1603:顔から火が吹き出る。
――我が娘、ソフィーアへ。
貴女の母であるセシリアはアストライアー侯爵家当主、ナイさまの側仕えとして働き始めて二週間が経とうとしております。貴女からたくさん侯爵家にまつわる話を聞いていたものの、目の前で起きることに驚いてばかり。
先日も天馬さまに気軽に話掛けられて、驚いた私はきちんとした対応を取れずにおりました。その光景を見ておられたグリフォンさまにも『我々に遠慮はいりませんよ』と仰って頂き、なんとも人間より理性のある方たちだと感心してしまいました。
貴女は三年という月日で慣れたと言いますが、私は期間を満了するまでにアストライアー侯爵家の一員として認められるのか。少しばかり不安ではありますが、貴女の母として恥じぬようナイさまに尽くしてまいります。
「短いけれど、こんなものかしらね」
午後三時。温かな風が吹くアストライアー侯爵領領主邸の東屋で私は娘に宛てた手紙を書き終え少し長く息を吐いた。ナイさまは午前中に執務を終えられて、私的な時間を過ごされている。
私も先程仕事を終えて、休憩をしようと東屋で手紙を書きながらお茶を頂いているところだ。元公爵領ということでアストライアー侯爵領領主邸の庭は随分広いのだが、いろいろな気配を感じ取ることができる。
近くではナイさまがユーリちゃんと遊んでおり、二人を見守るように専属騎士の双子が控え、クロさまとヴァナルさまとフソウの神獣さまとその仔たち。更には庭で過ごされている黒天馬さまと赤天馬さまにグリフォンのジャドさまも楽しそうに見つめていた。
「本当に凄い光景を私は目にしているのね」
そう呟いた私は角砂糖を紅茶に二つ追加する。側で控えている侍女が怪訝な顔をしているが、砂糖を追加で紅茶に入れるのは私の習慣である。ハイゼンベルグ公爵家の侍女たちも最初こそ驚いていたが、そのうち慣れてなにも反応しなくなった。だからアストライアー侯爵家の皆さまも私の甘い茶にケチをつける者はそのうちいなくなると、スプーンで紅茶を混ぜたあと、ティーカップを持ち上げて香りを楽しんでから嚥下する。
「美味しい」
うん。先程まで渋みが残っていたけれど、砂糖を入れたことによりまろやかになった。やはり砂糖は偉大だと目を細めていると、大きなグリフォン――といっても屋敷に住んでいる他の成獣グリフォンより一回り小さい――が私の顔を覗き込んでいた。
私は突然のことに驚いて、手に持っていたティーカップの中身を零しそうになるのだが貴族の矜持としてどうにか堪える。私がほっとしていると側にきたグリフォンがこてんと首を傾げて、不思議そうにしていた。
私の目の前にいる個体はどうやら会話を交わせないようである。目元の筋肉が垂れているから、侯爵家の皆さまから『おばあ』と呼ばれている個体のようだ。側に控えている侍女はグリフォンが近づこうとも動じず、私がはしたないことをしているように見えてしまう。心の臓が少し煩いものの平常心を保ち目の前のグリフォンと私はどう接するべきかと思案する。すると『おばあ』と呼ばれている個体がまた首を傾げた。
『ピョエ?』
グリフォンの声を始めて聞いたと私が驚いていれば、目の前の魔獣の背の上で動くなにかがいた。のそのそと起き上がったそのお方は南の女神さまである。どうして女神さまがグリフォンの背で寝ているのか全く理解できないが、失礼があってはならないと私は席から立ち上がった。すると南の女神さまはグリフォンの背の上で、胡坐をかき両腕を天高く伸ばして大きな欠伸をした。ふうと息を大きく吐いた南の女神さまは背に乗ったグリフォンの方へと顔を向けた。
「あれ、おばあ。移動したのかよ」
南の女神さまの声におばあと呼ばれたグリフォンが『ピョエ!』と返事をしていた。南の女神さまは『ナイたちと遊びたくなったのか』と苦笑いを浮かべて、近くにいるナイさまたちの方へと視線を向ける。
そうして南の女神さまはグリフォンの背から飛び降りると私と視線が合う。こてんと右に首を傾げる仕草はナイさまと良く似ておられる。お姿も南の女神さまは黒髪黒目で背格好も一緒だ。姉妹だと言われたなら信じてしまうほどに。私は視線の合った南の女神さまに失礼がないようにと、急いで礼を執り声を上げる。
