返事をした。
「……ような、見てないような。気のせいじゃろうて」
「気のせいって……でも、SOSって、誰かが助け求めとるんじゃないん? ピンチなんじゃないん?」
「じゃけど、あそこには船も通っとらんかったし、SOSなんておかしいじゃろ」
「そうじゃけど……」
「波が、たまたまそう見えただけじゃろ。さ、行くぞ」
どこか腑に落ちないが、父の言う通りかもしれない。平穏な海に、急にSOSが浮かぶはずがない。俺は、気を取り直して、乗り気ではない恋人の聖地を巡礼することにした――。
◇◇◇◇◇◇◇◇
やはりというか、恋人の聖地は、恋人同士でなければ、どこか虚しいものがある。
ハートマークのモニュメントの中には、二匹の猫が寄り添っており、その横のフェンスにはハート型で金色の鍵が鈴なりにロックされている。
この鍵は、その名も『愛鍵』。
ハート型の錠で、裏面にメッセージを記すことが出来るのが特徴。恋人同士で鍵にメッセージを書いて施錠すれば、二人の思い出の足跡を残すことができるのだとか……。
「お父さん、来て来て」
「ん」
父は、どこか照れながらも、母と共に愛鍵を施錠していた。
「翔、これってさ……」
「母さんと父さんが来たかっただけじゃろうね。まぁ、いつもラブラブじゃもんね」
「え、そうなん!?」
家では、母が父に文句ばかり言っている姿を良く見る。子供ながらに『離婚の危機だ』と、勝手に思っていた。喧嘩するほど仲が良いというやつだろうか。
母と父が愛鍵に手を合わせているのを横目に、翔はコソッと耳打ちしてきた。
「父さんが食器を洗ったら合図なんよ」
「合図……? なんの?」
キョトンとした顔で翔を見れば、もう一度耳打ちしてきた。
翔の一言で、俺の顔は、みるみる真っ赤になっていく。
「え!? ガチで!?」
「うん。僕、見たし」
「え、見たって……」
「母さんと父さんが、仲良くしてるとこ」
聞きたくなかった両親のイチャラブ話。まともに顔が見られなくなってしまったではないか。
「涼ちゃん、大丈夫? 顔が真っ赤じゃない?」
「あ、いや、暑いだけじゃけん。大丈夫」
ひとまず暑さのせいにしていると、父が提案するように言った。
「んじゃ、下りは文学の小道を通って下におりようか。あそこは木陰で涼しいけぇ」
「そ、そうじゃね」
それから俺は、巨岩を抜けて、ひたすら下った。無心に下った。途中、正岡子規や林芙美子など尾道ゆかりの詩人・作家のことばが石に刻まれているのを読んだ。いつもなら興味のないそれも、目に留まった。いや、目に留めずにはいられなかった。
翔が妙な情報を与えてくるものだから、考えたくなくても妄想してしまう。おかげで、ノアのことは暫く忘れることが出来たけれど……。
これなら、ノアのことを考えながら歩いて下る方が、幾らかマシだったかもしれない。
『涼君、会えて嬉しかったよ』
千光寺でお参りをしていると、ふいに、俺の知らないノアが脳裏に映った。
それは、俺の部屋。電気も付いていない、薄暗い俺の部屋。そこで、いつもの白いワンピースを着たノアが、俺をベッドにそっと寝かせた。
(は? あり得ない。か弱い女子が、高校生の男子を軽々と抱っこ?)
夢か妄想の類だろう。何より、ノアが俺の部屋を訪れるはずもない。抱っこ云々の前に、そこからして夢だ。幻としか言いようがない。
自分に納得させていたら、先程の瀬戸内海に浮かぶ『S・O・S』と、人魚のコスプレをしたノアが重なった。
(いやいやいや、ノアさんが助けを求めている? それは、ないって……)
しかし、嫌な予感が胸をよぎる。
(もしかして、逆……じゃったり?)
ノアが助けを求めているわけではなく、その他の何かが、ノアの危機を知らせている……そう考えると、何故か妙に納得できた。
「兄ちゃん、どうしたん?」
「あ、うん……」
「一応、あの子にお土産、買って帰る?」
「あー、うん」
なんやかんや考え事をしている内に、いつの間にやら千光寺から更に下の細い階段や坂道も下って、麓までおりて来ていたようだ。
ただ、我に返った俺の胸は、ザワザワしっぱなしだ。
両親と翔がお土産選びをする中、俺は一人、先に駐車場に向かった――。




