第十三話 告白
楽しい時間は、あっという間に終わるのは何故なのか。注意理論云々を語ったら長くなるので割愛するが、それほどに、ノアとの時間は充実している。
太陽が沈みかけた海は、俺を後押ししているかのように、ゆらゆらと橙色に煌めく。
堤防の先端で足をブラブラさせているノアは、満足げに伸びをした。
「はぅ〜、今日も楽しかったぁ。じゃあ、また明日だね」
「……ノ、ノアさん」
緊張した面持ちで声を掛ければ、ノアは「ん?」と顔だけこちらに向けた。
「どうかした?」
「えっと……その、俺……す、す、す、す」
「す……?」
キョトンと首を傾げ、長い黒髪を耳にかけるノアは、どこぞのお姫様のように綺麗で、美しい。
純真無垢な彼女の命が、残り一ヶ月もないなんて、神様は酷なことをする。
「涼君? 大丈夫?」
泣きそうになるのを我慢して、俺は言った。
「好きです!」
「…………?」
「俺は、ノアさんが好きです!」
「それは……」
「あ、ノアさん天然そうじゃけぇ先に言っちょくけどさ、もちろん、女性としてじゃけぇね。人間として……とかじゃないけん」
早口でそれだけ伝えれば、ノアは嬉しそうな、それでいて悲しそうな、複雑な笑みを見せた。
暫しの沈黙が流れ、ちゃぽんと海の中で何かが跳ねる音がした。潮の香りが、鼻にツンとする。風がはためき、髪が流れるように揺れる。
「えっと……じゃけぇ、もう、今日で最後にするけん。ノアさんと会うのは、これっきりってことで……」
「え、どうして?」
「残りの時間、大事にしてもらいたいけん……俺なんかに、貴重な時間割いてくれて、ありがとう。楽しかった」
無理矢理笑顔を作り、立ち上がった俺は、呆気に取られるノアを置いて踵を返した。
「涼君?」
ノアが後を追って来るのが分かるが、涙を噛み殺して、振り返らない。振り返れば、涙がポロポロと溢れ落ちるのが目に見えている。
「涼君。荷物、忘れてるよ」
「うッ……」
俺としたことが、何たる失態。絶対に振り返らないと決めていたのに、振り返らずを得なくなってしまった。
回れ右して、ノアを視界に入れないよう、再び堤防の先に向かう。ぼんやりと視界の端に見えるノアは、俺が歩くのをただ眺めているようで、何も言わない。
刹那、横から突風が吹いた。
「風、つよッ」
まともに前を見ずに歩いていたこともまずかった。風で足元を取られた俺は、ふらついてーーーー。
「げっ、マジ!?」
「涼君!?」
ノアが手を伸ばしてくれたが、それは届かず、俺は海の中に盛大にダイブした。
海の中に落ちた俺は、必死に両手両足をバタつかせる。
「わッ、だ、誰か……ゲホッ……助け……」
「涼君、そこのはしごみたいなの、そこまで泳いで」
「俺、泳げ……ない……助け」
口の中に海水が入って苦しい。必死にもがくが、もがけばもがくほどに、沈んでいく。
「涼君、力、抜いて!」
ノアが大きな声で助言してくれているが、パニックになった俺に、その声は届かない。仮に届いていたとしても、力を抜くことなんて出来ないと思うが。
いよいよ海面に顔を出せなくなり、バタバタさせていた手足も動かなくなった。意識が遠いところに行って、完全に途絶えようとしたその時、ノアの声が近くで聞こえた。
「涼君、死んじゃダメ! 涼君は、私にとって大切な人だから……死なないで」
海の中で聞こえるはずもないのに、聞こえたそれは、俺の都合の良い幻聴か何かだろう。しかも、薄っすらと開いた目には、尾ひれのついたノアの姿が、ぼんやりと映っている。
(やっぱ、完成度、高ッ)
そんな感想を抱きつつ、俺は意識を手放したーー。
◇◇◇◇◇◇◇◇
一体どうなっているのか。目が覚めたら、家のベッドで眠っていた。既に時計は午前三時を指しており、もう一度眠りについた。
――そして、午前九時。
夏休みにしては、いつもより早く目覚めた俺は、すぐさまリビングに向かった。
「あ、翔。起きとったん?」
「いけんのん」
ソファに座る翔は、不機嫌そうに俺を見た。そして、再び視線をテレビに移す。朝からテレビドラマの録画を観ていたようだ。
「早いなぁって思っただけじゃろ。てか、翔。俺、いつ帰って来たん?」
「さぁ。僕、昨日は部屋にこもっとったけぇ、知らんよ。てか、自分がいつ帰って来たかくらい、自分で把握しときんさいや」
「ごもっとも。ねぇ、母さんは?」
「洗濯物干しよるんじゃない?」
翔に聞いても分からず、次は洗濯物を干している母に聞くため、二階のベランダに向かった。
我が家のベランダは、両親の寝室と父の書斎の向こうに繋がっている。二つの扉を交互に見て、俺は寝室の扉を開けた。仕事でいない父は、書斎に勝手に入ったら怒る。ただそれだけの理由だ。
畳のその部屋に布団は既になく、押し入れに収まっているようだ。母が使う鏡台だけが隅っこにあった。
「熊野筆、まだ使っとるんじゃ」
俺は、窓の向こうで洗濯物を干している母が見ていない隙に、鏡台の上に大中小と五種類くらい置かれたメイクブラシの一番大きいのを手に取った。それを左手の甲に持って行き、フワフワと円を描くように撫でた。
「やっぱ、熊野筆、最高かも……」
広島の伝統工芸品である熊野筆。意外に知られていないが、日本一のブランドだ。それは、墨で字を書くだけの筆を作成しているわけではなく、メイクブラシも取り扱っている。
上質なそれは「天使の羽のような肌触り」と評されるほど肌当たりが優しく、海外のメイクアップアーティストやセレブにも愛用されているらしい。
おっと、その撫で心地に至福の時を感じている場合ではなかった。
メイクブラシを鏡台に戻してから、俺はベランダに続く窓を開けた。
「母さん」
「涼ちゃん。おはよ」
どうやら、メイクブラシを弄っていたことは、気付かれていないようだ。
「俺ってさ、昨日いつ帰って来たんかいね?」
「知らんよ。お母さんも、涼ちゃんが、いつ帰って来るんじゃろうって、リビングで結構遅くまで待っとったんよ。さすがに、二十一時過ぎて電話にも出んけえ、探しに行こうと思ったら、サンダルがあるじゃろ」
「そうなん?」
サンダルを脱いだ記憶が一切ない。そもそも、玄関の扉を開けたことも覚えていないから困っているのだが……。
「で、二階に上がったら、涼ちゃんスヤスヤ寝とるけん、お母さんもそっから寝たわ」
「そうなんじゃ」
「そうなんじゃ……じゃないし。帰って来たんなら、一言くらい言いんさい。心配するじゃろ」
「はは、ごめんごめん」
昨日溺れたのは、やはり夢だったのだろうか。
しかし、Tシャツが体にまとわりつく気持ちの悪い感覚、海水の塩辛い味、それが鼻と口に何度も入って来る苦しさ、そして、最後に見た幻覚。全て覚えている。
とはいえ、誰かに救助されたのであれば、母が知らないわけがない。やはり、昨日の出来事は夢だったのだろう。ノアに二度と会えない辛さから、その後のことを覚えていないだけだ。きっとそうだ。
そう思い込まずには説明がつかない、そんな不思議な体験をした……ことにしようと、無理矢理自身の脳に訴えかけた。




