07:ありえぬ痛み
「さあ⋯⋯始めましょう⋯⋯ゆーくんにまとわりつく、悪い虫たちのお掃除を⋯⋯」
絶望的な戦力差。そして、変わり果てたサブリーダーの姿。
『マスカレネウス討伐戦』は、今『暗黒の巫女討伐戦』へとその姿を変えた。
マスカレネウスの肩の上で、黒いサクラは歪んだ笑みを浮かべ、眼下のカーマインスピリットのメンバーたちを見下ろす。
「ゲームじゃない、本当の痛みを教えてあげる⋯⋯」
その言葉と共に、彼女が支配下に置いたレイドボス・マスカレネウスが咆哮し、巨大な戦斧を振り上げた。
「くそっ⋯⋯! 全員戦闘陣形! マスカレネウスを先に叩くぞ!」
リーダーであるユートの檄が飛ぶ。
混乱の中でも、カーマインスピリットのメンバーたちは即座に反応し、それぞれの役割に応じた陣形を組もうとする。
アタッカーが前衛に、ヒーラーと後衛が距離を取る。
もちろん、タンクである神聖騎士のユートが最前衛だ。
しかし、黒いサクラはそれを嘲笑うかのように、マスカレネウスに指示を出す。
「マスカレネウス⋯⋯あの鬱陶しい虫たちを、潰してしまいなさい⋯⋯」
ゴオオオオオオッ!!
命令を受けたマスカレネウスが咆哮し、巨大な戦斧を振り下ろす。その一撃は大地を割り、衝撃波だけで周囲のプレイヤーを吹き飛ばすほどの威力を持っていた。
「うわっ!」
「防御!防御魔法展開!」
メンバーたちは必死に防御スキルや魔法を展開するが、マスカレネウスの圧倒的な攻撃力の前に吹き飛ばされ、陣形は一瞬で崩壊する。
「回復! エリス、回復を頼む!」
ユートは叫びながら、吹き飛ばされたメンバーに駆け寄ろうとする。
「わかってる!」
エリスも必死に回復魔法を詠唱するが、マスカレネウスの攻撃は止まらない。
さらに、肩の上の黒いサクラからも、黒紫色のエネルギー弾が雨のように降り注ぎ、回復を妨害してプレイヤーたちを的確に狙い撃ちしてくる。
「カイくん、右!」
弓術士のアカリが叫ぶ。
双剣士のカイがマスカレネウスの薙ぎ払いを辛うじて回避するが、その隙を突くように黒いサクラのエネルギー弾が彼の足を撃ち抜く。
「ぐあっ! いだっ!? なんだこれ、ゲームなのに⋯⋯すげぇ痛ぇ?!」
カイは足を抑え、信じられないといった表情で叫びながら体勢を崩す。普段のEIOでは感じないはずの、リアルな激痛が彼を襲っていた。
「モモちゃん、危ない!」
アカリが叫んだ直後、魔法詠唱中だった召喚術師のモモがマスカレネウスの拳の直撃を受け、弾き飛ばされる。
「痛い⋯⋯いたいよぅ⋯⋯」
彼女は涙ながらに呟き、HPがゼロになってその場に倒れ、戦闘不能状態を示すグレーのアバター表示になった。
「モモ!?」
「くそっ、モモちゃんがやられたっす! しかも、なんなんすか!? 今の痛みは⋯?!」
カイの苦痛の声とモモの最後の言葉に、他のメンバーたちも動揺を隠せない。
次々と仲間たちが倒れていく。
槍術士アスマが果敢に突撃を試みるもマスカレネウスの強固な鎧に阻まれ、魔法剣士カノンの魔法剣による攻撃も黒いサクラの放つ不可視の障壁に防がれる。
そして攻撃を受ければ、普段とは違う生々しい衝撃と痛みに動きが鈍る。
ヒーラーはエリス一人のため、回復も追いつかない。
彼女自身も、回復魔法をかけようと近づいたメンバーが攻撃を受け、その余波で飛んできた破片が腕を掠めた際に、焼けるような痛みを感じていた。
(おかしい⋯⋯! スパイスの痛覚設定が異常に上がってる⋯⋯!これは外部からのシステム干渉⋯⋯?!)
黒いサクラは、その阿鼻叫喚の光景を高みから楽しげに眺めている。
まるで、お気に入りの人形を壊して遊ぶ子供のように。
「もうダメだ⋯⋯撤退しよう!」
誰かが叫ぶが、レイドゾーンからはボスを倒すか全滅するまで脱出することはできない。
完全に閉じ込められたのだ。
黒いサクラの攻撃は、依然としてエリスに集中していた。
ユートが必死に盾で庇うが、その防御を掻い潜るように、あるいはユートを傷つけないギリギリの軌道で、的確にエリスへと攻撃が仕掛けられる。
盾越しに伝わる衝撃も、いつもより格段に重く、骨に響くような鈍い痛みを伴う。
(いつものEIOならこんなリアルな痛みを感じないはずだ⋯!この空間自体がおかしいのか?!)