「み、南の女神さま! ごきげんよう」
女神さまとどのような会話を交わせば良いのか全く分からず、私は一先ず挨拶を告げた。南の女神さまは少し考える素振りを見せながら後ろ手で頭を掻いた。
「ああ、おはよーさん。たしかソフィーアの母親で、セシリアだったな。あたしはナイの家で居候の身だから、女神つって特別扱いしなくて良いぞ。求めてもいねーしな」
少し面倒そうに言葉を紡ぐ南の女神さまだが、娘の話ではそれが普通の態度であるそうだ。南の女神さまより西の女神さまの方が表情の変化がなく感情を読み取り辛いらしい。ナイさまの期間限定の側仕えとなった初日、ご当主自ら私とアルティアを屋敷の中を案内してくれ、女神さまともご挨拶をさせて頂いているのだが、緊張で言葉を交わす余裕などなかった。
今も余裕はないはずなのに、何故か南の女神さまから感じる圧が弱くなっている。しかし女神さまを人間として扱えというのは無謀な話であるし、一体どうすれば良いのだろう。
迷った末に私は先程の南の女神さまの言葉に返事をすべきだと気付く。慌てて『承知しました』と私が言葉を紡げば、南の女神さまは片眉を上げながら肩を竦めた。私の緊張が露見してしまったのかと少し身構えると、南の女神さまはテーブルの上のお茶に視線を向けている。
「なあ。あたしの分も用意して貰って良いか? おばあは遊んでこい。ユーリがいるから、あんまはしゃぐなよ」
テーブルの上のお茶から視線を外した南の女神さまは私を見上げる。そしておばあと呼ばれたグリフォンに南の女神さまが声を掛けると、グリフォンは尻尾をぶんぶんと振り嬉しそうな表情を浮かべた。
『ピョエ!』
軽い足取りでグリフォンがナイさまたちの下へと向かい、側にいた侍女は無言で私に『お茶を用意することは可能です』と伝えている。もしかして、もしかしなくても南の女神さまと一緒にお茶を嗜むことになるのかと、私の背中に汗がたらりと一筋流れた。
南の女神さまと多少は言葉を交わしたことはある。とはいえ、それは社交辞令のようなものだし、他の面々、特にナイさまが一緒にいてくださっていた。まさか南の女神さまと私とでお茶を飲むことになるなんて、一体誰が想像できるだろう。もしかすると私は聖王国の聖職者よりも神的な地位が高くなるのでは……と妙なことを考えてしまう。
「おやつの時間だからなーなにか食べねえとって……おい、セシリア。大丈夫か?」
気が付けば南の女神さまが私の顔を覗き込んでいた。失礼な態度を取ってはいけないというのに、私としたことが……貴族の風上にもおけないと背筋を伸ばす。
「い、いえ! 直ぐに茶を用意させますわ」
我に返った私は側にいる侍女に声を掛ける。侍女は手慣れた様子で茶を淹れているのだが、女神さまを前にして緊張しないのだろうか。南の女神さまは『リョクチャじゃねえか』と少し残念そうにしていた。
そういえば以前、フソウのリョクチャが美味しいと仰られていたような。そして真っ黒な物体を好んでおられるとも。気を利かせて、リョクチャを淹れさせれば良かったかと思うが、もう遅いので紅茶で我慢して頂く他ない。気を取り直して私は南の女神さまの方を見る。
「女神さま。どうぞ、お座りくださいませ」
「おう、セシリアも座ろうぜ。前にも言ったが、あたしのことはジルケで良い。屋敷の連中はそう呼んでいるから気にするな」
着席を薦めた私に南の女神さまがとんでもないことを申し出てくださった。確かに以前、名前で呼ぶようにと仰ってくれたものの、そう簡単に女神さまを名前で呼べるはずもなく。名前がないからと言ってナイさまが仮名を贈ったことも承知しているが、それでもやはり恐れ多いのだ。とはいえ女神さまは私を憶えてくださり、きちんと名前を呼んでくださっている。
「失礼致します、ジルケさま」
「おう。さま付けも要らねえけどなあ。ナイが呼び捨ててくれねーから諦めるしかねえ」
おそるおそる着席した私にジルケさまがとんでもないことを口にした。女神さまを呼び捨てにできようはずもないが、ナイさまであればいつか呼んでいそうである。私は一生無理だと苦笑いを浮かべると、地面から凄い音が聞こえてきた。
