第十二話 希望の花②
――その日の、夕方。
俺は、いつものように自転車の前かごにゴミ拾いセットを入れ、レモン水や軽く食べられるお菓子を入れた保冷バックと、ゴンザレスをリュックに詰め込んで、背負った。
「はぁ、ハンドルにかけられんの不便じゃわ」
実は昨日、警察に注意されてしまったのだ。お好み焼きを取っ手部分に引っかけていたから。
以前は、前かごに入りきらない荷物は、ハンドル部分に引っかけていた。しかし、この度、この行為が青色切符の対象となるらしく、禁止になってしまったらしい。
昨日は知らなかったこともあり、謝罪をすれば注意だけで済んだが、連日ともなると、確実に切符を切られる。
大きいリュックしか無かったので、随分と大荷物に見えるが、これも最後だと思うと、切ない気分にさせられる。
「はぁ……」
煌めく海の横を自転車で走りながらも、溜め息しか出ない。
これまでは、暑さに対する溜め息ばかりだったが、今日の溜め息は、命に対する溜め息。重すぎる。
赤の他人である俺がこんなにも苦しい気持ちなのに、当の本人であるノアは、もっと辛いことだろう。
「いっつもあんな笑顔で……俺なら、物や人に当たってそう。はぁ……」
そんな当たり散らす心境の過程は、当の昔に過ぎ去ったのかもしれない。今のノアは、おそらく諦めの状態なのだろう。だから、あんなに明るく振る舞って……。
「健気じゃわ……」
そんなことばかり考えていたら、いつの間にかビーチに着いていた。
無意識とは怖いもので、自転車を駐輪スペースに停めた俺は、これまたいつの間にか軍手を手に嵌めて、ゴミ袋片手に煙草の吸殻を拾っていた。
「今日も、思ったより落ちとらんかも」
ゴミが無いに越したことはないのだが、こういう無心になりたい時こそ、沢山落ちている方が助かるというのに――。
それから、数十分後。
大きな四十五リットルの袋の三分の一しか集まらなかった袋をキュッと結んで、トイレの横のスペースに置いておく。
「んー、どうしよ……」
昨日は、この時間にはノアと出会えたが、今日は、まだその姿は見当たらない。ビーチで会うのも、大抵十八時頃で、残り三十分はある。
今日も今日とて、時間を持て余した俺は、昨日と同じ岩場に向かうことにした――。
◇◇◇◇◇◇◇◇
自転車を走らせること五分。
リュックだけ背負って、大きな岩を伝ってゆっくりと磯場に降りた。
水の中を覗き込めば、昨日とは違う赤みがかった小魚がそこにいた。
「そこは、涼しくて快適そうじゃね」
「そうでもないよ」
「……え?」
魚が喋った?
そう思っていたら、浅瀬の水面から、ノアがヒョコッと顔を出した。いつものワンピース姿ではなく、初めて会った日に着ていた貝殻のビキニだ。下の方は……見えない。もしかすると、また人魚のコスプレをしているのかもしれない。
(見えそうで、見えんわ……)
腰の辺りに水面があり、ついつい、そこばかりに目が行ってしまう。
「昔よりも、海水の温度も上がって、この中も生きづらくなったんだよ」
「そうなんじゃ……」
まるで、ノア自身が住んでいるような口ぶりだ。
「涼君も入ってみる? 人間が涼むには、丁度良いかも」
「あー、俺、水着持ってきてないけん」
持ってきていても入らないけれど。
ノアに格好悪いところは見せられない。
それよりも、ノアの下半身ばかり気にしていたら、ゆっくりとノアが海から出てきた。その下に尾ひれはなかった。ホッとする反面、ガッカリしている自分がいる。
とはいえ、ノアはスタイル抜群なのだ。そのスラッとした足と、プリッとしたお尻、くびれのあるお腹、大きな胸を見て、思春期の俺の鼻腔内毛細血管は破裂寸前だ。
両手で顔を隠し、チラリと目元だけ指をずらしてノアの姿を覗き見る。
「あ、えっと、ノアさん。服は……」
「着替えてきた方が良い?」
「どっちでも……じゃけど、そのままじゃ、うまく喋れない……です」
「どうして?」
ノアが、どんどん近付いてくる。
目の前に立って、キョトンとするノアから視線をすぐ下にずらせば、大きな谷間が見える。後ろを振り向けば、肩越しから顔を覗き込もうとしてくるものだから、俺の心臓は破裂しそうだ。
「ちょ、の、ノアさん。む、む」
「む?」
胸が背中に当てっている感触がして、ドキドキが止まらない。
「涼君……?」
耳元で名前を呼ばれた俺は、もう腰砕けになりそうだ。