ユートのHPも確実に削られていく。
「ユート、もう無理だよ⋯!みんなも⋯!」
エリスが悲痛な声を上げる。周囲を見渡せば、立っているメンバーは既に数えるほどしかいない。ほとんどの仲間が戦闘不能に陥りグレーアウトする者、戦闘不能まではいかないものの、苦痛に呻いている者もいる。
(ここまでするのか、姉ちゃん⋯⋯!? いや、違う、あれは桜華姉じゃない⋯⋯! でも、このままじゃ⋯⋯!)
ユートは歯を食いしばる。圧倒的な力の差。なす術がない。
どう考えても勝ち目のない戦いだ。
「エリちゃん⋯⋯邪魔者は⋯⋯もういらないわね⋯⋯」
黒いサクラは満足げに戦況を見下ろし、最後に残ったユートとエリスに視線を向けた。特にエリスに対しては明確な殺意を込めて杖を振り上げる。
「やめろおおおっ!」
ユートは最後の力を振り絞り、エリスの前に立ちはだかろうとする。
その瞬間だった。
黒いサクラの動きが、ピタリと止まった。
彼女の表情から嘲るような笑みが消え、代わりに苦悶とも困惑ともつかない色が浮かび、自分のこめかみを抑えるように頭を掻きむしった。
「⋯⋯な⋯⋯に? この⋯⋯かんかく⋯⋯は⋯⋯?」
彼女自身の内部で、何かが起こっているかのようだった。まるで、黒いサクラの中で誰かの意識が、この暴走を止めようと必死に抵抗しているかのように。
「邪魔⋯⋯するのね⋯⋯あんたは心の奥で、眠っていたハズなのに⋯⋯」
黒いサクラは忌々しげに呟くと、エリスへのとどめを諦めたように杖を下ろした。
サクラの中の誰かからの抵抗か、あるいはユートがまだ立ちはだかっているせいか、これ以上の攻撃は困難だと判断したのかもしれない。
「⋯⋯今日は⋯⋯ここまでにしてあげる⋯⋯。でも、ゆーくんは、わたしのものよ⋯⋯誰にも渡さない⋯⋯」
黒いサクラは、ユートに向けて歪んだ執着の言葉を残すと、マスカレネウスの肩の上からふわりと飛び降り、その姿を黒い霧の中へと溶かすように消え去った。
主を失ったマスカレネウスも、咆哮と共に溶岩の中へと沈んでいき、レイドゾーンには不気味な静寂と、打ちのめされたカーマインスピリットのメンバーたちだけが残された。
戦闘は終わった。完全な敗北だった。
ユートとエリスは、かろうじて立ってはいたものの、満身創痍だった。
他のメンバーたちも、多くが戦闘不能状態から回復できずにいる。
リアルな痛みの記憶と、変わり果てたサブリーダーの姿、そしてその圧倒的な力に打ちのめされ、誰もが言葉を失っていた。
仲間だと思っていたサブリーダーに、一方的に蹂躙され、リアルな苦痛を与えられた。
メンバーの心には、サクラ(桜華)に対する恐怖と不信感が刻み込まれてしまっていた。
「⋯⋯ログアウトしよう、みんな。今は、どうしようもない⋯⋯」
ユートは、疲労しきった声で言った。クランの仲間たちの視線が痛い。
エリスも力なく頷く。
EIO世界から現実へと戻った悠斗は、敗北感に打ちひしがれていた。
仮想空間での戦闘とはいえ、あの絶望的な状況と精神的なプレッシャー、そしてまだ微かに残るような幻痛は、現実の肉体にも無視できない負荷を与えていた。
(桜華姉⋯⋯黒いサクラ⋯⋯マスカレネウス⋯⋯結局、何もできなかった。仲間も守れなかった⋯⋯あの痛みは、一体⋯⋯?)
瞼を閉じても、脳裏に焼き付いているのは、禍々しいレイドゾーンの光景と、変わり果てた桜華姉の姿、そしてリアルな痛みに苦しむ仲間たちの姿だった。
(クソッ⋯⋯!)
拳を握りしめるが、今はただ無力感に苛まれるだけだ。
疲労困憊の体を無理やり起こし、シャワーを浴びて少し気分を変えようとした時、ふと机の上に置いてあったスマートフォンが目に入った。
着信があったことを示すランプが点滅している。
(誰からだ? エリスか?)
手に取って画面を確認すると、予想とは違う名前が表示されていた。
LINKアプリに、知らないアカウントからのダイレクトメッセージが届いている。
アカウントネームは『リョウ』
アイコンは設定されていないのか、デフォルトのグレーの人影マークだ。
(リョウ⋯⋯?誰だ⋯⋯?)
警戒しつつも、メッセージを開く。
そこに書かれていたのは、短く、しかし今のユートの心を激しく揺さぶる一文だった。
――瀬島桜華の居場所がわかるかもしれない――
「なっ⋯⋯?!」
ユートは思わず声を上げる。
桜華姉の居場所?このタイミングで?いったい誰が、どうやって⋯?
罠かもしれない、という疑念も頭をよぎる。
だが、今のユートにとって、それは無視できない一条の光にも思えた。
すぐにエリスにも連絡を取り、この『リョウ』と名乗る人物と会ってみることを決めた。




