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005


 結局、俺はこの日、立つことすらできず、ベルトスにスグリのじいさんの家まで運ばれた。


 スグリのじいさんはため息をつきながらも、箪笥の中から強烈な臭いのする変な緑色の軟膏のようなものを取り出して僕の体に塗りつけて、薄手の布を貼った。


 においは鼻が曲がりそうなくらいキツかったし、第一、軟膏を塗っただけで治るわけがない、と思っていたのだが、不思議なことに一晩するとすっかり元気になってしまった。どうやら、この体はかなり丈夫にできているようだ。


 それなら、こんなことにならなくてもよかったのではないだろうか?


 たしかにこの体になる前はあんな重い荷物を持てなかったとしても、ベルトスの親父が言っていたように子どもでも袋二つくらい平気に持っていた。


 なのに、どうして俺は持つことができなかったのだろうか?


 この体の本来の持ち主が働いていなかったのだろうか? それとも、自分の意識につられて本来出せるはずの力がうまく出せないのか? 俺にはよく分からなかった。


「やっぱり、お主には無理じゃったかのう?」


 スグリは泥みたいな何かを焼いたものを頬張りながら、僕にそう尋ねた。


「俺がこの仕事を続けられないって分かっていたんですか?」

「いや、お主なら腰を痛めたふりして逃げてくると思った。まさか、本当に腰をくじいたのか?」

「そうですよ! あんな大量の荷物をふつう運べますか!? そんなことできていたら苦労なんかしていません」

「まったく、どんな生活をしたらこんなひ弱な人間になるんじゃ? よくわからんわい」

「ひでぇな! あんた!」

「ひどくはないじゃろ? わしは当たり前のことを言ったにすぎんわ」

「まぁ、ここじゃ、当たり前かもしれないけど、別にあれくらい持てなくてもやっていけるところはあるんだ!」

「そんな楽な人生あってたまるか」


 小さいながらも、やけに強い声に気圧されて僕は黙り込んでしまった。僕はすっかり静かになってしまった部屋の中で泥みたいな何かを焼いた物に齧り付いた。


 ******


 結局、その日の仕事は休むことにした。スグリも「その軟膏はすぐに効くものじゃないから決して無理はするな」ときつく言いつけてどこかへ行ってしまった。


「ベルトスさんに休むことを伝えなくていいのか?」と尋ねると、「そんなことは明日にでも言えばいい」といわれてしまい、硬いベッドの上で一人寝転がっていた。


 そんなとき、ふとあの絵のことが頭に思い浮かんだ。


 そうスグリのじいさんの家の前にある隠し扉に描かれた絵のことである。


 正直言って、ここで生活してから何か物足りなかったのだ。食べるものはあの泥のような何かを焼いたものだし、飲み物もあの苦いお茶。本を読みたくても、この家には本はおろか字が書かれたものが一切見当たらなかった。


 そうなると、自然とこの部屋に描かれた騙し絵と、あの隠し扉の絵しか暇を潰せそうなものが無かった。


 騙し絵は毎日のように見るのだが、隠し扉の方はあまり見ることができなかった。隠し扉の前に立つとすぐにスグリの「早く入らぬか」という冷たい声が聞こえてくる。


 こういうときしかあの絵をじっと見ることはできない。


 そう思った僕は起き上がって、隠し扉の方に向かった。


 隠し扉を閉めて、改めて女性の描かれた絵を見る。


 たしかに上手だ。どこか著名な画家が描いた作品だと言われても普通に信じてしまうだろう。


 いや、それ以上にモデルがいいのかもしれない。誰がモデルなのかは知らないけれど、もしこの人に出会ったら一度はその人の顔から眼を逸らし、次は数秒ほどその人の横顔をじっと見て、それからその人の後姿を凝視してしまいそうなくらいだ。


 うん。こういうときにスマホでもあればよかったんだけどな。そして、写真を何枚か撮ってその中でも写りがいいものを壁紙にしている。


 けれど、ここにはスマホがないからこうしてその顔を見つめることしかできなかった。ふとした時に見られないのなら、せめて、心の中にとどめておきたいと思ったのだ。


「おい。スグリのじいさんはいるか!?」


 そんな声が外から聞こえた。その声がする方に向かうと、そこにはどこかで見覚えのある若い男が立っていた。たぶん、食料の運搬の際にすれ違ったから見覚えがあるのだろう。その男は僕を見るなり嫌そうな顔をした。


「なんだ。リョーかよ。スグリのじいさんはどこにいるんだ? さっさと答えろ!」


 男はいきなり僕の胸ぐらを掴んでそう尋ねた。


 いや、いくら冷静じゃなくてもどうしてこう人の胸ぐらを掴んで答えを強要するのだろう? いきなり掴まれて堪えられるわけないのに……。いい加減、早く放してほしい。


「なんじゃ? エインリッヒ。さっさとリョーの襟ぐりから手を放せ」


 どうやら、スグリが帰ってきたようだ。


 すると、エインリッヒと呼ばれた男は僕の胸ぐらから手を放した。


「てっきり、あんたは長老衆のために絵を描きに行ったのかと思ったが、違ったのか?」

「べつにわしは毎日、あやつらのために絵を描いておるわけではないわ。毎日、体を鈍らせないように運動して居るわい。──ところで、お主は何をしに来たのじゃ。まだ、仕事の時間じゃろ? ひょっとして、こやつを使いたくて来たのか? 正直、今は怪我をして使い物にならないぞ」

「違う。こいつがいても全く役に立たねぇ! そんなことよりあんたたしかアテルマ除けの薬を持っていただろ?」

「なぜそれが必要なのじゃ? ──ひょっとして、アテルマが出たのか?」

「そうだよ! 出たんだよ! あいつらやりやがった。落とす餌を減らしておいて、俺たちが上の方に来るよう誘っていたんだ。ベルトスの親父もほかのみんなもかなりやられた! あいつらがここに手を伸ばす前に早く!」

「分かった! すぐに用意する」


 スグリはそう言って、隠し扉の中に入った。


「そういえば、お前、今日は来なかったな。どうしてだ?」

「昨日腰を痛めたんだよ」

「そうかい。まったくひ弱な野郎だぜ。なのに、どうしてミヌエットのやつはこいつを?」


 また、ミルエットだ。みんなしてミヌエット、ミヌエット。いったいミヌエットが僕と何の関係があったのだろう? 僕がミヌエットのことについて尋ねようとすると、スグリが出てきた。


「お主ら仲があまり良くないのじゃな」

「良いわけないだろ? 第一、こいつは村八分にされたはずだ。あんたが匿っていなかったら、とっくの昔に誰かがこいつを殺していたよ」

「それよりさっさと案内せい」

「はいはい」


 スグリの目に屈したのか、エインリッヒは肩を竦めた。


「リョー」

「なんだ?」

「これから向かうところは危険じゃ。あまり来ない方がいいと思うが来てみるか?」


 いつになく真剣な眼差しを向けられた僕は少し考えてから答えた。


「あぁ、ついていく」


次回は22時更新予定です。

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