1691:おや、ようすが。
フィーネさまがベナンター子爵家のタウンハウスへと戻り、アリアさまとロザリンデさまもアストライアー侯爵邸の別邸へと帰って行き、本邸は少し静かになっている。転移で戻るのもアリだけれど、各領地にお金を落とすためと挨拶周りをするため時間を掛けて馬車に戻ることになっていた。
各領地の特産物が仕入れられるし、お薦めのお店や食べ物を楽しむこともできるので結構楽しみにしている。周囲の皆さま、特に屋敷の皆さまから『早く子供ができないかなあ』という視線を受けているので、移動中は少しマシになるだろうと期待していた。
エーリヒさまとフィーネさまが子供を儲けることに制限を掛けているのは、そろそろ伯爵位へ陞爵する話があることも影響しているらしい。今、子供を妊娠するといろいろと制限を受けてしまい、夫婦揃って陞爵式に出られないのも不味いよねということで半年先に延ばしているとか。
たしかに悪阻とかあるだろうし、陞爵式で体調が悪ければ皆さまに心配を掛けてしまう。一理あるなあと私が王都にあるアストライアー侯爵邸の自室で目を細めると、クロが寝床の篭の中でこてんと首を傾げる。
『ねえ、ナイ』
「どうしたの、クロ?」
神妙な顔でクロが私の名を呼ぶのだが、なにかあったのだろうか。ヴァナルと雪さんと夜さんと華さんと毛玉ちゃんたちも寝転がっていた床から立ち上がり、私の側にちょこんと座った。毛玉ちゃんたちは鼻を上げて、すんすんすんすんと私の匂いを嗅いでいる。昨日、きちんとお風呂には入ったし、今日は激しい運動もしていない。臭うようなことはないのにと首を傾げると、クロがまた口を開く。
『変な感じがしない?』
「変な感じ?」
『うん』
変な感じがするというクロの言葉に私は首を傾げた。特に気になったことはないけれど、まさか幽霊でもいるというのであろうか。いるならいるで、出てくれば良いのだが……生憎、霊感がゼロの私の目で幽霊を捉えることができない。
もし、見えるようになって、追い払えたり、浄化できるようになればどれだけ良いことだろうか。むーと考え込んでいると、預かっている竜の卵さんが私のお腹の位置で動いた気がする。
あれと首を傾げて、私は下げていた袋を服の中から取り出した。ゆっくりと丁寧に袋の中の卵さんを取り出して、手のひらの上に置けば宝石のような丸い卵の一部に変化がある。
「あ、皹が」
丸い卵さんの一部に皹が入っている。まだ姿は見えないし、皹も小さなものであるが、確実に孵るだろうと私は机の上に布を引き、卵さんが落ちないようにと枠を作る。
クロが篭の中から翼を広げて飛び上り、私の肩へと移動した。こてんと首を傾げるクロは嬉しいのか長い尻尾を動かして、私の背をべしべしと叩く。ヴァナルと雪さんと夜さんと華さんは『おめでたい』と尻尾を横にゆっくりと振っていた。毛玉ちゃんたち三頭はまた鼻を鳴らして匂いを嗅いでいるのだが、竜の匂いは分かるのだろうか。みんながいろいろな反応を示す中、クロが反対側に顔を倒して言葉を紡ぐ。
『違和感の正体は卵だったんだねえ。まだ少し時間が掛かりそうだけれど、今日中には卵から顔を出すと思うよ』
「そっか。亜人連合国に連絡をしなきゃね。あと、卵が孵るところを見たい人がいるか聞いてみようか」
クロの言葉に私は席から立ち上がる。ダリア姉さんとアイリス姉さんから譲り受けた連絡用の魔法具はタウンハウスにも領主邸にも設置されているため、問題なく亜人連合国へ連絡を入れることができる。
王都だから商業区にある亜人連合国のお店に駆け込んでも良いのだが、ディアンさまに直で連絡する方が良いだろう。魔法具を使って亜人連合国へ連絡を入れれば、アイリス姉さんが『やほーナイちゃん!』と即応答してくれ、次いでディアンさまが『どうした?』と優しい声色で問うてくれる。
預かっている卵が孵りそうと伝えれば、もう慣れているから問題ないだろうと私たちに任せてくれることになった。信頼されているのは有難いけれど、放置して良いのだろうか。卵を預かった竜の方に知らせなくても良いのかと問えば、どの番が生んだか分からない……というトンデモな返答がくるのだった。
一先ず、卵さんが無事に孵ることを願い通信を切って、屋敷の皆さまに竜の卵が孵りそうだと伝える。するとヴァルトルーデさまが部屋にすっ飛んできて、ジルケさまが少し遅れて入ってきた。
皹が入っている卵に興味深そうな視線を向けるヴァルトルーデさまと、放置しておけば勝手に孵るだろうとおっしゃるジルケさまの姿が凄く対照的である。放置すれば良いと口にする割には部屋にきたジルケさまに苦笑いを浮かべるしかないけれど。そうしてジークとリンもやってきたのだが、他の方はこないのだろうか。
今の面子であれば部屋で卵が孵る姿を見届けても問題は少ないだろう。いざという時は私が障壁を張れば良い。クロも今回は何事もなく終わりそうだと言っているし、女神さま方からも特に言及はない。
一番、興味を示しそうなセレスティアさまは不在だし、アルティアさまは辺境伯家のタウンハウスで過ごしてる。アルティアさまは『見れなかった』と血の涙を流しそうだが、転移で戻るわけにはいかない。ちょっと申し訳ない気持ちになりながら、私は部屋に集まった皆さまの顔を見渡した。
「寝ずの番になりそうかな」
