16:虚無の境界線
悠斗の制止も虚しく、エリスが駆るクロスカントリー車両は唸りを上げて走り出す。
地下駐車場を飛び出した瞬間、視界が開けると同時に、そこには崩壊した新軸の街並みが無残に広がっていた。
本来ならば人でごった返しているはずの東京有数の繁華街。精緻なデザインの建物は、もはや瓦礫を生み出す廃墟に過ぎなかった。
道路に散乱する瓦礫を弾き飛ばし、アスファルトを噛み締めるタイヤの振動が、激しい衝撃となって車内を揺さぶる。
さらには車体をガードレールに激しく擦りつけ、ガリガリと大きな擦過音を響かせながら、車両は廃墟と化した大通りを疾走した。
緊張のあまりアクセルを踏み込むエリス。急加速によってエンジンの咆哮が車内に響き渡る。
彼女の荒い呼吸音が悠斗の耳元にまで届く。横顔は蒼白で、額には脂汗が滲んでいる。
ステアリングを握りしめる細い指は、節々が白く浮き上がり、まるで獲物を掴む鷹の爪のようだった。
「エ、エリス、落ち着いて! そんなに飛ばしたら、危ない!」
「ボ、ボクは落ち着いてる! 落ち着いてるよ…⋯!」
車体はガードレールに接触するたびに耳障りな金属音を響かせ、火花を散らしたが、エリスがアクセルを緩める気配は微塵もなかった。
(⋯⋯か、完全にテンパってる!)
道の真ん中をゆるゆると徘徊していたアンドロイドを何体か、ボウリングのピンのように撥ね飛ばし、倒れた個体を踏み越える生々しい感触が床下から伝わってきたが、悠斗はあえて思考を遮断した。
鈍い衝撃がサスペンションを通じて伝わるたび、胃の奥がせり上がるような不快感が悠斗を襲う。
(⋯⋯人間じゃなくて、そして夢で本当に良かった⋯⋯)
そう自分に言い聞かせることで、この狂気に満ちたドライブから理性を保とうと必死だった。
悠斗は助手席で、アシストグリップを掴み、ベルトで体を必死に固定しながらナビゲートを続けた。目標は新軸区外。一番近そうな式場区方面へ向かうのが最善だ。
とは言え、悠斗自身も車の運転経験があるわけではない。
いまいち正確な方向感覚に欠けていた。頼りになるはずの標識も無残に折れ曲がっていたり、瓦礫の山に埋もれていて判読不能なものが多い。
「一旦、新軸駅の西口に出てみよう! 駅のロータリーを抜けて、そのまま線路沿いの道を行けば、式場区の方に出られるはずだ!」
「シンジク⋯⋯シキバ⋯⋯了解⋯⋯っ!」
必死に応答するエリスの声は、完全に上ずっている。
盗み見ると、彼女の目は恐怖と集中で完全に座っていた。
場所の名前で言われても、悠斗よりもずっと土地勘がない彼女には酷な指示だったのだと、悠斗は冷や汗を流しながら反省した。
「あの信号を右だ! その次の交差点は真っ直ぐ! 突き当たったら、また右に曲がってくれ!」
指示を具体的な動作に変えると、エリスはそれに必死に応えた。
下手に止まって位置を確認しようとすれば、どこからともなく現れるアンドロイドの群れに囲まれてしまう。瓦礫を避け、ときには乗り越えながら、エリスは必死の形相でハンドルを切り、アクセルを底まで踏み続けた。
なんとか、見覚えのある新軸西口駅前の広場に出ることができた。
かつての賑わいが嘘のように静まり返ったロータリー。巨大な墓標のように佇む駅舎を左手に見ながら、甲州街道と思われる大きな道を真っ直ぐ進む。このまま行けば、式場区に入れるはずだ。
(これで、この悪夢を終わらせることができるかもしれない。そしたら、リアルのエリスに会って⋯⋯いや、今はそんなことを考えている場合じゃないッ!)
