1729:人体の不思議。
アストライアー侯爵領領主邸の図書室には、人間の身体について示した本が多く蔵書されている。
陽が射し込む図書室の窓際で、私は本を読んでいた。末妹が人間の身体について多く蔵書されているのは、ナイが聖女だからと口にしていたが、私でも知らないことが記されていて面白い。人間の内臓の位置に、内臓機能の推測。どうすれば寿命が延びるかという疑問を投げかけているものに、禿げないためにはどうすべきかと記されたものもあった。
そして妊娠について記されているものがあった。人間だけではなく犬や猫、馬について記されている本もある。あとは歴史書に、周辺国の文化や風習を記したもの、料理や野菜に香辛料について記したものもあるし、架空の物語を記したものもあった。屋敷で働いている者も自身の好きな本を置いて誰かに勧めているようだし、読みたい本を申請して許可が降りれば、アストライアー侯爵家が購入して図書室に置かれることもあるそうだ。
「ナイ、大丈夫かな」
私が読んだ本によると、臨月を迎えると股の間から三キロから四キロの赤子が生まれてくるそうだ。ナイの足の間からどうやって三キロ程度の赤子が腹の中から出てくるのだろうか。
スライムのような液状であったり、卵の形であれば難なく産めそうな気がするが、人間の形をしたものが股の間から誕生するなんて信じられない。いや、人間のことを見守っていた時期があり知ってはいるものの、一層小柄なナイが赤子を生むとなれば命懸けのものとなる。
やはり心配が強く湧くものの、ナイとジークフリードの子がどんな子に成長するのかも気になって仕方ない。ソフィーアとセレスティアも子を成しているから、早く会いたいものである。エーリヒとフィーネの子も近い将来には誕生するはずだし、ジークリンデとサフィールに、クレイグとアリアの子だって誕生するはず。みんなの子を抱きしめるのも楽しみだ。
竜や魔獣や幻獣の赤子の誕生する姿も愛おしいのだが、どうして人間の赤子が生まれることの方が気になってしまうのだろう。不思議だと私は読んでいた本を閉じる。
アレクサンドラが産んだ赤子を抱かせて貰ったけれど、私の腕にすっぽり収まって、しわくちゃの顔でうねうねと動きながらか細い声を上げたり、腹が減ったと大泣きしたりと忙しなかった。
誰かが面倒を見ていないと、人間の赤子は生きていられないから、どうしても気になってしまうのかもしれない。自然に生きるものたちは生まれた瞬間から母親と父親の姿を知らないこともある。もちろん例外の生き物もいることも知っている。ただ人間の赤子からは弱々しい雰囲気が漂っていることが、私が気にしてしまう原因なのかもしれない。
「ナイはまだ気付いていない」
末妹によれば初期も初期だから、本人でさえ新たな命を授かったことに気付いていないようだ。末妹はなんとなく力を使ってみると、ナイの妊娠が分かったようである。
驚いてしまい昼ご飯を抜いたというのは末妹らしくないが、自身の心を落ち着けるために必要なことであったようだ。私もナイが妊娠したと知り、気になって仕方ない。
ナイは時々、一人で転倒したり、壁にぶつかることがあるから、赤子が影響を受けてしまわないかとハラハラしていた。末妹には『誰も気付いちゃいないから、姉御も知らんふりしとけ』と言われていた。たしかに力を使って『視た』ものだから、私たちから口にするのは違うのだろう。でも。
「なにかあったら大変」
抜けているところがあるナイのことだ。きっと妊娠中になにかやらかしてしまうに違いない。私がナイを気に掛けないと悲しいことになりそうだ。お昼を過ぎた時間なら、ナイはユーリの下にいるだろうと私は席から立ちあがるのだった。
◇
アストライアー侯爵邸の裏庭にある畑の収穫量が上がったと、庭師の方から報告が上がっていた。
どうして収穫量が上がったのか理由は分からないものの、黄金色の畑の妖精さんはいつにも増してやる気を出している。二割増しの速度で動く畑の妖精さんたちの顔は輝いていた。いや、黄金色だから陽の光に反射すれば輝くのだが……やる気が漲っているのだ。
お野菜がたくさん穫れるのは有難いことだ。エルとジョセの天馬さま方とジャドさんたちグリフォンさんたちも遠慮をしなくて済む。侯爵邸内で消費する野菜も賄えるから、一石二鳥であるはず。
お昼を過ぎ、私は東屋でお茶を飲んでいた。
近くではユーリがボール遊びをしている。今日はアンファンがユーリの相手を務めているから平和だ。毛玉ちゃんたちはユーリが嫌がっていると悟ってくれたようで、彼女との遊び方に変化がある。
手加減をしてくれるようになったし、ユーリの機嫌を伺う回数が多くなっていたのだ。だからユーリは以前のように『勝てない!』と叫ぶこともなくなっている。偶に毛玉ちゃんたちが遊びに夢中になって失敗することもあるけれど、大きな成長を遂げたのではないだろうか。アストライアー侯爵領領主邸の昼下がりの庭は至って平和だと私は目を細めて、お茶請けのクッキーをひとつ手に取った。
「領都に新しい店が開くなんて驚きだよね」
私はクッキーを持っまま、側でお茶を飲んでいるジークとリンに視線を向ける。
「王都にある焼き菓子の店だったか」
「運良く空いてるところがあったらしい」