そして、さっきからしているそれらは、わざとやっているのだろうか。翻弄する俺を見て、楽しんでいるのだろうか。
「やっぱ、服、着てきて下さい! お願いします!」
大きな声でお願いすれば、背中に当たっていたノアの胸が離れた。安堵する反面、残念に思ってしまうのは、健全な男なら仕方のないことだ。許して欲しい。
「じゃ、すぐに戻って来るから、待ってて」
コクコクと頷けば、ノアは大きな岩場の裏にサッと隠れるようにして入った。
そして、数秒後に、いつもの真っ白いワンピースを着て出てきた。
「お待たせ」
「はやッ!」
早着替えにも程がある。
岩場の向こうで、小さく「姫様!」と、老婆の声が聞こえた気がしたが、さっきまで海水で濡れていたノアの漆黒の髪が完全に乾いていることに驚いた俺は、それどころではなかった。
「え、髪、どうやって乾かしたん!?」
「髪?」
ノアが、軽くウェーブがかった自身の黒髪を触って、首を傾げた。と思ったら、焦った様子で苦笑を浮かべた。
「はは、元々あんまり濡れてなかったみたい」
「いやいやいや、絶対濡れてたって」
「濡れてなかったよ。潜ってないもん」
「いやいやいや、潜っとったって」
「潜ってないよ」
そう言い切るノアは、俺の手を取った。
「どっちでも良いじゃん。行こう」
どっちでも良くはないが、手を繋がれていることが嬉しくて、それ以上は何も言わなかった。
手を引かれながら、昨日と同じ岩を伝って歩き、堤防の先端まで歩く俺とノア。昨日の今日だからか、そこを歩くのも昨日よりは怖くなかった。否、ノアと手を繋いでいることで、それどころではないというのが事実。
「涼君、今日は口数少ないね」
ノアは、俺から手を離して、堤防の先端部分に足を垂らして座った。俺もその隣に胡坐をかいて座る。
「そ、そう……かな?」
「うん。やっぱ、昨日、私があんなこと言ったから?」
「あー」
そうだった――。
ノアは、余命残り一ヵ月足らず。
それなのに、俺ときたら、ノアのビキニ姿を見て興奮して、手を繋いで浮かれて、何をやっているのか。
「ごめん……」
「どうして、涼君が謝るの?」
「不謹慎だったから」
首を傾げるノアは、チラリと俺のリュックを見た。それに気付いた俺は、苦笑を浮かべながら、チャックを開けた。
「今日は、大したもの持ってきてないんじゃけど、とりあえず、レモン水、飲む?」
「飲む!」
俺よりもレモン水だと思うと、現金な女だとも思うが、これも余命のことを考えると許せてしまう。いや、それ以前に、恋は盲目。不思議とノアが何をしても許せてしまう。それが、むしろ可愛いとさえ感じるから不思議だ。
魔法瓶に入ったレモン水を紙コップに移していると、まるで子犬が尻尾を振って餌を待っているかのように、ノアは堤防から垂らした足をパタパタさせている。胸が締め付けられる程の可愛さだが、そこから落ちてしまうのではないかと、内心ヒヤヒヤものだ。
「はい、どうぞ」
「ありがとう!」
早速ひと口それを飲んだノアの顔は、緩みまくっている。
「はぅ……幸せ」
「良かった」
複雑な顔でそれを見ていたら、ノアが紙コップを左手に持ち替えて、俺の頭に右手を伸ばしてきた。驚いた俺は、肩をビクッと震わせて目を瞑る。
「髪、切ったんだね。似合ってる」
そっと目を開ければ、穏やかな顔で頭を撫でられていた。
照れが最高潮に達して、目が泳いでしまう。
「あ、ありがとう……」
翔と双子ヘアにして正解だったと、心の中でガッツポーズする。
ニコニコと微笑みかけてくるノアに、今すぐに告白したい。したいが、まだ我慢だ。こんな会って初っ端から告白してしまうと、フラれた後が気まずくなってしまう。これが最後だと思うと、俺はこのままアッサリと帰りたくない。
ひとまずリュックからゴンザレスを取り出し、ノアの膝の上に乗せた。俺の頭を撫でていた手が、次はゴンザレスの背を撫でた。
それを横目に、俺はスマホを操作する。
「ねぇ、ノアさん」
「ん?」
「この花、知っとる? 夾竹桃って言うんじゃけど」
「キョウチクトウ?」
「うん。広島の花らしいんじゃけどね」
赤、白、ピンクのその花の写真を見せると、ノアも興味津々にそれを覗き込んだ。
俺は、ひとまず希望を捨てないで欲しいという思いから、翔から今日聞いたばかりの夾竹桃の話を聞かせた――――。