悠斗は必死に気を引き締めた。順調に進んでいる、そう思いたかった。
だが、あともう少しで式場区との境界線に入るというあたりで、エリスは唐突に急ブレーキを踏んだ。タイヤが悲鳴を上げ、車体が激しくノーズダイブする。前のめりになった身体をシートベルトが強く締め付けた。
「エリス、どうしたんだ!?」
「道が⋯⋯道が、無いの」
エリスが指差す前方を見やり、悠斗は言葉を失った。
道路が、まるで巨大なナイフで切り取られたかのように、唐突に途絶えている。
その先には、地面も、建物も、空すらも存在しない。そこにあるのは、色彩を拒絶したような、どこまでも続く、真っ白い虚無の空間が広がっているだけだった。
境界線のエッジはデジタルノイズのように細かく震え、世界の終わりを告げていた。
境界線に触れている建物や瓦礫、そして車両。それらが音もなく境界線の向こう側でポリゴンと化し分解されていくのが見える。
「これは⋯⋯もし俺たちがあの先に踏み込んだら⋯⋯」
この恐るべき光景を目にし、悠斗の声が震えていた。
「⋯⋯安全とは言えないと思う。ボクたちのこのアバター体もポリゴンになって分解されてしまうかもしれない」
「もし分解されたら⋯⋯やっぱり『死んだ』ってことになるのかな?」
悠斗の恐る恐るの問いに、エリスは伏し目がちに首を振った。
「⋯⋯今までの感じだとそうなりそうだけど⋯⋯この『分解』というレベルだとボクたちの精神にどういう影響がでるかは正直わからない」
エリスの指先は、もはやハンドルを握る力さえ失い、小刻みに震えている。
「やっぱり、夢を脱出した⋯⋯とは見なされない?」
「それは望み薄いかも⋯⋯これは外に繋がる道じゃなくて、世界の終わり。行き止まりってことだもの」
『区外に出れば悪夢から脱出できる』という見立ては崩れた。
それでもエリスは戦慄しつつも、この悪夢の冷酷な構造を必死に紐解こうとしていた。
「ユートの記憶が曖昧な場所、あるいは『新軸区の外』として明確に認識されていない領域は、夢の中でこういう風に処理されてしまうのね⋯⋯」
悠斗は、目の前に広がる白い虚無をじっと見つめた。この『悪夢』の理不尽な仕組みが、牙を剥いて自分たちに襲いかかってくるように思えた。
力なくハンドルから手を離し、エリスが呆然と呟く。
「ユートの記憶にない場所は、この夢の中では詳細には再現されない。移動しなければならない範囲は少なくて済むと思ったけど、それは逆だった。ボクたちは⋯⋯この『新軸』という名の悪夢の箱庭から、外へ出ることはできないってことだよ」
自分たちが閉じ込められていることの残酷な証明。逃げ場のない檻の中にいるのだと気づかされた瞬間、背筋に凍りつくような悪寒が走る。
重苦しい沈黙が車内を支配する。ただ、エンジンアイドリングの微かな振動だけが、自分たちがまだ存在していることを伝えていた。
エリスの視線は、前方から微動だにしない。
悠斗は何か声をかけようとしたが、かけるべき言葉をどうしても見つけることができなかった。
なすすべがない――その絶望感が頂点に達する瞬間、助手席のノートPCからけたたましい警報音が鳴り響いた。
画面には「WARNING」の文字が狂ったように点滅し、車内を赤く染め上げる。
――ガシャンッ!!
凄まじい衝撃と共に、車の屋根が内側に大きく歪んだ。
「きゃあっ!」
エリスは悲鳴を上げ、反射的に頭をかばう。その重い衝撃音と共に、ルーフを歪めて着地したのは――。
「お⋯⋯お前は⋯⋯あの時の⋯⋯!」
悠斗が一人で新軸の街を彷徨っていたときに襲いかかってきた、あの異形。
規格の違う手足をつなぎ合わせた壊れたアンドロイドの複合体が逆に折れた関節をギチギチと鳴らしながら車体にへばりついている。
それは、まるで巨大な『蜘蛛』のような不気味なシルエットとなって、悠斗たちを覗き込んでいた。