私が肩を竦めるとジークとリンが大丈夫かと心配そうな顔になっていた。
『そうならなきゃ良いねえ。明日、出発でしょ?』
「うん。ちょっと予定に入れちゃってるから変更は難しいかなあ。ジークと婚姻した挨拶回りも兼ねているしね」
まあ、馬車移動だから中で仮眠を取れば良いので、寝ずの番になったとしても問題ないだろう。あとは挨拶の際に寝ぼけていなければ良いだけだ。こればかりはいつくるか分からないものだし、せっかくの誕生を無下にしたくはない。
ちゃんと生まれてくるところを見届けようと私たちは頷いて、先にご飯やお風呂を済ませようかと話し合う。急な予定変更で申し訳ないと屋敷の皆さまに伝えると、仕方ないし、それくらいのことであれば対応できると受け入れてくれた。有難いと私は息を吐き、ジークとリンと私とヴァルトルーデさまとジルケさまはご飯を済ませ、お風呂に入って自室に戻る。
「皹が大きくなっている」
「すげー変わったな」
ヴァルトルーデさまとジルケさまが卵さん二個を覗き込んだ。興味津々といった感じで覗き込んでいて、女神さまっぽさはどこかへ飛んで消えている。以前も卵さんが孵るところに二柱さまは立ち会っていたはずだが、興味は尽きないようだった。
アズとネルも初めてみる仲間が孵る瞬間に期待に胸を躍らせているのか、ジークとリンの肩の上でじっと卵さんを見つめていた。私はそんなみんなの様子に苦笑いを浮かべながら、クロへと視線を向けた。
「嘴がちょっとだけ見えているね」
『だねえ。元気な仔が孵ると良いなあ』
私もクロも皹が順調に大きくなっていることに安堵して、ただただ無事に孵りますようにと願うだけである。毛玉ちゃんたちも興味があるようだから、卵さんをゆっくりと丁寧に床の上へと移動させた。
すると毛玉ちゃんたちが勢い良く卵さんに顔を近付けて、必死に匂いを嗅ぎ取っている。鼻が良い生き物は匂いから相手の情報を読み取ると聞いたことがあるので、毛玉ちゃんたちが必死になるのも分かる。分かるけれど、アズとネルは毛玉ちゃんたちが卵を食べてしまわないかと心配になっていて、ぴーぴー鼻を鳴らしていた。クロは落ち着かない二頭に苦笑いを浮かべる。
『大丈夫だよーアズ、ネル。毛玉ちゃんたちは食べたりしないから~』
クロの言葉に毛玉ちゃんたちが反応して、卵さんから顔を放す。すると毛玉ちゃんたちはクロにむっとした顔を向けた。
『おいちくない!』
『ちっこい!』
『おにゃかふくれにゃい!!』
どうやら毛玉ちゃんたちは小さな卵さんを食べても美味しくないし、小さいから腹が膨れないため今は食べるきはないようである。しかし。
『大きければ食べるんだ……』
クロが口にした通り、卵さんが大きければ毛玉ちゃんたちは食べるようだ。ダチョウの卵くらい大きければ、彼女たちは口にするのだろうか。しかし竜が大きくなれば毛玉ちゃんたちにタダでは食べられないはず。
「やり返されない?」
『そりゃ、食べられたくないなら反撃するよねえ』
私とクロのやり取りに毛玉ちゃんたちが『まけにゃい!』『おにゃかすく、だめ!』『りゅーにかちゅ!』と勝気な言葉を口にする。毛玉ちゃんたちが竜に勝てるのかとヴァナルと雪さんたちを見れば『無謀』『まだ幼いですからねえ』『力の差を理解していないようで』『一度、痛い目を見ても良いのかもしれません』と呑気に口にしていた。私は毛玉ちゃんたちが竜の方に負けている姿は見たくないのだが、はてさて本人……本犬たちはどうなるのやら。もう少し精神面が成長すれば竜に挑むなんて無謀なことだと理解してくれると良いけれど。
「毛玉。無茶を言う」
「フェンリルが竜に勝てるのか?」
ヴァルトルーデさまが苦笑いを浮かべ、ジルケさまが腕を組みながら首を傾げる。個体差もあるだろうけれど、本当に毛玉ちゃんたちが竜の方たちに敵うのだろうかと私はクロを見た。
『どうだろう? 魔力量の差で決まりそう~』
うーんとクロが唸りながら答えてくれた。こればかりはやってみないと分からないというヤツだろう。毛玉ちゃんたちも獣の本能があるから、本当に敵わない相手には飛び込んでいかないはず。とはいえまだ若い個体だから無茶をすることもあるかもしれない。そんなことを考えていれば、ジークとリンが毛玉ちゃんたちを見下ろしている。
「ツバキとカエデとサクラが怪我を負ったところを見たくないな」
「だね。ナイが悲しむ」
そんな話をしながら、まだ孵りそうもないので侍女の方にお茶を淹れて貰う。部屋を訪れた侍女の方は女神さまが二柱いること、竜の卵さんが二個孵りそうになっていることに慣れていないようで、ぷるぷる震えていた。
「そう、緊張なさらず」
「そ、その……ご当主さま……状況的に無理でございます」
私が侍女の方に声を掛ければ、そんな言葉が返ってくる。申し訳ないことをしてしまったが、呼んでしまったのだからお茶を淹れて貰うしかない。が、頑張れーと応援しながら震える侍女の方を見守っていれば、いつもより少し遅くお茶が入った。ティーカップを手に取って、少し冷やしてから紅茶を嚥下する。うん、未だに紅茶の良さは理解できないし、どこの産地とか茶葉とか分からないけれど美味しい紅茶だ。
私が飲んだことを確認した侍女の方はそそくさと部屋を出ていった。そして、みんなでお茶を飲んでいれば卵さんから二頭の竜が孵るのだった。