聞こえてくる音は馬が大地を駆ける蹄ではと、視線を音が鳴る方へと向ける。私と一緒にジルケさまも『なんだ?』と首を傾げながら音が聞こえた方へと顔を向けていた。視線の先には大きな黒い馬、ではなく大きな黒天馬がこちらに向かって駆けてくる。六枚の翼を広げる姿は神秘を描いた絵画より、美しい光景であろう。ただ一つを除いて。
「ルカさま! 風の精霊の如く、凄まじい脚の速さですわ!」
大きな黒天馬、ルカさまの背にはアルティアが嬉々とした表情で騎乗している。しかも鞍もなく、足の力だけで放り投げだされないように踏ん張っていた。本当に神秘より神秘を見ていたはずなのに、アルティアという存在が感動を台無しにしてくれる。
「…………アルティア。なにをなさっているのです……辺境伯夫人とあろうものが……!!」
私がアルティアの破天荒さに呆れていると、ジルケさまが喉を鳴らして笑う。
「セレスティアにそっくりだよな、アルティアは。しばらくナイの下を離れるからつって、セレスティアもルカに乗って庭を爆走していたぞ。そういやあ、ナイに許可も取って領内を一緒に飛んでたな」
ジルケさまが懐かしそうに目を細めながら言葉を紡いでいた。しかしヴァイセンベルク辺境伯母娘は揃いも揃ってなにをしているのだろう。許可を出すナイさまもナイさまであるが、許可を求める母娘も母娘である。はあと私が軽く溜息を吐いている間に、ジルケさまの興味は用意していた茶菓子に移ったようである。私が手を付けて少し品揃えが悪くなっているのだが、ジルケさまは全く気にも留めていないようだ。
「これはなんだ?」
「王都で有名な焼き菓子の店の品ですわ」
物珍しいのかジルケさまの目が輝いている。こういうところもナイさまに似ていらっしゃるのだが、こんなことになるのであればもっと良い品を準備しておけば良かっただろうか。
本日の茶菓子はフィナンシェが美味しい店のものだが、王都には他にも菓子店が存在しており、貴族家に取り入ろうと菓子の研鑽に余念がない。今、出している店の品を女神さまが興味を持ったと知れば、店の者は腰を抜かしそうである。
ジルケさまは私に食べても良いかと許可を取った。そんなことは必要ないというのに律儀なお方である。どれが一番美味しそうかとジルケさまは迷った末に、一番大きそうな品を手に取って口へと運ぶ。何度か咀嚼し嚥下すれば、ジルケさまの顔が緩くなる。
「お、美味い」
「それはようございました」
へらりと笑うジルケさまに宜しければ他のものも賞味くださいと伝えれば、凄く嬉しそうに『良いのか?』と問うてくれる。何故か小動物を餌付けしている感情が湧いてしまい、私は目の前のお方は女神さまであると強く念じた。ジルケさまが交互にお茶とお菓子を楽しんでいお姿を見ながら私も紅茶を嚥下した。すると背後に気配を感じて、私は後ろに振り返る。私の視界に西の女神さまがこちらへと歩いてくるお姿が映っていた。
「セシリア、末妹の面倒を見ているの? 大変だ」
少し揶揄いを含む西の女神さまの声にジルケさまがむっと顔を顰める。私はどうすれば良いのか分からず、黙って状況を見守る他ない。
「なんだよ、姉御。あたしは迷惑なんて掛けてねえぞ!」
ジルケさまの反論に西の女神さまが『本当に?』と首を傾げていた。そして西の女神さまは出されていた茶菓子に目を向けている。どうやら西の女神さまも甘い物には目がないようで、食べたそうにしておられる。
私は『お茶は如何でしょうか?』と西の女神さまに声を掛ける羽目になった。いや、羽目になったというのは失礼かもしれないが、二柱さまが同席している茶の席というのは如何なものだろう。誰にも経験できないことを私は成していると感慨に耽っていれば『素敵ですわ、ルカ!』と叫ぶアルティアの声がまた耳に届いた。がくりと項垂れる私にジルケさまと西の女神さまは苦笑いを浮かべた。
「本当に元気だよなあ」
「セレスティアそっくり」
「申し訳ございません…………!」
顔から火が吹き出そうだと私は二柱さまの方を見られなかった。




