1739:準備開始。
ユーリが私の肩に顔を埋めて、シクシクと泣いている。人のものを食べてしまったという意識が彼女にはあるようで、ジルケさまが不味いという雰囲気でどうしたものかと立ちすくんでいた。
大談話室にいる皆さまは、今の状況をどうしたものかと頭を悩ませている。揶揄えば、ユーリがもっと泣くかもしれないし、ジルケさまが怒るかもしれないと。私は今の空気をどうするべきかと頭を悩ませつつ口を開いた。
「ジルケさまがユーリを泣かせた」
「おい。人聞きの悪いこと言うんじゃねー、ナイ」
ジルケさまは目を尖らせながら、ユーリを抱いている私に呆れた視線を寄越す。本気で怒っているわけではないと分かるので、こうして冗談を飛ばせるわけだ。
皆さまはぎょっとしているけれど、これくらいのことでジルケさまは怒ったりしない。容姿に関しては、即、雷が落ちる可能性があるけれど。ジルケさまは私に『全く』と呆れて溜息を吐けば、ユーリが顔を上げた。
「あ、鼻水伸びてるねえ」
私の肩には涙と涎と鼻水がついていて、だらーんと糸を引いていた。その糸はユーリの鼻に伸びていて、面白おかしい光景を作っている。ユーリを私の腕から降ろすと、チリ紙を持ったジルケさまが鼻に宛てる。ついでに私にもチリ紙を何枚か分けてくれた。
「ああ、ほら。なにやってんだよ、ユーリ。ほれ、鼻ちーんしろ」
ジルケさまの言葉に倣ってユーリは鼻をかんだ。以前は上手くできなかったのに、きちんとできるようになっている。時間が経つごとにユーリが自分でできることが増えている。
着替えもそろそろ自分だけでできそうになっているのだが、個人的には介添えなしでできるようになって欲しい気持ちがある。ただ屋敷の皆さまはお貴族さまだから、介添えがいても良いだろうと考えているようだった。
なにかあった時のために、掃除や洗濯に身の回りのことは一人でできるようになって欲しい気持ちが私にはある。このバランスが難しいというか……周りの方たちは別にできなくても問題ないのではという考えだった。
「すっきりした、ユーリ?」
「あい」
ユーリがずびっと鼻をすすると、ジルケさまが腰を折って視線を合わせる。
「良かったな」
ジルケさまが腕を伸ばして、ユーリの頭を撫でた。猫みたいに目を細めたユーリがジルケさまの手を受け入れている。調理場では二、三日の間にまた羊羹を作ってくれると言っていた。エーリヒさまも加わって、なにか羊羹に適した材料はないかと料理談議に花を咲かせるそうだ。私はジルケさまに伝えておかなければと口を開いた。
「羊羹、今度、いっぱい作ってくれるって言ってたから、ジルケさまと一緒に頂こうね。それで仲直りかな」
「え、あ、ああ。そうだな。一緒に美味い羊羹食べような、ユーリ」
ジルケさまに目配せすれば気付いてくれた。ユーリはこてんと首を傾げて、ジルケさまを見る。どうするのかと思いきや、ユーリはジルケさまの腰に手を回した。
そうしてお腹の辺りに顔を埋めている。若干届いてないけれど……可愛らしい光景だった。ジルケさまもユーリを抱き留めて背中をさすっているから、相手をするのは嫌ではなさそうである。しばらく眺めていれば、ユーリが動かなくなった。どうしたのかとジルケさまと私はユーリの顔を覗くと寝息を立てている。
「ご飯前だけれど……移動で疲れていたようですね。部屋に連れて行きます。皆さまは先に食べていてください」
コース料理ではないため、遅れてきても大丈夫だ。美味しい料理はなくなっているかもしれないが……それは仕方ない。私はユーリを抱き抱えて、アンファンに一緒にいて貰うようにとお願いをする。もちろんアンファンはユーリ付きの侍女のため否やはなかった。私の部屋にユーリを寝かせて、あとはアンファンにお願いして私は大食堂へと戻った。
「申し訳ありません、皆さま」
子供がいるとどうしてもこうなってしまうなあと私は苦笑いを浮かべる。他の方たちも分かってくれているのでなにも言わない。さて、明日からどうなるかなあと頭の中で行動を考えながら、食事の席に着くのだった。
◇
はて、南の島は天国であろうか。
三日目の昼過ぎ、黒髪黒目のお方であるユーリさまが唐突に島へとやってこられた。ナイさまに温泉に誘われた際、我慢がならず断ってしまったことを後悔していたのだが、その思いはどこかに吹き飛んでしまっていた。
南の女神さまとナイさまとユーリさまが揃えば、本当にご姉妹のようである。いや、ナイさまとユーリさまは半妹だから、当然と言えば当然なのだが……アガレス帝国の者としてはとんでもない奇跡を目にしている瞬間だったのだ。私と妹たち四人は割り当てらえた部屋に戻って、顔を突き合わせていた。そう。大事なことを確認するために。
「皆、大丈夫でございますか?」
あと二週間弱。奇跡のような光景に私の心は耐えられるのだろうか。
「ウーノお姉さま……黒髪黒目のお方がお二人も揃っているところを見られるとは」
「アストライアー侯爵閣下の妹さままでこられようとは予想外です」
「しかし、凄くお可愛らしいですわ」