ジークが肩を竦め、リンもクッキーに手を伸ばした。今日のお茶請けは新しく開いたお店の品である。せっかくだから味見をしてみようと、買ってきて欲しいと頼んでいた。
王都にある焼き菓子店の支店となり、同業他社に売り上げを奪われ起死回生のためにアストライアー侯爵領に出店したとか。商売だから競合が起きるのは仕方ないことである。私は商売に詳しくないけれど、流行り廃りでお店の売り上げが左右されるのだろう。新規出店はお金が掛かることだし、支店となったお店で売り上げが確保できると良いのだが。
私とリンは手に持ったクッキーを寄せて乾杯もどきをする。そして手に持ったクッキーを口へと運んだ。柔らかいクッキーのようで、口の中でほろほろと崩れていき、甘さも同時に広がった。少しもさもさしているけれど、紅茶があれば問題はない。
「美味しいのにね」
「ね」
美味しいクッキーだというのに王都のお店では売り上げが落ちていることが信じられない。でもまあ王都は流行の最先端であり、各店舗がしのぎを削っている。手を抜けば直ぐにお客さんにバレるだろうし、本当に商店の経営は大変なのだろう。私がお店を経営すると即潰れそうだなと苦笑いを浮かべていれば、ユーリがこちらにトコトコと歩いてくる。アンファンはそんなユーリの後ろをゆっくりと付いてきていた。
「ナイおねえさま。わたしもくっきーたべたいです」
ユーリは机の側で立ち止まり、お皿の上に置いてあるクッキーを首を伸ばしながら覗いている。食いしん坊は誰に似たのやらと私は苦笑いを浮かべ、ユーリに座って食べようかと告げた。そして机の真ん中に置いてあったお皿をユーリの下へと寄せる。
「夜ご飯を食べなきゃいけないから、三枚までだよ。ユーリはどれが食べたい?」
私はユーリが手を洗っていることを確認して、選んで良いよとお皿を更にに寄せた。ユーリが寄せられたお皿にキラキラした視線を向ける。けれど三枚しか選べないことでユーリはこてんと顔を傾かせて動きが止まった。大丈夫かとジークとリンと私とクロとアズとネルの視線がユーリに刺さった。
選ばなければ、永遠にクッキーを食べられないことをユーリは理解しているようで、顔を顰めたのちにお皿に手を伸ばす。
「…………これと……これ……ん」
苺のジャムが乗っているクッキーと柔らかいクッキーを選んだユーリだけれど、三枚目を決められないようである。ゆっくり選べば良いよと私がユーリに声を掛けるものの、真剣に選んでいるのか聞こえた様子はない。
『真剣だねえ』
「どれを選ぶかな?」
クロと私がユーリを見ながら笑う。ジークとリンも三枚目を決められないユーリに微笑んでいた。まだまだユーリは幼い子供だ。アンファンくらいの年齢になれば、好きな男の子ができたとか話すようになるのだろうか。
「いや、そんなことは……」
『どうしたの、ナイ?』
「……ユーリに彼氏ができたらどうしようって」
いや、彼氏ができても良いけれど、変な人でないか心配である。妙な人に捕まらないよねえと、まだクッキーを選べないユーリを私は見つめた。
「気が早いな」
「ね。まだまだ先のことだよ、ナイ」
そっくり兄妹は肩を竦めて、私にまだまだ先のことだから、今から心配しても仕方ないと慰めてくれる。私たちの心配を他所にユーリがようやく三枚目のクッキーを決めて『これにします!』とへらりと笑った。
親の心子知らずというか、私の悩みがユーリに届くことはないようだ。私が苦笑いを浮かべると、ユーリは苺ジャムが乗ったクッキーを頬張る。ユーリの口がまだ小さいようで、一気には食べられない。ネズミやリスみたいだと私はユーリを見た。
「美味しい、ユーリ?」
「おいしいです!」
私の声にへらりと笑いながらユーリが答える。乳母の方やアンファンの言葉使いが丁寧なお陰か、ユーリも丁寧な言葉使いで喋っている。十年後、ユーリが荒れた言葉使いになっていたら、私はショックで倒れそうだ。
まあ、ジークとリンが言った通りまだ先のことだから、心配はその時になってからにしよう。私はユーリの頬に付いたクッキーのクズを指の先で取り払う。
「そっか、良かった」
私がクッキーのクズを口に含めば、ユーリがきょとんとしてからへらりと笑った。可愛いなあと私が目を細めていると、どこからともなくヴァルトルーデさまが現れた。お茶とクッキーの匂いに釣られたのかと私はヴァルトルーデさまの方へ視線を向ける。ヴァルトルーデさまは私の前に立ち『ナイ。これ』と告げて、手に持っていたストールを差し出した。どうやら冷えるから肩に掛けろと言いたいらしい。
「ありがとうございます」
私はヴァルトルーデさまからストールを受け取って肩に羽織る。それを見たヴァルトルーデさまは一つ頷いた。
「じゃ」
短く声を上げたヴァルトルーデさまが踵を返す。そして距離が開いたあと、私はテーブルの方へと視線を戻して片眉を大きく上げる。
「ヴァルトルーデさまがおかしい?」
私の声にジークとリンが小さく右に首を傾げた。クロも右に首を傾げて声を上げる。
『どこが?』
「クッキー食べたいって言わなかった」
いつもであれば、腹ペコ女神さまは必ずクッキー食べて良いと聞いたはず。だというのになにも聞かずに去って行くとは。
「天変地異の前触れ?」
『それは失礼じゃないかなあ?』
とりあえずヴァルトルーデさまの様子が変ではないかとジルケさまに聞いてみよう。