「ええ。女神さま方にも気に入られているようですから。やはり黒髪黒目のお方は特別なのでしょうね」
妹たちが口々に告げ、ナイさまとユーリさまを思い返している。本当に南の島は奇跡の場所ではなかろうか。創星神さまが三柱もおられ、大陸を司る女神も四柱揃っておられる。そしてナイさまそっくりな他の星の神が二柱いらっしゃっていた。ナイさまから事情を聞けば、どうしてそうなるのですかと聞き返したくなるものの、黒髪黒目のお方である。突っ込むのは無粋だろうと、詳しく聞かないでおいた。
ナイさまはユーリさまが南の島に訪れたことを気にしておられたが、我々アガレスに文句などない。
むしろ、ユーリさまと触れ合える時間があるのならば至上の幸せであろう。もしユーリさまが私に懐いてくれたならば『ウーノお姉さま』と呼んでくださるのだろうか。ユーリさまはナイさまのことを『ナイおねえしゃま』と小鳥のような可愛らしい声で呼んでおられた。芽がないわけではないのだから、水や肥料を撒けばきっと花が咲いてくれるはず。
「みんな、ユーリさまから『お姉さま』と呼ばれたくありませんか?」
私が真剣な表情で四人の妹たちを見渡した。
「それは恐れ多いような?」
「ええ、黒髪黒目のお方にそのようなことは……」
「よいのでしょうか?」
「呼んでくださるなら嬉しいですけれど」
妹たちはあまり乗り気ではないようだ。しかし動かなければ望みは手に入らない。そう、アガレス帝の玉座を手に入れた時のように。ナイさまを私がぎゅっと抱きしめれば、周囲からは『なにをしているんだ』と突っ込まれるだろう。しかし幼いユーリさまであれば微笑ましい光景となる。是非、お姉さまと呼ばれるように努力しようと私は誓を立てるのだった。
◇
――三日目の夜。
寝る前に大食堂の横にある調理場に俺は向かっている。理由は調理場の皆さまに相談があると呼ばれたから。
一応、ナイさまからアストライアー侯爵家の料理人から相談があると聞いていたのでなにも文句はない。ただまさか、アガレス帝国の料理人にフソウの台所番まで加わるのは意外であった。調理場の扉の前に立てば、一斉に視線が俺に集まった。すると一人が俺の下へとやってきて、帽子を脱ぎ礼を執る。
「ベナンター伯爵殿! お呼び立てをして申しわけありません」
彼はアストライアー侯爵家の料理人として働いている。若手に入る部類だが、俺よりも年上だ。俺は一歩前に進んで、みんなに挨拶をしようと礼を執る。
「いえ。比較的、私の方が自由に動けますから」
気にしないでくださいと告げれば、調理場にいる皆がほっとしている。どうにも伯爵位を賜ったから、周りからの視線が変わったというか。威を翳すつもりはないのに、長年染みついている彼らには『伯爵位』を持っていることは大きな意味を持つらしい。
「それで、相談というのは?」
「ええ。本当はなにか美味しい料理はないかと教えて貰うつもりでしたが……南の女神さまの件で、ヨウカンについてどうしようかと我々一同、悩みまして」
そうか。つい少し前にナイさまが難易度を爆上げしていたから、調理場の皆さまは頭を抱えたようである。羊羹をたくさん作るところまでは良かったが、同じ味では飽きてしまうだろうというのが皆の見解だった。彼らは、スタンダードな餡、栗、芋、梅、抹茶は用意するそうだ。他になにかできないかと頭を悩ませていたらしい。俺はなにかあるかと、みんなと一緒に腕を組んで考える。
「イチジクとかあれば、面白そうですが」
たしか洋風羊羹として作られていたはずである。オレンジの皮を使って、あっさりとした味もあったはずと意見を出しておく。調理場のみんなが『おお!』と顔を明るくさせるのだが、前世の記憶を引っ張り出してきただけだ。
作るのは彼らになるし、なにか問題が起これば解決方法を導くのも彼らである。言い出しっぺは気楽だなと俺は肩を竦めて、みんなには『私も協力します』と伝えておいた。
「あ、あと。カレーを作る用意をしておきたくて。少し場所をお借りできませんか?」
俺は調理場の皆さまに頭を下げる。みんなにはカレーを作る約束をしておいたのだ。以前はできなくて、違う品を用意したが、ようやく納得できる味になったというか。
日本の定番である各メーカーが作っているルーの味ではなく、香辛料をたくさん使った本格的な方のカレーになるけれど。ユーリちゃんもやってきたから、辛さを控えた品も提供したいと考えている。とはいえ、大量に作るのは初めてだから、果たしてどうなってしまうのか。失敗したらシチューに変更することも視野に入れておかないと。
侯爵家の料理人は俺の言葉を聞いて、食糧庫から大量の香辛料を持ってきてくれた。必要な品を記したメモをナイさまに渡しておいたのだが、記していた量より多い気がする。もしかして失敗した時用とか、人数が増えた時ようにとナイさまは用意してくれたのだろうか。相変わらず、変なところで気を回す人だと俺は苦笑いになる。
「アストライアー侯爵閣下がたくさん香辛料を譲ってくれたので、できることですが」
俺は苦笑いを浮かべて袖を捲り、みんなと一緒に下準備に取り掛かるのだった。




